感覚の取り方のヒント(1)

 

<腹の感覚>
Aさん:お腹の感覚が微弱で良く取れません。

 

アドバイス:
  一般的に腹部の感覚は捉えにくいです。もちろん簡単に取れる人もいれば、修行自体は悪くないのにどうも取りづらいという人もいます。ですから、微弱ではあってもそれを否定的に考えることはありません。ただ、トローンとして子守歌のような感じであれば、「膨らみ」「縮み」と言いながらも、あまり状態は良くないかも知れません。
  微弱であるのも作為的に起こしたわけではなく、因果関係の結果として起きた現象ですから、それをあるがままに認知すれば「法」を観ていることになります。それで良いのです。
  ただ、微弱だと感じると、その現象をはっきりさせたくなるかも知れません。しかし、少し長めに大きく呼吸するくらいなら良いのですが、強く感じようとわざとお腹に力を入れたりすると作為的なやり方になってしまい、あるがままに観察するというヴィパッサナーのポイントから外れてしまいます。意図的に作りあげた現象を認知するのは「法」ではありません。ですから、軽く手を当てる程度にして、たとえ微弱な対象であっても鮮明に観ようと努めてください。

 

Bさん:お腹に手を当ててもなかなか感覚が取れません。

 

アドバイス:
  もしお腹に手を当ててもなかなか感覚を感じることができなければ、妄想が出るその状態を対象にして心を随観するようにしてください。状態の良くない瞑想を長々とするのは良くありません。
  歩行瞑想がきちんと出来るようであれば、そちらの比重を大きくしてみるのも良いでしょう。ただ、本当に集中力が高まって微細な感覚や心情まで感じ、より高いレベルの修行ができるのは坐る瞑想の方です。

 

Cさん:お腹の感覚ばかりでなく、そのほかの所もたいへんわかりづらいです。

 

アドバイス:
  お腹が感じない、手や動作も感じないとするとサティは入っていない印象があります。どうでしょうか。
  この修行は、センセーションであれ音や思考であれ一番優勢な現象にサティ、サティとやっていくのです。「何でお腹の感覚が分からないんだろう」という思考が浮かんだら、そう思考した事実にサティを入れなければなりません。そうしないと、ただぼんやりしているのと同じです。
  技術的な面から言うと、何かにサティを入れることによって容易に中心対象に戻れるのです。考えごとをしたら「妄想」、背中が痛んだら「痛み」、足が冷えたと感じるなら「冷たい足」「冷たさ」、そうするとフッとお腹を感じて「膨らみ」「縮み」と簡単に戻ります。ここで「妄想」「痛み」「冷たい」などとラベリングされるのは、その時にバランスの良いサティが入っている証拠です。ですからすぐにお腹に戻れるのです。
  むしろ「感じ方が弱い。どうしよう」などとジタバタする方が大体は良くありません。なぜなら、そういう時には、「もっと強く感じたい」「狙った状態にもっていきたい」など、執着の要素が現れていることが多いからです。そうなるとやはり心は頑になる傾向です。善心所は柔軟で軽快なことが特徴ですから、感じ方が弱いなら弱いなりに気にしないで放っておく方が良いのです。

 

<鼻の感覚>
Dさん:どちらかというと息を吸ったり吐いたりする鼻の感覚に向かってしまいます。お腹の膨らみ縮みと、どういうところが違うのでしょうか。

 

アドバイス:
  『入出息念経』(Anapanassati-sutta『安般念経』)という原始仏教の経典にも説かれていますように、アナパナ・サティ(?n?p?na-sati:呼吸についての気づき)と言って、ヴィパッサナーの世界にも出る息・入る息に気づく瞑想法があります。これは鼻のどこかに空気の動きを感じ、そこを中心対象にしていくやり方です。
  私自身も、最初はヨーガの呼吸法を相当やっていましたので、マハーシのお腹を観る瞑想をやり始めた時は、どうしても鼻での方が感じやすいですし、「こっちでやりたいんです」と言ったら「ダメ」と言われました。でも、やはり鼻の感覚を取るのが癖になっていて、初めのうちはお腹に集中しようとしても鼻を感じたりお腹を感じたりで、その結果、お腹の感じ方が弱いという状態も経験しました。
  その後はマハーシ・システムによって何年もお腹の感覚で修行してきましたが、スリランカに行ったら今度は鼻でやりなさいと言われる。このように、ヴィパッサナーの修行システムとして両方ともやってきました。
  つまり、どちらもシステムとして確立されていますので、それは言われたとおりに修練する、いいとこ取りしたり自己流に変えたりしないでやるのが原則です。なぜなら、自分のやりやすいようにやればエゴは満足しますが、それではエゴをなくしていく修行には適切ではないからです。
  もし、鼻で感覚を取るのが癖になっているのであれば、そちらへ注意を注ぐ訓練をしてきた結果、脳にその回路が出来ているということです。そんな時に、今まで一度も注意を注いだことのないお腹に注意を向けるように言われても、すぐはやれないということでしょう。でも、言われたところにピタッと注意を注げるようになるのは、自己を制御する能力と大いに関わっているのです。
  心というのは、妄想でも音でも何でも、必ず刺激の強いものに飛びついて勝手に飛び回り、普通はコントロールが不可能に近いのです。しかし、それをコントロールする能力を訓練していくのが瞑想修行でもあります。
  「腹部でやりなさい」と指導されて、「はい分かりました」とスッと腹部に集中できるのであれば、「尋」と「伺」の働きが優れていると言うことです。つまり、心をコントロールする能力というのは、対象が面白いかどうかにかかわらず狙ったところへ注意を注げるかどうかです。
  お腹に注意を向けるように言われたらそこにピタッと注げるという、心は本来なら意志によって自在にコントロールされるべきなのです。さらに付け加えるなら、ヴィパッサナー瞑想でなぜ能力が開発されるかというと、どんなことでも与えられた課題である対象にスッと意識が100%向けられるようになるからでもあります。
  このように、この瞑想会ではマハーシ・システムでやりますので、今までの癖は癖として、今度は心を腹部感覚に向けるようにしてください。集中を100%腹部の感覚、お腹の筋肉の動きに向けられるかどうかです。先ずこれが一つ。
  また、感じ方が弱いと、どうしても意図的にお腹を大きく動かして感覚を強めたくなりますが、それは程々が良いでしょう。よく歩行の方がやりやすくて坐りがやりにくいと言う方がいますが、それは歩行の方が比較的ダイナミックな動きなので感覚が強くなるからです。
  そこで、歩行をしっかりやってスッスッと感覚を取れるようになったら、その状態で5分の1、10分の1かも知れない微弱なお腹の感覚に集中をかけられるようにやってみてください。そのためには、心が透明になって細かな動きにも応じられるようになっていなければなりません。
  言い換えれば、集中して微弱なものが鮮明に感じられている時には、心は透明になっていると言うことです。このように、現象を強いて際立たせることなく、微弱なものは微弱なままに鮮明に観ていこうとすること、これが修行のもう一つのポイントです。
  いずれにしても、マハーシ・システムでは坐る瞑想の中心対象は腹部感覚です。たとえ感覚が取りづらくてもそこに注意を向けようと頑張っていれば、だんだん脳の回路も切り替わって上手くいくようになります。刺激の強いものに注意を向けるのは簡単ですが、動きの少ない地味なものに注意を注ぎ続けるためには、少し頑張る必要があります。
  ですから、お腹はどうもはっきりしないけど鼻でやってみたら上手くいった、だからそちらの方にしてみてはどうかと言うのはちょっと短絡的です。その辺を厳密に区別しないままやっていると、一応気づきがある、サティが続く程度のことはできますが、やはり初歩的なところから進みません。ここではシステムの力で確実にヴィパッサナーが進むようになっていますから、そのシステムは崩さずにマニュアル通りにやった方が宜しいです。

 

<感覚とラベリング>
Eさん:自己流やいいとこ取りは良くないということですが、自分がやったことがそれに当たるのかどうか、お伺いします。
  歩く瞑想で「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」がただの号令になるということをよく聞きますが、私の場合もそれが起こりました。弱いセンセーションの中でその言葉を付けていても、はたして実感があるのかさえ危うい状況に陥っていた時に、1回試しにサティを英語でlifted moved touched pressedと入れてみたのです。すると自分と英語との言語的距離感がある程度遠いためか、pressedと言うと何となく「押している」という意味が頭のどこかで想起されているようで、「うまいこと出来た」感覚がありました。そういうやり方はカスタマイズに当たってしまうのでしょうか。また単にエゴが楽をしようとしただけなのでしょうか。

 

アドバイス:
  カスタマイズとは、システムを自分好みに作り変えることですよね。いま仰られたことは、日本語を英語に変えただけで、瞑想法に変更を加えたわけではありません。
  欧米の方は英語でラベリングするし、バイリンガルの方は当然好きな言葉でラベリングして良いのです。言葉が変われば語感が変わるので、新鮮な印象がもたらされるのは自然なことでしょう。
  実は私も、同じ経験がありました。かつてタイで修行していた時です。最初はインタビューもラベリングもすべて英語でやっていたのですが、それが固定化するとやはりマンネリになってくるのです。ある時のマンネリ化は執拗でなかなか上手く抜け出せなかったので、そこで、しばらく使っていなかった日本語でラベリングしようと思った訳です。で、日本語でやったところすごく新鮮な感じになったことがあります。
  たしかに、「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」・・・とやっているうちに、なんだかお題目か念仏を唱えているみたいで、感覚にちゃんと貼りついているかどうかが分からなくなってしまうのはよくある話です。ところがその時に、「離れた感覚」「進んだ感覚」と、ただ「感覚」を足しただけで「感覚を取っている」と心がピンポイントで焦点に集まってビンビン感じましたと、こういうレポートもあります。
  つまりラベリングというのは、膨大な塊となっている経験に向かってある角度から切り込んで得た認識に対して言葉づけしたものです。ですから本来なら、ある角度からの認識が先にあり、それが変わった結果ラベリングも変わるというのが順序でしょう。
  しかし、もうマンネリ化してしまってトロトロになってきた時に、逆にラベリングの言葉を変えてみる。言葉にはそれなりの語感がありますから、同じ経験であっても違った角度から切り込んでいくことで認識も変わり印象も変わり、新鮮になって心が賦活される。このようにサティの修行にプラスの効果をもたらす工夫であれば全く問題はありません。これは単にいいとこ取りとは違います。そのような創意工夫、マンネリ化したところで自分を立て直して上手くやるようなセンスはぜひ養っていって欲しいです。(文責:編集部)