瞑想修行の時に(1) --サティの対象--

 

Aさん坐る瞑想をしていて気分が悪くなりました。食事や身体的なこともあったのではないかと思ったのですが、思い当たることもなく、車や酒に酔っているような感じです。その時は「気持ち悪い」「焦っている」「イライラしている」とラベリングしましたが、それで良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  気分が悪いというのは身心感覚としてどうなのかを、お医者さんが聴診器で調べるように観ていきます。つまり、気分が悪いというような大雑把な表現で留まるのではなく、物理的な視点から、細胞レベルまでを詳細に徹底的に観るということです。そうすると、それが物理的・肉体的なものなのか、それとも心の反応・精神的なものなのか区別がつくのです。
  この作業を曖昧にしておくと、体も心も観ないまま、なんとなく気分が悪いという結論を頭のなかで出して、自分はこうなのだという概念の世界に入ってしまいます。
  具体的なやり方としては、例えばムカムカしているのなら、先ず身体の感覚として気管支あたりなのか喉のあたりなのか、胃の内部がむかつくのか、吐き気までするのかと言うように厳密に細かく観ていきます。さらには心の面に行き詰まりのようなものがないかどうか、そしてそれが胸のつかえになっていないかということです。もし心に問題をかかえて悩んでいるような時には、その閉塞感によっても実際にムカムカというセンセーションが起きてきます。
  このように、細胞から心のレベルまでひとつも見逃さないという感じで点検していくと、潜在意識的な原因までもが観えてきて納得できる可能性があります。そうすると妄想が止まって現象も終わりになります。
  言えることは、身体的な不調や食べ物などには思い当たらない、心にも何もひっかかりがない、諸々の原因が観えてこないのに気分が悪くなる、不快な苦受が生じるというのはあり得ない話だということです。もしそのように見えたとしたら、それはエゴが真実を観たくないために深いところで潜在的に頑張っている状態と捉えることができます。なぜなら、大事な問題になればなるほど抑圧の構造が働きますので、表面的には観えてこないからです。
  ヴィパッサナーの修行構造からは、たとえエゴがそうして頑張っていても、やはり観るべきものは観なければならないのです。どんな現象も等価に、平等に、好き嫌いなく淡々と観ていくこと、そこには本来抑圧も隠蔽もないはずなのです。
  その一方で、明確に身体現象が出るというのはかえって修行がやりやすいという良い一面もあります。例えば、心を観るのがとても上手な方でしたが、しょっちゅう肩が凝っているような状態にありました。しかしその方は、肩の凝りは心理的な原因から来ているとして、むしろその凝りの状態を心の真相を観るバロメーターに利用しているようで、なかなかいいセンスをしていると感じられました。
  こうして詳細に観察を行なうことで、自分の潜在意識までもきれいにしていけるのです。ですから、修行中に気分が悪くなったら、それは潜在意識的なところに封印している問題が浮上しようとしていると受け止めて、できるだけ細かく分析して一番奥底に眠っている煩悩に気づき、きれいにしていこうと頑張って欲しいです。

 

Bさん:身体の凝りが激しいです。

 

アドバイス:
  体の物理的な現象として凝りというセンセーションを感じているのですね。その場合、凝っているのが知覚されている状態ですから、「凝り」とサティを入れても良いですし「痛み」と入れても良いでしょう。そのとき感じたように入れます。
  ですがそれでも消えない場合、その時には心の観察にシフトしていきます。今の心の状態はどうか、イライラしているとか嫌悪しているとか、凝りに対して何かそういう心理的な反応が起きているのではないかと観察します。もしそういった心理的なものが優勢であれば、そのとき経験している現象に対しては「凝り」というラベリングではなく、凝りがどうやったら消えるだろうかという「考察」だったり、凝りが消えずに「心配している」とか、凝りに対して「嫌がっている」、あるいは「嫌悪」ということになるわけです。
  つまり、その時点で起きている現象は心理的な反応であって、心がそのように働いているということです。ですから、今度はその心を対象にしてサティを入れ、ラベリングしていく、このあたりはまさに練習、訓練です。そういった心の観察を面白がってやるような意識モードになると、結果として初めに感じた凝りという身体的な現象とは全く関係のない観察になっていきます。
  このように、初めに凝りが出てきたので「嫌だなー」という反応から始まって、「凝り」「凝り」とやっているうちに、実は優性に起きている現象が「心配」だったり「嫌悪」だったりという心の現象であった場合には、その心が現在の瞬間ですから気づきの対象であるべきです。そうして「嫌がっている」「嫌悪」という適切なラベリングによって心をよく観察し、他人事のように客観化し対象化していく作業にシフトしていくと、それは悩み苦しみの状態からは完全に離れ、ただそういう事実観察をやっているだけということになります。
  こうなると、身体的な凝りなどは消えてしまう場合が多々あります。なぜかというと、凝りというのは純粋に身体的な原因でも起こりますが、ストレスや心の緊張によっても起こるからです。それも一つの対象に心が固着し、そしてそれに執着することによって起こります。そこで、正確な事実観察によって「あー自分はものすごくこのことを気にしているんだ。ストレスがあるんだ」と気づく、そしてそれに対して「嫌がっている」「心配している」とサティを入れて客観視する、そうして見送ることができればストレスが消える、すると連動して凝りも消えるということになります。つまりこれは心の随観をしているわけです。
  このようにフッと意識モードを変えることを覚えた方が良いのです。これは、巻き込まれてパニックを起こしていく世界とは意識状態が違って、まさにヴィパッサナー的でもあります。こうしたやり方をすればあらゆるドゥッカ(dukkha:苦)から離れられる、このあたりが原始仏教的な苦の無くし方と言えます。
  とにかく、きれいにヴィパッサナーをやっていたら凝りが消えたという報告は膨大にありまして、「ヴィパッサナー瞑想で凝りが消えます!」と断言したくなるくらいです。そうではありますが、だからと言ってサティの技術による「凝り退治」という感じになってしまうと、これは逆に執着になってしまいますから気を付けてください。ヴィパッサナーは凝りを解消するためのものではないですから(笑)。
  ヴィパッサナーはあらゆる執らわれを無くしていく修行です。凝りがあろうがなかろうが心が静かで落ち着いている、苦悩している状態ではなくなりますよという世界です。このあたりが体得できると生きるのが楽になります。

 

Cさん:生理的な欲求が生じたとき、例えばくしゃみをしたいと、そういうときに限って気づきが出てきて、『・・・したい』『・・・したい』とパパパとサティが入る。そんなので良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  大変結構ですね(笑)。あるがままに起こった通りですからね。
  くしゃみでは皆さん同様の経験をしていますが、「ハ、ハ、ハッ…」となった時に、純粋に鼻の感覚だけに絞ってサティを入れたら、それがスパッと入ってくしゃみが立ち消えになってしまったという、これもわりと多いですね。
  一方、そういう風に純粋に感覚だけに絞り込まないケースもあります。「あ、くしゃみが出かかっている」「きっと出るぞ」「もう我慢できない」「ハックションとやってしまった状態」など、予測イメージが一瞬起きていることもよくありますね。すると、身体はその命令に従うかのようにくしゃみを完成させていってしまう、そんな要素もあります。
  これは痙攣や痛みでもしばしばみなさん経験することですね。例えばこむら返りみたいに足が攣ってきた時は「痛〜!」となるでしょう。だいたいそういう時には「まずい」「大変だ、どうしよう」「早く治さなきゃ」という感じで、頭の中はパニックになって、かえってこむら返りが悪化してしまう。ところが、純粋に感覚にだけサティを入れていると立ち消えというか、すぐにスーと消えてしまったという話はいくらでもあるのです。
  痛みもそうです。坐る瞑想をしている時に足に痛みが出れば誰でも嫌ですから、普通は「ああ痛い、嫌だな」ですよ。ところがサヤドウから、「痛みが起こったときは徹底的に観察して、どんな具合か報告しなさい」と指導されて、痛みが来ると「よーし! 観察してやろうじゃないか」と。そのときには痛みを積極的に観察してやろうと歓迎している感じで、嫌だとか逃げたいという発想は全然なくなるのです。そうすると、サヤドウが「どうだった?」「はい。痛みを観察しようと待ち構えていたら、一発のサティで消えてしまいました」「アハハハ・・」って。そんなもんなんですね。
  つまり、くしゃみにしても、痛みにしても、あるいは攣ったり、凝ったり、いろいろありますけれど、心が演出してそうなってしまったような面が多々あるということです。
  つまり言いたいことは、基本的には、今自分の身体に起こっている感覚に対してあるがままにサティを入れていけば、せき込むとかくしゃみとか、それらは立ち消えになってしまうこともあるということです。こうしたことは非常に多くの方に経験されているということ、これが一つです。
  もう一つは、そのとき心はどんなことをやっているか、そこにサティが入るならそれは誠に結構なのだということです。
  今の話を聞く限りでは、一瞬心の中にパ、パ、パと起きていることに気づきが入っている、その状態は大変結構ですね。いつでもそういう状態で生きていられたならば、問題の起ころうはずがないでしょう。そういう経験を重ねていけば、心はだんだん落ち着いてくるのです。
  サティというのは不思議なもので、最初は幼稚園児のようにそんな難しいことできるはずがないと思うけれど、毎日やっていけば、サティを入れるつもりなんか全然なくても大事なときに勝手にサティが飛び出して来るようになるものです。デパートで買い物しているとき、欲望が起こった瞬間、あるいは怒りが立ち上がる瞬間、さらにそこから心がどういう風に反応していくのか、そうしたことに気づきがパパパと入っていくようであれば素晴らしいですね。さらに、戒を守って悪を避けるという仏教の基本的理解が腹に落ちていれば、悪いカルマを作るはずがないのです。こういう感じでヴィッパサナーは進んでいきます。

 

Dさん:寝入りばなに、黒い陰のようなものが窓から侵入してきて、寝ている私の体の上に乗っかってくるのです。心が作り出した幻影なのかも知れませんが、私は悪魔と呼んでいます。コントロールがまったくできす、恐くて仕方がありません。(『月刊サティ』2001/6 再録)

 

アドバイス:
  おそらく妄想の産物だろうと思います。
  仮に餓鬼などの霊的生物だったとしても、この情況を打破する最も有効な方法は、サティを入れ、徹底的に事実確認することです。
  もし心が作り出した幻影なら、「見た」「(悪魔だ)と思った」「重たさ」「(手足が)動かない」「(恐い)と思った」「イメージ」「(背中と布団が)触れている」「聞いた(遠くでシャッターが閉まる昔)」「音(バイクの)」「膨らみ、縮み」・・・と、サティを入れて、現実感覚が明確になれば、事実に根ざしていないものはすべて、ひとりでに雲散霧消します。必ずそうなります。
  消えないとすれば、心が反応し、つかんでいるからです。心が仮作している幻影は、妄想が停止した瞬間に必ず消滅するのです。
  事実の世界と思考や概念の世界とをハッキリ識別することが、ヴィパッサナー瞑想の本来の仕事です。心が作り出したどんな苦しみも、妄想が止まれば、なくなるのです。
  さて、妄想や気のせいではなく、仮に「悪魔くん」が本当にいたとしましょう。その場合も、徹頭徹尾サティを入れ続けるのがよいのです。
  恐怖などで反応すれば、相手の存在を認めたことになります。誰でも存在を認めてもらうと嬉しいので、引き取らずに、すり寄って来るでしょう。
  ただ現在の瞬間を確認するだけで、なんの反応もしないサティの状態は、完壁に対象を無視しています。
  相手にしてもらえなければ、悪魔くんも立ち去っていきます。(文責:編集部)