やがては空を飛ぶまでに

 

 だらだらと修行に時間をかけず、わずか一週間で悟りを開いた目連尊者のような天才型の仏弟子がいる。
 中でもとりわけ早かったのは、ティッサ長老の下で出家した七歳の少年僧である。

 

 沙弥の得度式で頭を剃られている間、少年は長老に教えられたとおり一瞬一瞬の対象に心を集中させてヴィパッサナー瞑想をしていた。
 どのくらいの時間だったのか、少年の頭がきれいに剃り終わったとき、彼はすでに究極の悟りを完成した阿羅漢になっていた。

 

 こういう話を聞くと、いつも雑念や眠気に悩まされて修行している私たちは、 
  「いったい自分は何をやっているのだろう」
 と、愕然としてしまう。
 だが落胆する前に自分がどれほどの修行をしてきたのか問うべきであろう。
 今世だけでなく長い輪廻のなか、無限の過去からの経験の連続、という時間規模(タイムスケール)で振り返ってみる必要がある。

 

 この宇宙のすべての事象は因果関係によって成り立っている。
 なにかに熟達するということは、必ず相応の努力と修練が原因になっている。
 順調に修行が進むのも進まないのも、すべては過去に放ってきた自分の行為のエネルギーの結果なのだ、と正しく理解しなければならない。

 

 スポーツでも音楽や囲碁将棋でもよく練習したものは必ず上達する。
 天才の圧倒的な力量も、はるかな過去世から積み重ねてきた努力精進の所産なのだ。
 エネルギーをある一点に集中させるそのスタートが私たちより早かっただけ、と考えると分かりやすい。

 

 もう一つ例を引こう。

 

 ある神霊の導きでブッダに出会った遍歴の行者サビヤも、出家後短い時間で悟った聖者の一人である。

 

 あるとき、高貴な家柄の三人の息子がともに出家して比丘になった。
 森の中に住み刻苦精励して修行したが、わずかな悟りすらも得られなかった。
  「こうして托鉢で食を得ながら命を永らえることに汲々としている者に、出世間の悟りの境地など得られようはずもない。煩悩の束縛から自由になれぬまま凡夫として死ぬのは恥ずべきことだ」
 と、意を決すると山中に鋭くそそり立つ岩の上に梯子をかけ、登りおわるやその梯子を谷底深く捨ててしまった。

 

 悟りを開くか、このまま飢えて死ぬか。
 文字通り決死の覚悟で三人は修行に入った。

 

 その日のうちに年長の比丘が解脱して阿羅漢となり、六種の神通力を得た。

 

 神足通で空を飛び托鉢で得た食物を分かち合おうとしたが、残る二人はそれを断り、
   「もうここには戻らないでください」
   と告げて修行を続けた。

 

 二、三日後に二番目の比丘が悟り、不還果の聖者となった。

 

 きり立つ岩の頂上に一人残った最後の比丘は、懸命に修行を続けたが、断食断水の続いた七日目、ついに悟れぬまま命終した。

 

 死ぬと直ちに欲界の天に再生し、天界での長い寿命が尽きると再び人間界に転生し、女修行者の胎から生まれてサビヤと名づけられた。
 長じて遍歴の行者となった彼に、
 「サビヤよ……」
 とブッダに会いに行くことを勧めた神霊こそ、あの岩の上で二番目に悟って不還果を得たかつての法友であった、とコメンタリーは伝えている。

 

 これがサビヤの前世譚である。

 

 どうだろうか。
 冒頭の七歳の阿羅漢ほどではないが、前世で餓死するまで精励努力したサビヤの悟りが早かったのも頷けることである。

 

 ひるがえって私たちは、
  「どうもヴィパッサナー瞑想法はあまりオモシロクないな。こんな修行で本当に悟れるのだろうか」
 などと言ってテレビを見たりしてはいないだろうか。

 

 大念住経の中で、ヴィパッサナーは「涅槃を見るための唯一の道である」とブッダが言明しているのを思い出していただきたい。
 たとえ雑念と闘いながらでも、現在の瞬間に気づこうと努力する一瞬一瞬の心のエネルギーが、やがて必ず私たちを解脱に導いてくれる。
 過去の聖者たちも皆そのようにしてきたのだから。  

 

 私たちに悟りの光が現れますように……。