人間関係をめぐって (3)

 

Aさん:先日カウンセラーの先生に罪悪感があるのではないですかと言われ、それで思いついたことがあります。
  中学校の時のクラスに、今考えるとちょっと知的障害があったような子がいました。友達もなくて私にくっつこうとしてきて、最初は付き合っていたのですが話しも面白くないしウジウジするしで、電話がきたりもしたのですが離れちゃったのです。そしたらその子はクラスで孤立してしまって・・・。今はすごく酷いことをしたって思っています。もしその子に会えれば謝りたいけれど、もう一生会う機会もないだろうと思われるし、どうしたら良いのかって言うことです。
  それからもう一つ、瞑想している時にサティをするのがすごく苦しくなってきて、まるで孫悟空の頭の輪のような感じがしてググーっと押さえつけられているような気がする時があります。
  私は正しく修行の道を歩んでいるのでしょうか、間違ってないでしょうか。

 

アドバイス:
  まず、頭の締めつけの問題ですが、おそらく心に原因のある現象だと思います。サティを入れるのが苦しくなるということは、事実をありのままに観るのが苦しいということです。実際、孫悟空の頭の締めつけ状態では瞑想どころではないでしょう。まともなサティが入ろうはずもなく、結果的に事実から目を背けることになります。
  オーソドックスなサティの瞑想はできなくても、事実から目を背けている現実を自覚することができれば、「あるがままの事実」に気づくことができたとも言えます。
  コジつけのようですが、自分には、目を背けて抑圧している何かがあると認め、その問題に向き合っていければ、あなたは「正しく修行の道を歩んでいる」と言ってよいでしょう。真実を見ようとせず、目を背け続けることが、道を踏みはずし、間違っている状態です。 
  では、いったい何から目を背けているのか、それを見出すことがなすべき仕事です。そして、その答えの一つが、今おっしゃられた知的障害の子の一件かもしれません。
  中学生のことですから、優しくなりきれなかったご自分を過度に責めることもないとは思いますが、孤独になっていく友を見捨てたかのような痛みを感じている事実があるのですから、放置しておかずに完全に終わりにすべきでしょう。
  どうしたら良いでしょうか。
  これは、現実に探し出して詫びを入れるという問題ではありません。「酷いことをしてしまった。会えるものなら会って謝りたい」と忸怩たる思いに独り苦しんでいるあなたの心の中をきちんと整理して、過去に終止符を打つ修行をやるべきです。つまり後悔を終わりにするための「懺悔の瞑想」がやるべきタスクです。
  懺悔の瞑想のポイントは、大きく3つあります。
  @素直に自分の非を認め、謝ること。
  A自分はひどいことをした悪い人間だと自分を責めるのではない。ダンマ(理法)を知らなかった自分の愚かさを恥じ、無知だったことを詫び、懺悔する。
  Bこれからは五戒を守り、きれいに生きていくことを誓って赦しを乞う。二度と同じ過ちを繰り返さない、と未来志向のエンディングで締めくくる。
  具体的な文言を考えてみましょう。
  「**君、中学生の時に君を孤立させてしまったことを謝りたい。済まなかった、赦してくれ、と心からお詫びしたいのです。あのクラスでは、君には僕以外の友達は誰もいなかった。君に残されたたった一人の友だったのに、僕は君を孤独に追いやってしまった。付き合うのが何となく面倒になり、結果的に君を一人ぼっちにさせてしまい見殺しにしてしまったのだ。なんて酷いことをしてしまったのだろう。どんなに君は寂しく、孤独な思いをしていたのだろう・・と、あの時の君の心中を推察して、本当に申し訳ないことをしてしまったと心から悔やんでいる。
  赦してください。愚かだった僕がやってしまったことを今、心からお詫び申し上げたい。あの頃は、仏教のダンマも知らなかったし、因果論も慈悲の瞑想も何も知らなかったのです。無知ゆえに犯してしまった、愚かで冷たい仕打ちを、どうぞ赦してください。
  今どうしているのか知る由もありませんが、幸せな良き人生であることを心から祈りたいです。そして、自己中心的で、優しくなれなかった自分の愚かさと無知を、心から謝り、赦してくださいと土下座したいのです。ごめんなさい。  今後二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓います。これからはブッダのダンマを拠りどころにして、殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘を吐かない、酩酊しない、と五戒をしっかり守り、きれいに正しく生きていくので、無知ゆえに犯した自分の仕打ちを赦してください。申し訳ありませんでした・・」  これは思いつきのサンプルにしか過ぎないので、この文言をそっくり真似る必要はまったくありません。これと同じような意味になる言葉をご自分で考えて、納得できる懺悔の文言を作ってください。
  真剣に、感情を込めて、少しウルウルしながら謝るくらいがよいでしょう。懺悔の瞑想は、自責の念や後悔を情緒的に解放することが主たる目的ですから、心から実感を込めて納得するまで真剣に行うのです。すると「もういい。これだけ謝ったんだから、これは終わりにして良い」と腹の底から感じられるようになるでしょう。謝って、謝って、謝まり抜けば、過ぎ去ったことは終わりにしてよいのだ、という気持ちに自然になれるのです。だから、過去から解放される修行と呼ばれるのです。
  例えば、私たちが何か重大な被害を受けたとして、加害者がそれを謝りに来たとしましょう。その人が本気で土下座し、泣きながら「申し訳なかった。・・赦してください」と、心の底から謝っていることが伝わってきたらどうでしょうか。ああ、この人は本気で、心の底から謝っているのだ・・と感じられれば、たいていの人は赦すのではないでしょうか。
  あなたの場合も、その知的障害の方に心の底から謝って、真剣に幸いを祈らせていただけば、その誠心誠意が必ず伝わるだろうし、赦されるだろうと思います。こちらの気が済むまで、終わりにしていいと心が納得するまで、懺悔の瞑想をおやりになるのです。中途半端なやり方では蒸し返しが起きてしまいますが、徹底すれば必ず過去から解放されるでしょう。
  もしそれでも、どうしても気が済まないのであれば、知的障害者の施設などへボランティアに行き、そこで出会った方を、かつての友だと思って言葉をかけ、お世話するのもよいでしょう。同じ人に対してやれなくても、カルマ的にはそれで償いになると考えてよいのです。
  懺悔の瞑想はヴィパッサナー瞑想の一部です。サティの瞑想も、慈悲の瞑想も、一点集中のサマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想の一部です。過去に捕われていない人はいないのですから、この機会に、懺悔の瞑想をしっかり修行することをお勧めします。

 

 

Bさん:瞑想会には初めての参加ですが、これまで本で読んだりして瞑想の実践は日常生活でもしてきました。それで、欲のようなものはけっこう抑えられていると思うのですが、今度は世間とのズレのようなものを感じるようになってきました。例えば、食べることにしても、世間では欲を刺激するような情報が溢れていますが、私はそれに全然魅力を感じないとか。そんなズレ、違和感が最近どんどん強くなってきているのですが。

 

アドバイス:
  「類は友を呼ぶ」と言いますね。同じ波動のものが互いに響き合い惹きつけ合うという法則ですから、波動がズレてしまうと群れることは自然になくなります。こちらが煩悩路線で生きていればそれに相応しい人と知り合い親しくなるし、正反対のダンマ的な生き方を始めれば煩悩フレンドとは自然に縁が切れていきます。考え方が変わり、生き方が変われば、自分を取り巻く人の流れも変わるし、好みも価値観も全て変化していくのは当然なのです。
  私は20年余年、多くの瞑想者を見てきましたが、生きるのが苦しくなって瞑想にたどり着いている方がとても多いのです。その苦しみが何に由来しどこから来たのかと言えば、自己中心的な考え方や煩悩路線で生きてきたことに起因しているわけです。そこで瞑想を始める、心がきれいになっていくし、仏教の考え方にも共感の度が深まっていきます。悪を避け善をなし、アンチ煩悩の浄らかな生き方に変わってくるにつれ、苦が減ってきます。人生観も価値観も生きていく拠りどころが変わってくるので、観るものも読むものも出かけるところも当然変わってくるし、今までの煩悩路線の友人とは波動が合わなくなり、ズレてくるし違和感が強まっていくのが自然な流れです。
  これは誰にも避けられない通過点であり、あなたの修行が順調に進んでいる強力な証しと言ってよいでしょう。瞑想をきちんとやり、仏教を学びながら、これまでの煩悩世界に完全に順応しながら面白おかしくやれるとしたら、そちらの方が変なのです。あなたは修行が正しく進んでいるとレポートされていると言ってよいでしょう。
  グルメやバイキングで満腹するまで食べ放題をやりながら酒を飲み、良い瞑想ができる・・。そんなことはあり得ません。瞑想するということは、身と心を律していくことであり、欲望の論理で展開するこの世とソリが合わなくなるのは当然であり、苦しみを寄せつけない人生を生きるためには不可避の道と仏教は考えています。
  このターニングポイントの過渡期で人の流れが大きく変わり、これまでの悪友・ポン友・煩悩フレンドとは縁が切れ、友達が誰もいなくなるのも多くの方が経験することです。寂しくなってしまいますが、心配ありません。昆虫でも変態といって、芋虫から蛹になりさらに蝶になる時は大変なのです。醜い芋虫が美しい蝶になるには、それなりの苦しみの代価を支払わなければなりません。大変ですが、孤独は一時的なものです。遠からず、新しい良き友が得られます。価値観も生き方もお互いに共感し合える素晴らしいダンマフレンドと縁ができるでしょう。これは誰もが経験する通過儀礼のようなものだと思ってください。
  この世は基本的に強く思っていることが現実化してくる業の世界ですから、善き友に出会いたい、法友に恵まれてよかったと常に思っていれば必ずそうなってきます。キリスト教でも「求めよ、さらば与えられん」と言っていますが、ブレないで求めれば必ず得られる法則です。そういう強い意志、専門用語ではチェータナー(cetan?)と言いますが、明確な強い意志を出力し続ければ必ず現象化し、具現化してくるということです。この世の、現象が生じて滅していく世界はそのような基本構造になっていますから、心のきれいな素晴らしい法友に恵まれて嬉しい!といったイメージを持ち続け、常に善心所モードで生きていくことが大事です。頑張りましょう。

 

 

Cさん:受容する力はどのようにしてつけていけるのでしょうか。

 

アドバイス:
  受容する力というのは、ネガティブなものをいかに受け容れることができるかという能力です。
  楽しいこと、幸せなこと、気持ちの好いことを受け容れるのに努力は必要ないし、それを受容する力などという表現はあり得ません。嫌なこと、困ったこと、ネガティブなこと、受け容れられないことを突きつけられた時に、さあ、どうするか、という受容の問題が出てきます。
  嫌なものを遠ざけ、気に食わないものを叩き潰し、困ったことから逃げ出せるなら、そうしても良いでしょう。動物たちも皆そうしています。しかし、いくら頑張ってもあがいても、逃げることも抵抗することもニッチもサッチもいかない状態にハメられ困却することが、人生にはどうしてもあるのです。業が噴き出るというか、業の力で生起してくる事象からは逃げようにも逃げられないという印象があります。こうなると行き詰まって、どん底状態の絶望感に襲われるのが普通です。
  どうしたらよいでしょうか。
  それは、逃げ切れなかったら、受けきっていくのです。いかんともしがたく、手の打ちようがないのですから「認知を変えるしかない」と悟ることです。法としての存在はただあるがままで、それを苦と受け止めるのも楽と受け止めるのも認知の問題です。頬を思いっきり平手打ちされるのはいかがですか?痛いし、とんでもなく嫌なことだし、苦ですよね。でも、一発叩かれるたびに100万円くれると言われたらどうですか?お金に困っている時なら、何発でも喜んで叩いてもらいたくないですか。苦であるはずの痛みが、舞い上がりたくなるような楽になりませんか。認知を変えるとは、例えばこんな具合です。頬を平手打ちされる行為も、その瞬間の痛みも、何も変わらないのに、苦楽が逆転することもあるのです。

 

 

Cさん:逃げて良いケース、逃げるに逃げられないケースというのはどのようなことでしょうか。

 

アドバイス:
  基本的に、どんな人に出会うのも、どのような事象に遭遇するのも、それ相応の原因があり、業の力が働いていると考えられます。生命というものは、不快なものを避け、快なるものを求めるように設計されているので、嫌なものや苦を与えるものに対する反応は、攻撃するか逃げるかのどちらかです。だから、逃げられるなら逃げてもよいし、わざわざ苦しい人生を選択する必要もありません。古来から「君子危うきに近寄らず」とも言われてきました。
  しかし、避けようにも避けられず、逃げようにも逃げられないのが、業の力でありカルマです。微弱な業は縁がつかないように回避することもできるでしょうが、強力な重たい業にはいかんともしがたい力が働いてしまうのです。そうなったら、腹をくくるしかありません。
  例えば、すごく嫌な人が家族だったり、絶対に辞めたくない会社の直属の上司だったら、顔を合わせない訳にはいかないでしょう。夫婦だったら離婚することもできますが、親子だったらもっと別れづらいですね。どうしてもソリの合わない上司を嫌って転属願いを出し、翌年希望通り逃げ出すことに成功した人がいます。ところが、その目の上のタンコブだった上司も転属となり、その行き先がなんと、同じ新しい部署だったという話があります。
  逃げることのできない因縁というか、長い人生の中ではそういう事態に追い込まれることもあるのです。あるいは、背が低いとか高いとか、女に生まれたのは嫌だとか、そういう条件をいくら嫌がっていても、努力でどうにかなるものではありません。逃げられないのです。
  また、若い頃には「醜形コンプレックス」という、自分は醜いのではないかという思い込みに囚われる人もいます。鏡で自分の顔も見られなくなってしまうこともあるようです。変えようのない先天的資質を欠点として否定してしまえば、苦しみ続けることになってしまいます。その苦しみを乗り超えるには、嫌っているものを好きになるよう、認知を変えるしかないでしょう。

 

 

Cさん:
  では自分の性格についてもそのまま受容するのでしょうか。

 

アドバイス:
  性格については、変えられるものもあれば、そのまま受け容れて活かすべきものもあるでしょう。例えば、発達障害や自閉症スペクトラムに起因する性格傾向に関しては、変更できない先天的資質として受け容れるのが原則です。もちろん輪廻転生を視野に入れた長期的展望で努力すれば変更可能ですが、今世で変えることはできません。
  後天的に繰り返した反応パターンに由来する性格は、断固たる決意をもってブレずに取り組めば、望むように変われるでしょう。この世のことは、煎じつめれば業の所産であり、万物が無常に変化するのですから変わらないものはありません。
  しかし何事も適材適所ですから、あるがままの自分で輝ける場所が必ずあるものです。例えば、細かな小さなことにこだわる性格の人は、几帳面さを要求される仕事では素晴らしい才能を発揮するでしょう。その反対に、おおらかで人に好かれるのですが、大雑把なザルのようなタイプだったら緻密な仕事には向きません。細かなミスも許さない完璧主義者は敬遠されることもありますが、そうでなければ芸術の分野ではいい仕事ができないかもしれません。
  このように、美点と欠点は表裏の関係です。どんな性格であっても輝ける場所が必ずあり、ものごとの表と裏の二面性を観ることができれば、認知を変えやすく受容力があるということになります。自分の性格や資質を気に入らないと感じている人が少なくありませんが、そのように評価しているのは何者で、何を根拠にそのように判断しているのかを問わなければなりません。エゴの猿知恵で愚かな評価をしていないか・・ということです。
  長年に渡って多くの瞑想者に接してきましたが、どうしてそんなつまらないことを気にするのだろうと思うことが多々ありました。本当に些細なことにこだわって、悩んだりコンプレックスにしている人が多いのに驚いています。自分を客観的に正しく評価することがいかに難しく、エゴの視点や視座を柔軟に変えるためにはヴィパッサナー瞑想をやるしかないと感じてきました。
  他人に迷惑や苦しみを与えていないのであれば、自分に与えられているものに満足するのは才能であり、幸福になれる秘訣です。眼前の対象が問題なのではなく、それをネガティブなものとして認知してしまう精神が問題なのです。自分に与えられている身体的特徴や性格傾向というものは、長い輪廻の中で自分が作ってきた業の結果なのだと心得なければなりません。そして生まれてこの方、何を思い、何を話し、何を行なってきたのかが新たな業を作るし、これからそれを強化することも変更することも可能なのだと自覚しなければなりません。そのために瞑想と仏教の学びがあるのです。
  どんな失敗にも無限の学びがある・・と理解されてくれば、変えるべきものとありのままに受容すべきものも自ずから見えてくるでしょう。(文責:編集部)