ヴィパッサナー瞑想と心の変化(2)

 

Aさん:自分が大切にしているものやきれいにしているものを他人に汚されたりするとどうしても怒りが出る時があります。サティでその場は収まっても同じことがあればまた堂々巡りです。そんなにきれいにしなくてもと頭では分かっていても、脅迫的なものでどうしても治まらないところがあって、そういう性格を自分でも治していきたいと思っています。

 

アドバイス:
  サティを入れて妄想を止めそれ以上エスカレートさせないというのは大事なのですが、それだけでは完全には治せませんから、反応系の修行をする必要があります。それは結局発想の転換にもっていくことです。
まず第一に視点をちょっと変えてみます。
  大切にしているものを汚されたら嫌だという人はけっこういるでしょう。あるいは、汚れは気にしないけれど音に対しては敏感だというように、これまでの人生の積み重ねによって人それぞれにそのこだわり方や心の癖に違いがあります。
  また、ひと口で汚されるのが嫌だと言っても、誰が汚したのかということでまた違ってきます。他人に汚されたらすぐに怒るような人でも、子供や孫、あるいはペットだったらどうでしょうか。
  私の場合を例にあげてみましょう。私はけっこうきれい好きの方で、もし自分が一人でコーヒーをうっかりこぼしたりすると、「やっちゃたか!」とか「あーあ、汚したか!」とか、わりとそういう反応が起きるタイプでした。
  ところが、瞑想合宿の時に気づいたのですが、そういった汚れが全然違って見えるのです。喫茶コーナーというのがあって、コーヒーの粉やらなにやらでけっこう汚れた跡を見ても、「10日間みんなここでサティを入れながら喫茶の瞑想に頑張っていたのだな・・。まさにツワモノどもが夢のあとだ」と言うような気持ちが湧いてきました。
 私には子供はいませんが、合宿という状況では父親の立場なのですね。また生徒さんにとっては、私のインストラクションしかありませんから子供とも言えますし。そうすると、合宿が終わったあとのコーヒーのシミやら何やらがかえって可愛く見えてきました。汚れたと言えば言えるのですが、汚されたという感覚はまったくなくて、むしろ「こうしてみんな頑張ってくれたんだなあ・・」というような気持ちしか起きないのです。
 それは自分でもちょっと意外でした。そのシミがみんなが修行した証し、成長した証しに見えるという経験をしてから、汚れに対しては発想が変わりました。子供が柱に傷をつけたり落書きしたりは、まさに子供が元気いっぱい遊んだ証しです。そしてその傷跡は育っていった夢のあとみたいなものと思ってはどうでしょうか。
  「一水四見」という言葉があります。天人は水を水晶の床と思い、人間は水と見、餓鬼にとっては血膿であり、魚は棲みかとしている。つまり対象は一つでも見方によって認識が変わるという喩えです。視点が変われば同じものが全然違って見えるということですね。ここのところのプログラムの書き換えができれば、まさに一瞬にして終了するくらいの話です。
  第二は、それにこだわるようになった原因を遡って探していくというやり方があります。すべての習慣的な心癖にはそれが作られてきた歴史があるわけですから、それを探究してみます。もしかすると、汚れに対して決定的に嫌うことになった幼い頃の体験があるかも知れません。汚したことでこっぴどく叱られたり虐められたりして子供心に大きな傷痕を残したというような、決定的に汚れを忌避する原因があれば、それが無意識のうちに現在に影響を及ぼしていることが考えられます。もしそういうことがあったと分かったなら、原点に遡って徹底的に理解して受け容れ、その上で手放してしまう、そうすれば終わりになります。
  最後は、視点の違いをも越えるような、根本からの発想の見直しです。
  生きるというのは汚れること、逆に無菌状態は異常だということを理解しましょう。たとえば、花粉症などは日本と比べてより自然に近い暮らしをしているような所では起きません。なぜなら、ひと言で言えば人間も動物ですから。つまり、本来雑菌に囲まれて免疫を働かせながら生きていくように設計されているということです。病気の治療のために求められているわけでもないのに、無菌の状態や限度を超えて何でもかんでも抗菌製品を好むというのはむしろ異常です。雑菌に対する免疫が、その本来の仕事がなくなったために今度は花粉にまで反応するようになってしまったということです。もちろん、わざわざ汚い環境にする必要はないですし、病気その他で免疫力が低下している時や、災害の後などで伝染病の蔓延が憂慮される場合には、それ相応の対応が必要なことは言うまでもありません。
 私の学生時代に銭湯へ行っていた時のことです。遅い時間に行くともう湯船はけっこう汚れています。でも入らなくてはならないので「よしそれなら」と思って発想を変えました。
 「純粋培養の世界にばかり生きていたのでは、生命力が弱ってしまう。みんな一日働いて流した汗をきれいにするために汚れていったお湯ではないか。ここにはみんなの垢が浮いているかもしれないけど、それがまさに雑草のように強く生きていく生命力の象徴なのだ」と。そう発想したらまったく嫌ではなくなりました。
  自分なりの発想の転換をいろいろ試みてください。そうすればきっと新しい発見があって考え方の幅も広がり、人生への理解も深くなることでしょう。

 

 

Bさん:幼い時に体験した心の傷などはどのように解決していくのでしょうか。

 

アドバイス:
  もしトラウマと呼ばれるような心理的な傷を負っていたなら、きちんと理解して納得することが必要です。難しいことではありますが、それを乗り超えないと終りにできないでしょう。
  例えば、幼児の時に虐待された記憶があれば、どうしても親に対して良い感情は持てません。親の顔が浮かんだら「怒り」、また浮かんだら「恨み」とサティを入れればサッと離れられて、取りあえずは問題から遠ざかることができますが、少し時間が経つとまた出てきます。残念ながらサティの働きだけではこの構造は組み替えられません。何度でも蒸し返されてずっと続いていってしまいます。
  そこで、どうしてこのようなことになったのかを徹底して観ていくのです。例えば、親に虐待されるというのは、過去世からの因果関係があってのことに違いありません。そのようなネガティブな関係になってしまった因縁の流れを想像し、それに納得がいけば発想が変わるでしょう。「過ぎてしまったことだし、仕方がないことだ。私は私が受けたのと同じ苦しみを絶対に人には与えない。これからはただ前を向いて、未来を良くしていこう」とポジティブな反応が生じるものです。親の顔が浮かぶと必ず怒りや嫌悪が込み上がる反応パターンが変化し、組み替わったということになります。
  自分のネガティブな経験は、このようにまったく違う意味づけで受け入れることができない限り傷は傷のまま残り続けます。否定する心を一掃するのがポイントです。
  ただし、この作業はサティの瞑想とは別件の修行としてやらなければなりません。私はこれを反応系の修行と呼んでいて、人格を完成させる「戒」の修行の一環と考えています。在家の瞑想者にとって、これはサティの瞑想と車の両輪のように並行してなされるものと心得ておきましょう。

 

 

Cさん:ヴィパッサナー瞑想を通じてトラウマの克服が出来たらと思っています。サティだけでは難しいとのお話ですが、では具体的にはどういった過程を踏んでそうなるのでしょうか。また、そのポイントはどこにあるのでしょうか。

 

アドバイス:
  トラウマやコンプレックスという言葉は大まかな概念で、心に受けた傷の大きさ、深さによってその程度は千差万別です。自覚されているケースでは比較的傷が浅いのですが、重症の場合には、抑圧が深くなり本人の自覚にのぼらないというのが特徴です。 トラウマは精神医学で扱われるべきものですが、瞑想との関連でみると、@過去に問題があったことを自覚し、Aものの見方を変え、事実をありのままに受け容れることによって克服されていくケースがあります。これは心の清浄道に直結するもので、自我意識やエゴ感覚を弱め無くしていくことが重要なポイントです。「無我」の修行と言うこともできます。
  詳しく見ていきましょう。
  先ず、自覚されていないトラウマに苦しんでいるとします。このとき本人はなぜ人生がこんな苦しみの連続なのか分かっていません。トラウマ(心的外傷)の自覚を妨げているのは何かと言うと、エゴが自分を守るために、いわば自我の防衛反応としてトラウマなどどこにも無いように見せかけているのです。エゴが隠蔽しているので、エゴモードが強力である限りトラウマは浮上してきません。その結果、見事にトラウマの存在が見えなくなり自覚できなくなるのです。
  意識するのを拒んでいる張本人はエゴですから、エゴを弱め無くしていくことが取り組むべきタスクです。
  では具体的にどうすればよいのでしょうか。
  エゴを無くしていくことは、自己中心的なものの見方を無くしていくことであり、それは取りも直さず公平に、客観的にものごとを観ていく訓練に他なりません。これを私たちはすでにヴィパッサナー瞑想のサティの訓練として実践してきているのです。
  初心者は歩く瞑想や座る瞑想など身随観から始めますが、次に一瞬の心の状態とその変化プロセスを観ていく心随観に着手します。サティがうまくいくと、当然エゴ感覚が弱まってきますので、エゴが抑圧していたものの蓋が一瞬外れるということが起きてきます。強烈に抑え込まれていたトラウマが浮上する瞬間があって、それは物語の全貌がゆっくり姿を見せるといったものではなく、フラッシュバックのように原風景や最重要な出来事が一瞬浮かび上がるような具合です。もしその瞬間にサティを入れて、心に焼き付けることができたらどうでしょうか。抑圧されていたものが意識化される瞬間です。
  これは、どんな事実もありのままに観ていくサティの瞑想の真骨頂と言ってよいでしょう。一瞬一瞬のサティによって思考が止められると、思考モードから作られるエゴ感覚も弱められ一時的に消えます。すると、抑圧の蓋が外れてトラウマの所在に気づくことができるのです。隠されていたものが露わになり、無自覚だったものが自覚化され意識化されると、それだけで癒えてしまうこともかなりあります。
  「隠蔽」が主因だった場合には、正体が暴露されるだけで劇的に症状が消えていきます。しかし、苦しみの原因が自覚されただけでは克服できないケースも少なくありません。何が問題なのか分かったら、それに適切な解答や処置を与えなければ症状が続いてしまうケースです。トラウマによって個々別々の対応が必要ですが、すべてに共通しているのは「受容」することができるか否かです。
  そもそもトラウマとは、受け容れることなど到底できない、最悪の出来事に見舞われてしまった過去をもてあまし、強烈な心の生傷になっている状態です。心の傷に正面から向き合うことに耐えられないので抑圧されてしまうのですが、本心はそれに執らわれ続けているので、訳の分からなくなった苦しみに混乱しているのです。
  嫌う心、怒る心、否定する心がある限り、苦しみが根本治療されることはありません。しかしいくら打ち消し、どう抗ってみても、起きてしまった事実を変えることはできません。事実は変わらない。ネガティブに受け止める認知も変わらない。となれば、苦しみも終わらないのです。
  治るためには、起きたことは起きたこととして、心を変え、認知を変えて、受容できるかどうかの問題になるということです。絶対に許せない、受け容れられないと頑張っている限り、心の生傷が乾くことはなく、悲しみも怒りも続くでしょう。トラウマの根底にあるのは、受け容れることができない精神に帰着します。苦しみの渦中にいる方はここをまず押さえておきましょう。
  これを別の角度から観てみましょう。
  今日までトラウマとして残ってきたということは、これまでのご自身の生き方や、ものごとの受け止め方では駄目だったということです。つまり、過酷な言い方ですが、ものの見方が自己中心的と言うか、自分の視座やエゴの立場からの発想を転換する試みがなかったからでしょう。そうであれば、何らかの発想の転換がない限り、これまで通り苦しい人生が続いていくことになります。つまり、被害者であるエゴの立場から怒り否定し恨み続ける発想のまま、問題が解決し無傷の状態に癒やされていくことは困難というより不可能なのです。
  ネガティブな事実が変わらないのであれば、幸福になるためには、心を変え、経験の意味を変えるしかないでしょう。同じ経験、同じ事実であっても、従来の発想を転換し、これまでとまったく異なる受け止め方をして、新たな解釈で経験の意味を大転換させるのです。自分が経験してきたこと、起きた事実は事実として承認し、それを受け容れたうえで、自分は自分の人生を完成させていくのだと発想を転換していく・・。こうしたプロセスを経ることで、過去と訣別し、癒やされる可能性が生まれてきます。
  とは言うものの、そういう発想の転換を自分一人で行うにはやはり難しいものがあります。そこに第三者の視点から客観的な助言があれば、やはり大きな手助けとなるに違いありません。合宿などでは、私がインストラクターとしてその発想の転換を促します。例えば「あなたの考え方はとてもよく分かるし当然のことですが、でも仏教では、それはこう考えられていますね」「こういう視点もあるのではないですか」などというような双方向のやりとりがなされて、それを本人が理解し、考察し、納得した場合に最終的に発想が転換されていきます。
  強い自我を持つ方にとっては、外側の力を借りるという気持ちになることができただけで、エゴがかなり手放されているかもしれません。素直に人の助けを求めることができるのは素晴らしいことです。もちろん、これは依存心の強い人には当てはまりませんが・・。実体のないエゴにしがみついて、自分一人の力で生きていく・・と息まくのは非仏教的な発想なのです。あらゆるものが相互に関連し合って変化していくのが真相であり、それを仏教では「諸法無我」と呼んでいます。
  また、心の転換をうながす技法の一つに、瞑想とは違いますが「内観」があります。これもエゴの編集した世界を逆転させる強力な力を持っています。これはトラウマそのものに向き合うのではなく、自分が親や家族などから傷つけられたり苦しまされた百倍も千倍も愛されてきた事実に圧倒されることによって、ちっぽけなトラウマなどブッ飛んで霞んでしまうというやり方です。ただこれも、誰でもやりさえすればうまくいく保証はありません。断じてエゴを手放すものか、と自己中心的な視座を崩さずに内観をしても成功しないのです。認知の根本が変わらないからです。実体のないエゴに固執している限り、人生は苦しくなるということです。
  いずれにしても、「これは世の流れに逆らうものである」とブッダが言明されているように、仏教では「煩悩をなくせ」「心を清らかにしろ」と本能の命令や世間の生き方とは真逆の価値観を突きつけてくるわけです。心の中に革命を起こすような話ですから、もし仏教を全体的に受け入れることができれば、反応系の心が組み替わり、発想や生き方が変わるのは当然なのです。そうした別次元の地平に立ったとき、トラウマは完全に乗り越えられているでしょう。

 

 

Cさん:そのような指導は、合宿に参加することでしか受けられないのでしょうか。

 

アドバイス:
  やはり難しいでしょうね。現状では、個人的にアポイントを取って話をする余裕はありませんので、合宿にご参加いただき、問題に向き合っていただくことになるでしょう。1Day合宿でも個室での面接の時間が用意されていますので、検討してください。

 

 

Dさん:過去の問題もありますが、現在非常に難しいけれども解決しなければならない問題があります。それが実務に絡んでいてたいへん辛く、そんな時に怒りや投げやりの気持ちが生まれるのを少しでも無くしたいと思っています。

 

アドバイス:
  過去のことばかりではなく、現在進行形で起きていることも、問題を解決していく基本構造は変わりません。エゴの立場に固執すれば、捨てられないものばかりだし、変更できるものなど何もないと言いたくなるものです。しかし「ダメなものはダメだ」「許せないものは許せない」と抱えている問題や相手側を一切受け容れることができなければ、苦が無くなることはありません。世界中どこでも異なった考えや立場の違いからエゴとエゴが激突し合い、相手側や対象を否定し、ままならない苦しみに直面しているのではないですか。受け入れられないものを受け容れる発想の転換がなければ、これまで通り苦しい現状は変わりません。
  ところが仏教の根本的な考え方ははるかに超越的で、構造が雄大で最終的にはあらゆることを受容できる思想があり、その思想に基づく実践システムが見事に確立しています。単なる瞑想の技術だけの世界ではなく、今までの判断基軸とは違った価値観が入ってくるので、今まで許せなかったことが許せるようになるのです。その意識革命が起きたとき、苦しみがなくなっていることに気づくのではないでしょうか。(文責:編集部)