修行上の質問  実践編(4)

 

Aさん:悩みを抱えている時には、とにかくその悩み自体を見たくなくて感覚に集中しやすかったのですが、あまり悩みごとがないと体がむずむずしてきて、感覚に集中してラベリングすることがとても苦しく感じられます。

 

アドバイス:
  一般的にどなたでも、瞑想をやってみよう、修行をしよう、と思うのは、苦(dukkha:ドゥッカ)に遭遇したときが多いのです。
  苦がなければ、誰でも楽しいことや好きなことにエネルギーを費やしたいのですから、ことさら瞑想をしようなどとは思わないでしょう。嫌なことや困ったことがあれば、なんとか逃れよう乗り超えたいと模索するので瞑想に縁ができたり、以前から興味があったので瞑想を試してみようと思うものです。
  しかし順風満帆がいつまでも続く訳もなく、順調に幸せに生きていても、有為転変は人の世の常、何が起きるかは予測不能、望まない状態に転落してしまうのはよくあることです。面白半分の余裕でパチンコやギャンブルをやってみたら大当たりしてあぶく銭を得たばかりに、ハマッた挙げ句の依存症で身を滅ぼしてしまうなどということも少なくありません。
  人の心は、日々生起する現象にどうしても振り回されるものです。凶事に対しても慶事に対しても本気でのめり込み反応すれば、悪しき展開になることが多いのですから、常に冷静沈着な対応で一喜一憂せず、良い方にも悪い方にも傾かずものごとを公平に、平等に、淡々と見るウペッカー(upekh?:捨)の心を養っていくことができたら素晴らしいですね。
  どうやって、それを・・?となれば、もちろん何もせずに棚からボタ餅という訳にはいきません。何が起きてもキャーキャー興奮せず、執着心も起きない心を育てる最強の技法である瞑想を毎日行なっていくことです。
  サティという技法自体が、ウッペカー(捨)の心を養う構造になっているのです。何が見えても、聞こえても、感じても・・、ただそのように認知して見送っていく訓練です。無執着の心を一瞬一瞬養っている現場と言ってよいでしょう。ウペッカーを軸として常に目覚めていること、現れては消えていく苦楽の現象を淡々と、ありのままに気づきながら自覚的に生きていくこと・・。
  これがいちばん問題を起こさず苦を発生させない秘訣です。私たちの生活のどんな場面でも、この基本精神が根本にあれば間違いなく人生のクオリティが良くなります。悪い方向へ向かうことはなくなっていくのですから、ネガティブな出来事に巻き込まれてから慌てて瞑想するのではなく、悩みごとがない時であっても、毎日瞑想をしっかりやっていきましょう。

 

Bさん:いろいろな問題がなかなか解決できないこともあって、毎日の生活に常に虚しさを感じています。ちょうどわびしさや寂しさがバックに流れているような状態です。

 

アドバイス:
  たとえ漠然とした虚しさであっても、それには必ず起きてくる原因があります。虚しさというのはやはり一つの現象ですから、その現象を徹底的に細かな要素に分解してみましょう。そしてよく観察するのです。そうすると次第にそうなった自分の心に関係する原因が分かってきます。
  原因が判明してきたら、その元になっている心のありかたを修正していきます。分析論の手法が原始仏教の基本的なやり方です。漠然とした曖昧模糊の状態は、訳の分からない無明の状態に似ていますが、その情況や対象を構成している要素や要因に仕分けられていくプロセスで、問題がほどけてきて、解決の方向が閃いてくることも少なくありません。
  たとえ結果的に修正できなかったり、修正したのにその効果が現れなかったりすることもありますが、しかしそうして頑張って努力するプロセスから多くのことが学べるものです。「起きたことには必然の力が働いているのだから、これは自分の過去のカルマによる結果であると受け容れていこう」という心境がもたらされる可能性もあるでしょう。
  一般的に言えば、虚しさというのは物質的なものであれ精神的なものであれ、価値のあるものを喪った喪失感や、達成感の欠如から来ているものです。
  もし何かを喪ったという喪失感から来ているのであれば、それが自分の人生に果たしていた役割や意味を客観的に分析し、考察し、ありのままに受け止め、納得できる理解に落とし込んでいく方向でしょう。喪ってしまったものはもうどうしようもないのですが、その悲しみや虚しさが完全に消失するまでには時の助けを得なくてはならない場合が多いですね。もしそうであっても、知的に納得し諒解していれば、情緒的に終わりにできる時間が短くなる可能性は高いように思われます。
  また、達成感の欠如が原因だった場合には、プライドや承認欲求が背景に絡んでいることもよくあります。自分の努力が適切に評価されなかった事実が起きてしまったのはいかんともしがたく、結局受け容れるしかない・・。こうした時に人は虚しさや悲しみを覚えます。人は誰でも自分を認めてもらいたいのですが、必ずしもそうはなりません。なぜそうならなかったのか、事の次第と因縁の流れが明瞭に視えている人は、ネガティブな事態を受け容れる能力が高いものですが、見えなければ、理不尽な印象が醸し出され、怒り系の心に分類される悲しみや虚しさにつながるでしょう。
  評価してくれるべき人が評価してくれなかったら、誰か他の人に認めてもらい評価してもらえれば、心の補償になるでしょう。自分にとって最も信頼できて価値を置いている人が評価してくれれば、わだかまっていたものが解放されていく可能性は高いように思われます。
  もしそのネガティブな経験をプラス思考に切り換えられるなら、積極的な対応の仕方もあります。自分が適切に評価されないで虚しさを感じた経験をしたのだから、その淋しさや辛さがどんなものか熟知している状態です。そうであるが故に、自分は絶対にそのような思いを人に与えないと決心するのです。特に自分が他を評価する立場にいるのであれば、ぜひそうなさっていただきたいですね。カルマの法則から言えば、「評価すれば評価される」ことになります。そもそも正当に評価されなかった事態は、過去のどこかで自分が他人を正当に評価しなかった結果ということですから、それを修正するためには真逆の働きかけを積極的に行なうことで転換していけばよいのです。
  以上のいずれも難しい場合には、自分で自分を褒めてあげ評価するとよいでしょう。自己満足のように思われようと、自分の気持ちを持ち直すことができれば精神衛生的な効果は十分にあったわけです。過去のことは過去のこととして近未来の目標を定め、それが達成できたら「よくやった!」と自分で自分を褒めるのです。目標はあまり高くしないで、少し頑張ればできるようなものがよいでしょう。例えば、1日10分の瞑想をまず1カ月続けてみる。それができたら3カ月、6カ月、1年と延ばしていくのはいかがですか?(笑)
   たとえネガティブなことであっても、必然の力で我が身に起きたことには必ず意味があり、学ぶべきことがあるのだと心得ておけば、情緒的に打ちのめされたりいつまでも引きずったりせずに、発想の転換がしやすくなるでしょう。

 

Cさん:今まで何をやっても良い結果が得られない人生でした。あまりにも運のない自分の人生を振り返ると、悪霊かなにかが憑いていて自分の往く先々でことごとく妨害しているかのように思えてなりません。今は何もやる気がなく、情緒不安定にもなり毎日胸が焼けそうなほど自分の運命に怒り狂っています。そんな見えざる手に妨害され続けてきた人間にも、この瞑想は救いの手を伸ばしてくれるのでしょうか。

 

アドバイス:
   仏教の立場からはこの世は徹頭徹尾因果応報なのです。自分が蒔いた種は自分が刈り取るほかありません。どんな人も誰でも、善い種も悪い種も蒔いてきています。したがって、わが身の不幸・運の悪さは、すべて自分がその原因を作ってきた結果なのだと理解しなければならないのです。これは一見残酷なようですが、きわめて公平であって、逆に言えば、だからこそ確かな希望を未来に託すこともできるのです。
  これまでことごとく不本意な現象に遭遇してきたのであれば、その原因は、過去世を含めて過去のどこかで他人を妨害したり邪魔をしたことがあったのではないかと考え、これからは反対のことをしていけば必ず良くなっていくのだと発想を転換させるのです。
  妨害の反対は、人を助けることです。人の幸いのためにエネルギーを放てば、今度は自分が人から助けられるし、万事がスムーズに展開する「円滑現象」が多くなる道理です。あるいは、一見すると不都合に見えた現象が、あとで振り返るとかえって幸いしたというようなことも頻繁に見られるようになります。
  ヴィパッサナー瞑想は、貪り、怒り、嫉妬、高慢、物惜しみなど、不善心で汚れた心に気づいて見送っていくことによって心をきれいにしていく営みです。これからは悪い心のエネルギーをいっさい放たなければ、未来は確実に良くなっていくし救いがあるのです。

 

Dさん:カヌーで川下りをしたとき滝壺に落ちて危うく溺れそうになりました。滝壺の中には縦型の渦があり、体を丸めると出られないという知識があったので、体を伸ばしてその渦の外に足が出て助かりました。

 

アドバイス:
  情報の力ですね。素晴らしい。
  極限情況になると、脳はそのとき本当に必要なタスクのみに一瞬で没頭し、危機的情況脱出するのに最適な対応を電光石火の速さで提示しようとします。途方もない智恵が閃き出るポイントは2つです。良い情報やデータが記憶されていること、もう一つは脳内環境が最適化されたクリーンな状態であることです。滝壺に呑まれた瞬間のあなたの脳内では、野生動物のような直感が働いたのでしょう。
  極限情況でパニックに陥り混乱する人もいるし、普段の雑念状態がブッ飛んで最適な智恵が閃く人もいます。その差はが何に由来するのか確たることはわかりませんが、目の前の現象に食いつきのめり込んでしまえばパニックになるでしょう。私たちは、優れたと経験知と良いデータを脳内に定着するために学び、脳内環境の整理と冷静沈着を瞑想修行によって養っていると言えるでしょう。
  あなたの話を伺って思い浮かんだことがあります。
  三浦雄一郎が標高4000m、マイナス60度Cの極限情況で紅茶を飲もうとしていた時のことです。突然の強風が襲いかかり、カップの紅茶が突風に飛ばされて自分の腕にかかってしまったのです。一瞬にして火傷をしたように熱くなり、そのまま冷凍の魚のように凍傷が始まり、瞬間冷凍されていったのです。
  このままでは腕を失う・・どうしよう!という文字通り焦眉の急に、三浦雄一郎は雪原を全力疾走し始めたのです。体温を上昇させれば融けるかもしれない・・という一縷の望みを抱いて、猛ダッシュして汗をかきながら必死で走ったのです。結果は上首尾でした。迷っていたら片腕はなかっただろう、と言っておりましたが、一瞬の英知が閃いて、瞬間冷凍され始めた腕を自分で解凍したというのです。
  凄い話ですね。極限情況や非常事態では、生き残るという唯ひとつの目的のために、脳が強制的に最適化されるのかもしれません。それは、余計な妄想や雑念が一掃され、智慧の閃く瞬間に酷似しており、私たちは日々の瞑想修行によって、それを常態化させようとしているのです。
  ヴィパッサナー瞑想の基本は、考えごとにならないようサティを入れ続けるという単純な作業ですが、それだけで大きな効果があります。瞑想合宿などで凄い体験をしたりサマーディ状態に入ったわけでもなく、ひたすら妄想を止め続けただけなのに、帰宅後、驚くほどの効果があったと報告される方が多いです。例えば、翌日から驚くほど仕事効率が良くなっていたり、感情的な反応が無努力で抑えられたり、必要な情報になぜかスーッとアクセスできてしまうような不思議さ、等々です。
  円滑現象と言われるこうした流れの良さは、ネガティブな妄想にハマって不善心所モードの時にはまず起こりません。朝から晩まで瞑想に専念する合宿のような劇的効果はなくても、日々の瞑想修行は、確実に智慧の発現する脳構造に変えていってくれるでしょう。
  私が1日最低10分は必ず瞑想しましょうと言うので、実際に10分しかやってない方が多いのですが、本当はそれでは充分とは言えません。実はもっとやって欲しいのです。合宿ではダンマトークとインタビュー以外は、朝から晩まで思考を止めてサティ以外にはやりません。通常の修行時間とは比較にならないので、効果が絶大になるのは当然です。
  心が整ってくれば、これまでに体験してきた全ての経験や知識が情報として自在に活用できる可能性があります。本物の智恵の出る準備が整えられるのですが、智恵のクオリティは、ダンマについてよく勉強している人とそうでない人に違いがあるのも致し方ありません。個人差はありますが、自分の持っているものが全て、いかんなく発揮できる状態が、その人にとっては最高であり、充実した人生につながっていくでしょう。よく学び、瞑想することですね。

 

Eさん:随観についてお伺いいたします。身体の随観と心の随観は何となく分かるのですが、受の随観がよく理解できないので、詳しくご説明して頂けたらと思うのですが。

 

アドバイス:
  受というのは感受、つまり感じることですから、例えば「かゆい」とか「痛い」などが当てはまります。これらは身体の姿勢や動きの様子を観ているのでもなければ、イライラしたり喜怒哀楽といった心の状態でもありません。「感じた」経験ですね。
  瞑想の現場で概ね多く出てくるのは痛みでしょう。あまり強烈でなくても、痛みというものは意識に触れてくるので無視はできません。一過性のものであれば単発のサティを入れるだけですが、繰り返し続くものであれば当然その痛みが消えるまでは中心対象にしてサティを入れ続けることになります。より強いものを強引に無視してお腹の微弱な感覚を感じようとするのは理に合いません。目安はフィフティ・フィフティの法則です。より強い現象、より多くの注意が注がれ意識に触れたものがサティの対象になります。もし組んでいる足が痛くなったら、それがその瞬間経験されている現実ですから、その痛みを徹底して観ていきます。それが受の随観をしている状態ですね。

 

Eさん:それは身の随観とはまた違うのですか?

 

アドバイス:
  アビダルマでは「共一切心所」と言いますが、どんな心の現象にも共通で働いているメンタルファクターがあります。受はその一つとして、あらゆる心に必ず伴って役割を果たしていると考えられています。どんな意識も知覚も経験も、何も感じられなかったら認識のしようがないのです。歩いたり坐ったり、日頃のどんな動きにも「受」が働いているので、知覚できるし経験されている訳です。
  しかし、そうした基本的な機能としての「受」とは異なり、強烈な快感や苦痛が感じられる経験は特筆すべきものであり、その「受」を別立てのカテゴリーとして随観していくのが「受随観」です。通常は、身体レベルでの快感や苦痛やかゆみなどを随観していくことになります。心の現象として強く感じる経験もありますが、多くの場合、強烈に感じた瞬間、喜怒哀楽系の情動の経験になりますので、そちらにサティを入れるのは「心随観」のカテゴリーに分類されます。
  こうした分類は一応理解しておくだけで特にこだわる必要はありません。瞑想の修行現場では、常に優勢の法則が重視されます。受け身に構えて、一瞬一瞬、意識に強く触れたものには必ずサティを入れて客観視する原則です。強く意識されたのには訳があり、中心対象であれ中心外であれ、そちらにより多くの注意を注いだのは自分なのです。自分の心がなぜかその現象に強く反応したのですから、それを徹底的に観察していけば、あるがままの自己客観視ができるように設計されているのがヴィパッサナー瞑想です。
   一瞬一瞬の自分の実情がありのままに知られれば、問題点を修正していくことも優れた点を成長させていくことも、次の仕事が明確化され心の清浄道は進んでいきます。
  「受随観」が淡々と続くこともありますが、たいていは快感や苦痛を強く感じた直後に貪る心や嫌悪する心などが生起するので、「心随観」に移行していくことも多々あります。その心の状態にサティを入れれば消滅していくでしょうから、そしたらまた「受随観」に戻り、さらに「膨らみ・縮み」が強く感じられたらの中心対象の「身随観」に戻ればよいのです。
  いついかなる時にも、何が起きても必ずサティを入れ、優勢の法則に従っていけば、自然展開で「身受心法」のオーソドックスな四念住の修行が進行していきます。

 

  「比丘たちよ、この道は諸々の生けるものが浄まり、愁いと悲しみを乗り超え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を視るための一道である。それは四つの念住である・・」(大念住経)
(文責:編集部)