尋ねたかったこと(2)

 

Aさん:ブッダは悟りを開かれた時、なぜ伝道をためらったのでしょうか。

 

アドバイス:
  それは悟りの内容が、この世間の流れに逆らう教えだったからです。以前にも紹介した(注1)ことがありますが、経典には次のようにあります。

 

  「困苦してわたしがさとりを得たことを、今またどうして説くことができようか。貪りと瞋りに悩まされた人々が、この真理をさとることは容易ではない。
  これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ、と。
  世尊がこのように省察しておられるとき、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった」(注2)

 

  実は欲望を貪り満たすというのは生きる原動力であり、怒りは自分の生命を守っていく上での最強の武器となっています。生命というのは貪って怒って苦しむものであり、総じてこれが生命の原初の姿と言えます。
  もし、苦しみを根本的に無くしてしまおうと修行に励み、首尾よく完成し欲も怒りもまったく無いゼロの状態になってしまったら、もはやこの世の生命として相容れない存在であるとも言えます。生命の基本条件を卒業してしまったようなものですから。阿羅漢の聖者は、阿羅漢になった瞬間、その場で出家するか死ぬかどちらかだと言われています。完璧な無欲状態では、欲望と怒りのこの世界で生きていけるわけもないのですから。弱肉強食の論理に貫かれた生命の世界では、怒りもしないし貪りもしないというのは生存から脱け出すような話なのです。
  ですから、仏教というのは、とことん突き詰めればまさに世の流れに逆らう教えであって、そのような意味では世間的には分かってもらえないという本質を持っています。貪瞋痴を無くしていこうという発想には、反生命・反自然の本質が包含されていて、どだい生命本来のあり方に逆らうものなのです。これは大変なことであり難しいところです。
  しかしだからといって、世間の流れのままに欲望と怒りを激突させ淘汰し合う生き方では、苦が増大し凄まじい地獄絵図になってしまいます。酸鼻を極める戦争状態が常態になっては生存そのものが疑問になってしまうでしょう。日々食うか食われるかのむき出しの暴力世界ではあまりにも苦しいので、生命自体が基本法則にブレーキをかける方向に進化を進めた結果、高度な群れ社会を形成する生きものが登場し、人類はその一員なのです。欲望と怒りを抑制し、全開状態にしない方が生存率と幸福度が上がるのではないか。幸せに生きられるのではないか・・という試みです。そんなに貪らず、怒らず、執着しなければ、お互いへの優しさが現れてくる・・。貪瞋痴を減らした分だけ人生から苦しみの分量が引き算されるという厳然たる法則です。
  苦しみを絶無にする道を説いたブッダは、そのような究極の解脱まで目指すプロの出家者を対象にしています。そこでは、世の人々には受け容れがたい厳しさで完全な無欲・無瞋・無痴の方向を示したのです。しかしブッダは同時に、一般の在家者に向けた経典では、無欲ではなく少欲、怒りゼロではなく、あまり怒らない、という程度に、苦しみを限りなく少なくしてこの世で幸せに生きるための説き方をしているのです。幸福度を高め、苦しみを無くしていく道はグラデーションになっていて、自分の分に応じた道を歩みながら、いつの日か究極の状態に達していけばよいと考えましょう。
  注1:『月刊サティ』2008/11
  注2:中村元訳「仏伝に関する章句」(『原始仏典』)筑摩書房   

 

Bさん:煩悩の上で男と女の違いがあるでしょうか。

 

アドバイス:
  嫉妬深い男性もいれば女性もいる、怒りの強い男性もいれば女性もいます。ですから、男とか女とかはたいした違いではありません。有身見です(笑)。
  ただ、女性は出産しますから、一般論としては子供に対する愛着は男性より強いでしょう。なぜなら、女性は出産してお母さんになった瞬間、オキシトシンという愛情ホルモンが10何倍か大量に分泌され、どうしようない力に突き動かされて赤ちゃんを愛しく可愛いと感じてしまうと言われます。さらに授乳の際に、赤ちゃんが乳首を吸うとプロラクチンという別の愛情ホルモンが分泌され、子供が可愛いという気持ちになってしまう仕組みが生物学的に備わっているからです。ところが、何かの原因でホルモンの分泌が阻害されると、可愛いという気持ちがあまり湧いてこないのです。逆に男性でも赤ちゃんを抱っこするとオキシトシン・ホルモンが出てくると言われます。
  つまり、愛情系であっても煩悩系であっても、脳にそのような信号を通せば通すほど通電性が良くなって、そのような反応が自動的かつ瞬間的に起きてくるということです。そして愛情に限らず、怒りのホルモンが出やすい条件付けをしてしまった怒りっぽい人も、怒りを抑制すればするほど抑制するホルモン分泌が強化されていくことが知られています。脳をいつもそのように使うように心掛けて訓練していけばよいのです。煩悩を抑制しようと様々に工夫して頭を使えば使うほど、必ず怒りや貪りなど諸々の煩悩が抑制できるようになります。男性も女性も関係なく、脳も筋肉同様、訓練によって変化し、いくらでも組み替えられるようになっていくのです。頑張りましょう。

 

Cさん:友人からご主人の介護のことで相談の手紙をいただきました。かなり精神的に追い詰められているような文章でした。心配し過ぎて倒れてしまうのではないかという感じもします。楽になるような言葉を掛けたいのですが、先生に何かアドバイスを頂けたらと思います。お歳は70代前半です。

 

アドバイス:
  間接情報だけでは明確なことは申し上げられないのですが、心労の部分が多いのではないかと推察します。実際の介護の作業自体は大変は大変ですが、ここでは一般論として「余計なことを考えるな」ということを強調したいです。
  深刻な情況では無理もないことなのですが、「この先どうなるんだろう・・」「これ以上悪くなっていったら、耐えられるだろうか・・」などと否定的な妄想に悩まされると、とにかくヘトヘトに疲れてしまいます。身体的な苦労よりもダメージが大きいと言ってよいでしょう。
  私も父親の介護をした時に、1カ月ちょっとの期間だったと思いますが、毎晩父の病室に泊まって世話をしたのです。夜中に何度も起こされて便で汚れたオムツの交換をしていると、本当に苦しく疲れてしまった経験があります。最初は元気いっぱいやっていても、日数が経ってヘトヘトになってくると本当に大変です。もしサティをやっていなかったら、とても持たなかったでしょう。介護の現場では厳密にサティを入れて、余計な妄想をしないようにしました。本当にその時にしていること、今の作業だけに集中したのです。
  例えば、寝入りばなや明け方近く睡眠が深くなっている時にを起こされて、ソファーから起き上がる瞬間など「またか」というような気持ちが一瞬浮かぶのは誰にでもあり得るのです。それに巻き込まれてネガティブな不善心所系妄想にハマって行動しているとグダグダに疲れるものです。何が人を一番疲れさせるかと言えば、ネガティブな妄想に反応した不善心所モードというのが、身体的疲労の何倍も悪い作用をします。
  嫌悪も、怒りも、不安も、悲しみも・・ネガティブな想念は恐らくネガティブなホルモンを分泌させるのでしょうが、心身を最も痛めつけ疲弊させてしまうのです。ネガティブ妄想は「見ざる言わざる聞かざる」が良いのではないかとアドバイスしたいですね。
  ご相談の方に関しては詳細が分からないので答えづらいのですが、一般論としては余計なことは考えないように、苦しくても現状をありのままに受け入れる気持ちが持てるようにということを強調してアドバイスされたらいかがでしょうか。もし余計なことを考えないのが難しいようでしたら、どんな妄想も必ずプラス思考に転換させる練習をするようにお話してあげたらいかがでしょうか。
  それからもう一つ大事なことは、必ず休暇を取り、介護現場を離れて気分転換をする時間を作ることです。どんなに優しい気持ちを持っている方でも、休暇を取ってリフレッシュしないと優しさがだんだん擦り切れてしまうものです。必ずそうすべきだと私は考えます。お休みを取ってから現場に戻ると、驚くほど優しい気持ちになれることを試していただきたいですね。
Dさん:瞑想の途中で神秘的な体験がありました。びっくりしたような感じで、サティは入らなかったです。

 

アドバイス:
  その時にサティが入らなかったところはやはり問題です。サティが入らないと、心はその意味付けの方に向かってしまいますから。
  ヴィパッサナー瞑想は、気づく対象の内容の良し悪しは関係ありません。価値あることでも、くだらないことでも、素晴らしい意味のありそうな神秘体験であれガセネタ体験であれ、ただそのように体験していると気づきモードをキープできるか否かです。
  定力が高まりサマーディ感覚が深まってくるとヴィパッサナー瞑想が高度なレベルになってきます。すると、不思議現象のようなものが強力に現れてきて、「観の汚染(ヴィパッサナーの汚染)」と言われるものが起きてくることがあります。その内容は瞑想体験として非常に素晴らしいのですが、その圧倒的な不可思議現象に惑わされず、足をすくわれないで観じ切っていけるか否か・・。これはかなりレベルの高い話なのですが、どんな素晴らしい現象や瞑想世界が出現してきても、淡々と客観視して見送っていくという意識モードを保つことが最重要なのです。
  何かが出てきたら、そう「感じた」、驚いたら「驚いた」、「『これは何かすごいんじゃないか』と思った」というふうにどんなものも掴まないで見送るのです。進めば進むほど限りなく、いくらでも高いレベルの修行が要求され、それに応えれば応えるほど心は解脱の方向に向かいます。いかなるものにも食いつかずに淡々と冷静に観ていきましょう。

 

Eさん:出家と普通の在家の暮らしの中での清浄道の関係を教えてください。

 

アドバイス:
  それは、必然の流れで答えが自ずから出てきます。寺に入れば時間も環境も整っているので、瞑想の修行だけは存分にできます。しかし心を全体的に清らかにしていく「戒→定→慧」のシステムの流れのなかで清浄道の完成を目指さない限りは、仏教の悟りに達することはありません。
  まず戒をしっかり守って倫理的にきれいに生きていく状態、あるいは人格がほぼ完成しているかのような安定した状態を目指す「戒の修行」から始めるのですが、実はその前にするべきことがあります。それは善行です。
  善行によって善いカルマを積み重ね、それに支えられなければ、清浄道を進めていくことがなぜか難しくなり、阻まれてしまうものです。戒を守りたくてもなかなか条件が整わず、どうしても破戒の不善業を作ってしまうような流れになる。善行をしたくてもできない。瞑想をやりたい気持があるのに、時間も体調も環境も整わない・・というように、やるべきことができないのは徳がないからなのです。徳=善行の集積です。ここでは「布施(ダーナ)」という言葉で善行を代表させますが、ダーナ(善行)、シーラ(戒)、サマーディ(定)、バーバナ(慧)のこの流れは崩せないです。
  瞑想と言うと多くの方が定から入ろうとしますが、その前の段階ができていないことが多いようです。これは私が痛感してきたところです。
  タイ、ミャンマー、スリランカ、どこへ行っても、出家してしまえば戒律を守って同じ意識で修行している人ばかりなので、世俗でのようなトラブルは本当に少ないのです。ですが、そうすると自分の心の汚染は観えづらくなります。自分より修行ができている人に嫉妬したり、劣っている者を見くだすなどの問題は寺にもありますが、多くの煩悩が特殊な環境ゆえに観えづらいと言えます。ですから、戒の修行が完成していない状態で出家するのは、自分の心の汚染が見えなくなる状態、これを随眠と言いますが、そういう落とし穴があるのです。
   アヌサヤー(anusaya:随眠、悪習、悪しき習い)というのは、本当は存在しているのに、現れる機会が無いとまったく存在しないかのように心の奥底で眠りこけている煩悩です。そうすると本人は無いと錯覚してしまいます。例えば電気も無いし水道もないし、釣瓶で水を汲み、カマドで薪を燃やして湯を沸かし、夜はアルコールランプだけといった環境の森林僧院では、欲望を刺戟する物も食べるものも異性ももともと無いのですから欲望の起こりようがありません。そんな環境にいれば、自分はもう物欲から解放されたのだ、というように錯覚してしまいます。でも、随眠状態でその煩悩が残っていれば、環境が変わればたちまち吹き出してくるということになります。
  そうすると、反応系の修行というのは寺ではむしろ難しいというか、出来ないとも言えます。在家として娑婆世界で、愚か者も欲深な者も、いろんな人がいる中で揉みくちゃにされて、ストレスが多くイライラさせられ、食べるために嫌な仕事もして、そうした娑婆の苛酷な情況で心がいささかも乱れなくなったとしたら大したものです。あるいはどんなイヤらしい人や難しい人に対しても、嫌悪や怒りを出さず人としてなすべき完全な対応ができるでしょうか。至難の業です。こんな高度な修行は、苦海か憂き世かといった在家者の普通の日常生活の中で、玉石混淆の普通の人間関係を持ちながらの方がはるかに本格的な良い修行ができるのです。反応系の修行に関しては、寺よりも苛酷なこの世の方が立派な道場と言えるでしょう。
  もちろんお寺に入れば瞑想は進みます。サマーディに到達し、サティも入るでしょう、瞬間定も出来るかもしれません。これはもうアスリートと同じ、朝から晩まで瞑想していたら、どんな人だってそういう脳の使い方のトレーニングで瞑想は上達します。でも、どれだけサマーディに入れても、瞬間定ができても、解脱の智慧が生じなかったら悟れないということを、徹底して理解しておくべきです。正しい順番で心の清浄道を歩んでいかないと、瞑想が現実逃避の手段にもなりかねません。
  先ず戒を完全に守り善行を積みかさねたうえで、劣等感やトラウマやらいろんなものから解放され、人格が安定し、悪を避け善をなすということが完全にできた状態の人、そういうほぼ人格完成者のような印象の人が瞑想の修行に専念すべきなのです。そこまで行った人は寺に入って、朝から晩までいくら瞑想しても問題はありません。反応系の心のプログラムに汚染はほとんど無い状態ですから。

 

  ということで、自分に何かへのこだわりがあって、意図的に出家してやろうとかこの世に留まってやろうとか言うのは、所詮エゴの囁いていることであって、概ねハズレになります。真の意思決定というのは、もっとダンマに任せて、あるいは三宝に任せきった先に自然に道がついたならそうすれば良いのです。完熟した柿が一人で落下するように出家する自然さが望ましいのです。
  この世でうまくいかなくて、まるでヤケクソで出家しているかような人にも何人も会いました。それは事実上寺への逃避です。基本的に嫌な人はいなくて、慈悲の瞑想をして、みんな清らかに生きているから、そういう人にとっては寺は天国ですよ。でも、悟れないでしょう、現実から逃げていては。
  この世に留まるだけの因縁があれば、それは留まって反応系の修行をした方が良いのです。そういうことが全部終われば自然に道がついて、まさに完熟した果実が落ちるように出家することになるだろうと思います。 (文責:編集部)