【Q1】雑念が止まりません! →回答へ 他人と比較することは出来ませんが、私はどうも雑念が多過ぎるのではないかと思います。 歩行禅も座禅中も雑念や妄想ばかり多くて嫌になります。いっそのこと考える時間を設けて、それ以外は一切考えないようにできたらいいのですが...。 どんな工夫をすれば雑念を止められるでしょうか。 【Q2】歩行瞑想の速度 →回答へ 60代の男性です。平衡感覚が悪くなってきたのか、歩行瞑想のときにフラつくことがあります。それで「(手が)伸びた」「触れた」とサティを入れて壁に手を突き、体を支えて足の感覚に集中しています。 支えがないと細かな微妙な感覚を観ようとすると、ふらついて集中しにくいのです。ふらつかない程度に速めの歩行瞑想をした方がよいのか、ときどき迷いが出ます。 【Q3】癒しと瞑想 →回答へ 私はヒーラーの仕事を開業しようとしているのですが、同時に今、ヴィパッサナー瞑想にも強く惹かれ、この瞑想の必要性を感じています。 ヒーラーの仕事は自分の天職と感じていますが、ヴィパッサナー瞑想とどのように統合させていったらよいのでしょうか。 の仕事は自分の天職と感じていますが、ヴィパッサナー瞑想とどのように統合させていったらよいのでしょうか。 【Q4】日常生活のサティ →回答へ 瞑想中ではなく、普通の仕事や家事をしているときのサティはどうしたらよいですか? 【Q1】雑念が止まりません! このページのトップ ●他人と比較することは出来ませんが、私はどうも雑念が多過ぎるのではないかと思います。 歩行禅も座禅中も雑念や妄想ばかり多くて嫌になります。 いっそのこと考える時間を設けて、それ以外は一切考えないようにできたらいいのですが...。 どんな工夫をすれば雑念を止められるでしょうか。 【A1】止めるよりも、正体を知る: ☆雑念や思考を止めることはできないと考えておいた方がよいでしょう。 人間の頭の中はいつでも妄想だらけなのです。 外界から情報が入力されると必ず思考や連想が働くように設計されているので、生きている限りいわゆる雑念が停止することはないのです。 もし思考を本当に止めたければ方法は2つあります。 @は、サマタ瞑想のサマーディを完成すること。 そのときの瞑想対象と合一状態を作ってしまえば、思考は停止します。 サマーディが完成しますと、心の散乱状態は完全に静まり、瞑想対象以外には何物も存在しなくなります。 Aは、ヴィパッサナー瞑想のサティ(Sati)の技術です。 眼耳鼻舌身意の六門から情報が入力された瞬間にサティ(気づき)を入れて、後続の思考を切断してしまうのです。 イメージや思念が最初の1個目で終了し、その後になにも連鎖しなければ<思考>や<妄想>とは言えません。 五感で知覚した現象も意門の雑念もすべて、そのまま気づいて見送ってしまうので、サティが続く限りあらゆるものが一瞬にして過ぎ去り、それっきりになります。 雑念が止まるというより、イメージや思考の連鎖状態になりようがないのです。 @のサマーディの完成は、かなり訓練しなければ達成できない難かしいものです。 仮に完成しても、一時的に煩悩が遮断されるだけで、サマーディが醒めれば元の木阿弥、初期状態に戻ってしまうでしょう。 私たちが目指すべき究極の到達点とはならないでしょう。 「思考が止まった」 「対象と完全に融合し合一した」 …たしかにそれは素晴らしい特殊な意識状態の経験ですが、心の汚染に一時的な蓋をかけているだけで、心のプログラムを書き替えてしまうような効力はないでしょう。 私たちが必要とするのは、Aの、Sati(気づき)です。 妄想にすぐ気づいて見送ってしまえばよいのです。 妄想を嫌うこと自体が、『あるがままに観察する』ヴィパッサナー瞑想の本質から外れます。 もし雑念を止める工夫をすれば、それは『あるがまま(の雑念状態)』を否定し、ねじ伏せようと戦っていることになります。 <集中した心を集中した心と知り、乱れた心を乱れた心と知る>と『大念処経』に説かれています。それが純粋観察(ヴィパッサナー)の正しい実践方法でしょう。 ああ。妄想を嫌がっているのだ。→「嫌がっている」 そうか。妄想が多いのでイライラしているんだ。→「イライラしている」 と、サティを入れていけばよいのです。 好き嫌いの判断をしないで妄想をよく観れば、自分の煩悩が露わに浮き彫りにされていることに気づくことができます。 あるがままの現状に気づけば、正しい自己理解が生まれ、離欲することができるようになるでしょう。 煩悩に気づいて、無くしていくのがヴィパッサナー瞑想なのです。 【Q2】歩行瞑想の速度 このページのトップ ●60代の男性です。平衡感覚が悪くなってきたのか、歩行瞑想のときにフラつくことがあります。それで「(手が)伸びた」「触れた」とサティを入れて壁に手を突き、体を支えて足の感覚に集中しています。 支えがないと細かな微妙な感覚を観ようとすると、ふらついて集中しにくいのです。ふらつかない程度に速めの歩行瞑想をした方がよいのか、ときどき迷いが出ます。 【A2】理想の実現ではありません ヴィパッサナー瞑想では、「かくあるべし」を具現化していく<理想型の追求>という発想はありません。 今、自分が経験している事象をあるがままに観察するのが大原則です。 したがって足の悪い方でもステッキを突きながら歩行瞑想ができるのです。その場合、ステッキを突く動作と足の動きの両方にサティを入れるべきか、ステッキの手の感覚は無視すべきか、はケース・バイ・ケースです。 ステッキを突くのも壁に手を突くのも同じことで、フラつきの問題が深刻なら、壁に手を突く動作にサティを入れながら歩行瞑想をしてもよい、と私は考えています。 中心対象の足や腹部に集中してもしなくても、体が動くときのセンセーションを切れ目なく捉え続けるならば、立派なヴィパッサナー瞑想になります。 一瞬々々変滅していく身体現象の観察が、そのまま妄想を離れる訓練にもなっています。 ここでは、壁に手を突くか否かよりも、なぜゆっくり歩くのか、その意義を理解しておくことが大切でしょう。 ヴィパッサナー瞑想では、大ざっぱな動きから始めて、身体のセンセーションをできるだけ細かく感じようとします。 微細なものまで正確に見ようとする努力が、自然に心の精度をアップさせていくからです。 注意してよく観察すると、その対象の本質まで直観する洞察力がだんだん養われてきます。智慧が成長してくる所以です。 こうして、体の現象に対する一瞬々々の知覚力を高めていく努力が、気づきとサマーディの両方を成長させながら、身随観の修行を深めていきます。 注意して頂きたいのは、動作をあまり意図的に遅くし過ぎないということです。微細な感覚を精確に感じ取ろうと集中していった結果、自ずからスローな動きになると考えてください。 そのときの自分の知覚力を無視して、ただ機械的に速度をゆっくりにし過ぎると、微細な感覚の変化がとらえ切れず、かえって雑念や妄想が増えてしまった、という人も多いのです。 基本的にヴィパッサナー瞑想では、なにかを意識的にコントロールすることはしません。 法として自然に生起してきた現象をあるがままに観察し、その本質を洞察する、というのが原則です。 したがって知覚力が鈍いのに、ふらつきと戦いながら敢えて緩慢な歩行をするのはよくないでしょう。 鈍いときには大ざっぱな感覚しか知覚できないのだから、右、左、右、左、と速めに歩いて、ダイナミックに伝わってくる感覚に気づいていけばよいのです。それが「あるがまま」なのですから。 歩行感覚が明確なら、気づきも明確になり、明確さが持続すれば集中も高まって、スローな動作の感覚の変化や推移もハッキリ捉えられるようになっていくでしょう。 「その時の状態」がそのときの修行形態を臨機応変に決めていきます。 いかなるものも同じ状態を保つことができず、必ず変化してしまう≪無常≫の法則が働いているのです。 【Q3】癒しと瞑想 このページのトップ ●私はヒーラーの仕事を開業しようとしているのですが、同時に今、ヴィパッサナー瞑想にも強く惹かれ、この瞑想の必要性を感じています。 ヒーラーの仕事は自分の天職と感じていますが、ヴィパッサナー瞑想とどのように統合させていったらよいのでしょうか。 【A3】退院して帰っていくのは...? 仏教は苦(ドゥッカ)から全面的に解放されていくためのシステムです。 病気で苦しむ人は、まず当面のドゥッカ(苦)である病気から解放されなければなりません。 その意味でヒーリングは、さまざまな病気に苦しむ人々を救う尊い仕事です。 しかしヴィパッサナー瞑想の立場から申し上げたいのは、病から癒された人々の多くが、元気いっぱい欲の世界に帰っていくことです。 どのような病気も心と無関係には発症しません。 外傷や食中毒、交通事故などですら心の状態に大きく左右されます。 不満やストレスで押しつぶされそうな人と、幸福感と感謝の心で満ち溢れている人では、免疫力や瞬間的な反応行動、あるいは危険を事前に察知する直感力など様々な点で大きな差が出るのは当然でしょう。 肉体の病気は心から始まり、それは元を正せば、人生を生きていく基本姿勢、つまり日常の出来事をどのように受け止め、どのように反応してきたか...、に問題があったから発生しているのではないでしょうか。 妄想する心のシステムに変化が起きない限り、問題は際限なく発生し続けるし、人は病み続けるでしょう。 大胆な言い方になりますが、ヴィパッサナー瞑想の根本に関わった医療でない限り、いかなる医療もただ当面の苦しい病状を消滅させるだけの対症療法にしかならないと思います。 ヒーリングや医療行為が虚しいものだと言うのではありません。必要不可欠なことであり、やり甲斐のある仕事です。しかし、 人はなぜ病むのか...、 という根本問題を視野におさめて医療を考えるならば、ブッダの教えを度外視することはできないのではないでしょうか。 これがヴィパッサナー瞑想の立場からの基本的理解です。 さまざまな事象を認知し、受容し、経験し、それに対する反応を起していく過程で、不適切な誤ったリアクションを繰り返す人々は、必ず自分自身を攻撃し、病んでいく結果になるでしょう。 なぜ病んだのか。 その自己理解が、とても大事なポイントです。 物事をあるがままに観て、正しい反応行動が取れるように人生態度が変化していくことこそ、病からの根本的救済です。 そのような医療のできる最高のヒーラーになってください。 【Q4.日常生活のサティ】 瞑想中ではなく、普通の仕事や家事をしているときのサティはどうしたらよいですか? 【A4.自覚のサティ】 初心者には、日常生活でサティを入れることは難しいものです。また、仕事中など、内容に集中しなければ出来ない複雑な作業中は、瞑想中のサティのように思考を止めて、事実と妄想を仕分けることは困難ですし、そのレベルでサティをしてしまうとその仕事自体が出来なくなってしまうでしょう。 そのときは『自覚のサティ』を行います。 自覚のサティでは、瞑想中に行う『法の確認のサティ』のように厳密に事実と妄想、概念を仕分ける必要はありません。 自分が何をしているか、が解る程度のラベリングがつけられれば十分です。 「(本を)読んでいる」、「(景色を)見ている」、「食べている」、「考えている」……というようにおおまかなラベリングをつけていきます。このとき中心対象は作らず、感覚をじっくりと感じることもしません。ただ、今、自分のしていることを自覚することだけをします。日常生活ではこれだけでも十分サティの効果が得られます。 また、日常生活でのサティには、もう1つポイントがあります。それは、最も気づくべきなのは何か、ということです。 心をきれいにすることを目標とするヴィパッサナー瞑想者にとって、一番気づかなければならないのは、自分の不善心処です。 特に日常生活の中での不善心処に気づくことは、非常に大切なことなので、時間のあるときに、「よし、不善心が出てきたら、必ず気づくぞ!」と何度も自分に言い聞かせて、心の奥深くにインプットしておきます。 すると、不善心が出たときに、敏感にサティが入るようになります。 不善心に気づくことが出来れば、すぐにそれを止める努力が出来ますので、例えば怒りで口喧嘩になるなどのトラブルがなくなっていきます。 このページのトップ
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