今日の一言 (バックナンバー) '2007年1〜12月

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

12/31(月) 狙えば、狙ったものが手に入るかどうか、の問題になる。
得られるか、得られないか……。
ヴィパッサナー瞑想では、目標を定め、何かを狙ってもよいが、雑魚しかかからないよ、と心得る。

 

………………………………………………………………………

 

12/30(日) 本当に、どんなことにも執われがなくなれば、この世のすべてのことが、いわば、どうでもよくなる。
どうでもよいのだが、静かに、あらゆる善行を、一所懸命、淡々と、行なっている状態……。

 

………………………………………………………………………

 

12/29(土) その音、その思考、その感覚に執われた瞬間、対象化も客観視もできなくなり、サティが入らなくなる。
サティの瞑想が上達するということは、六門の情報、すなわちこの世の事柄に執着も渇愛も起こさなくなるということだ。
ウペッカの心で、熱心に、淡々と、善行をなしていく……。

 

………………………………………………………………………

 

12/28(金) 人に聞いた話ではない。
思索や考察の結果でもない。
真実の状態を正しく理解している智慧がもたらした信(サッダー)には、澄みきった静かさと明晰さがある。

 

………………………………………………………………………

 

12/27(木) 厳密な話をすると、盲信する瞬間の心には、混乱や興奮の要素(掉挙)が含まれている。
ものごとの本質が見えない、痴(モーハ)の要素が働いているのは言うまでもない。
エネルギーは集約されるが、不透明な印象が残る……。

 

………………………………………………………………………

 

12/26(水) 信が定まり、迷いがなくなると、すべてのエネルギーが一点に集約され、大きな力が発揮される。
事実無根の思い込みの世界を盲信した人も、あるがままの事実を正しく受け止めて信を定めた人も、ためらいのないエネルギーがほとばしるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

12/25(火) 体調をスッキリと整える。
今、自分に与えられている全てのものに感謝を捧げる。
身近な人、遠い人、過去の人、これから出会うであろう人々、生きとし生けるすべての存在に、慈悲の瞑想をする。
サティの瞑想をして思考モードを離れる。
集中が高まり、沈黙と静けさが心にも体にも拡がっていく……。
こうして、智慧の閃く瞬間を待つ。

 

………………………………………………………………………

 

12/24(月) 誰かに愚痴を言うのをつつしむのが、沈黙ではない。
心の中で一切のおしゃべりを止めて、シーンと静かになることが沈黙と心得る。
愚痴や嫌悪や批判などの妄想が浮かんできた瞬間、サティを入れていさぎよく見送り、心を清潔な無思考状態に保つこと……。
心がそのような沈黙に満たされるとき、あらゆるものが生まれ出てくる源泉となる。

 

………………………………………………………………………

 

12/23(日) 愚痴を言いたくなるのが人生だが、口にした瞬間、心が汚れるだけでなく、カルマも悪くなる。
いさぎよく沈黙する……。

 

………………………………………………………………………

 

12/22(土) 人と群れておしゃべりばかりしていれば、自分を見失う。
独りになって、テレビも携帯もパソコンも消すと、今日の自分、数日来の自分の姿が浮かび上がってくるだろう。
間違っていなかったか。傷つけていなかったか。心にわだかまるところはないか。非は自分にあったのではないか……。
心に愧じるところがなければ、さあ、瞑想を始めよう……。

 

………………………………………………………………………

 

12/21(金) 現象→サティ→現象→サティ→……が連続すれば思考が止まる。
思考が止まれば、正確に、ありのままに見える。
集中する心があれば、さらに鮮明に、鋭く観察され、直観や洞察の衝撃度が増す。
納得したもの、腑に落ちたもの、完全に受容されたものは、必ず乗り超えることができるし、人の心は、望む方向に変わっていく。
これを、心の清浄道という。

 

………………………………………………………………………

 

12/20(木) 思考や考察をめぐらして知的に納得しても、しょせん概念を操作している考えごとにしか過ぎない。
ハートには響かないのだ。
自分の心の本当の状態を、ありのままに直視した瞬間のサティの衝撃……。

 

………………………………………………………………………

 

12/19(水) ミャンマーの僧院に行き、サマーディ完成の状態を体験した方に訊いてみた。
「そこまで深いサマーディを体験されて、どうですか、心は変わりましたか」
「サマーディでは、心は何も変わらないのだ、ということがよくわかりました」
心を変えるのはサティの瞑想の仕事だが、サティの瞑想を高度なレベルに深めるのはサマーディの力によるのだということ。

 

………………………………………………………………………

 

12/18(火) 他人からは丸見えでも、自分には見えないのが、欠点や煩悩です。
欠点を自覚し、直していくために、ありのままの自分を客観視しなければならない。
そのために威力を発揮するのが、心の随観です。
サマーディ以前の、人格完成の戒の修行のために、サティの技法が役に立つということです。

 

………………………………………………………………………

 

12/17(月) よく切れる包丁がなければ、究極の料理を作ることはできない。
だから包丁を研がなければならない。
しかし包丁を研ぐことよりも、レシピの習得と素材の仕込みのほうを優先しなければならない。

 

………………………………………………………………………

 

12/16(日) 九次第定(初禅から滅尽定にいたるサマーディの段階)のすべてを完成しても、サマーディに入ることは「現世の楽住」に過ぎない。
煩悩を一つひとつ削減しなさい、とブッダは言う……。

 

………………………………………………………………………

 

12/15(土) 初めてサマーディができた途端、傲慢に人を見くだし始めた人……。
心の闇から眼を背けるために、サマーディにのめり込んでいった人……。
サマーディという名の快楽に溺れ、サティを無視して、瞑想のたびに「たこ壷感覚」にはまり続けようとした人……。
<涅槃>や<無>のニミッタ(イメージ)に融合し、私は悟ったのだと錯覚していった人……。

 

………………………………………………………………………

 

12/14(金) 反応系の心が浄らかになってから、サマーディの特訓に入るのが順番です。
これを、<戒→定→慧→解脱>のシステムと言います。
「戒」は人格の修行、定はサマーディの修行、慧はヴィパッサナーの洞察智の修行です。
貪・瞋・痴の煩悩を潜在意識に抑圧し、人格が未熟なまま、ニミッタなどの脳内イメージにサマーディを起こしても解脱には至らないのです。

 

………………………………………………………………………

 

12/13(木) 概念やニミッタ(イメージ:相)を対象に瞑想をすれば、集中が高まりサマーディが起きるでしょう。
サマーディの融合感覚ゆえに、さまざまな宗教体験や神秘体験をすることになるが、洞察の智慧が現れるわけではない。
これを、サマタ瞑想といいます。
洞察の智慧は、サマーディの力と、事実をありのままに眺め、事象の本質を観るサティの力とが協同して働くときに閃くのです。

 

………………………………………………………………………

 

12/12(水) 考察の結果、知的に説得された状態になっても、心はあまり変わらないでしょう。
感情が納得しなければ、反応パターンはそのままです。
泣いても心が変わるわけではないように、情動が揺さぶられただけでは、センチメンタルになっているだけかもしれない。
知的世界に衝撃を与え、情動の世界を刺し貫いていく一瞬の洞察が、人の心を変えていく……。

 

………………………………………………………………………

 

12/11(火) 心が空っぽになるとは、無思考状態になるということです。
思考のプロセスが働かなければ、感情も生まれないし、煩悩が現れることもありません。
空っぽの心になると、見る、聞く、嗅ぐ、感じる……などの知覚が鮮明になります。
眼耳鼻舌身意の情報を知覚する。気づく。知覚する。気づく……の連続状態を維持していくとき、洞察の智慧が閃くでしょう。

 

………………………………………………………………………

 

12/10(月) 「……フッと心が落ち着き、感覚に集中し切ることが可能となりました。
そして、一切の思考、感情が混ざらずに感覚に集中し切れることの心地よさを味わうと、妄想の現れるの頻度が極端に減り、また、現れたとしても、感覚と妄想の違いを明確に感じ取ることが可能となりました。
これは、それまで、いかに感覚と妄想というものの区別が曖昧であり、一体としたものとして認識していたかの証明であると思います」

 

………………………………………………………………………

 

12/9(日) その時々の勢いと惰性で反応していたに過ぎないのではないか。 
現象をありのままに直視するとはこのことか、とハッとした。

 

………………………………………………………………………

 

12/8(土) 身体の動きから生じるセンセーションを正確に感じてからラベリングする。
たったこれだけのことだが、自分はこれまで、いかに待つことができず、見ることができず、感覚を味わうことができなかったか、という反省。

 

………………………………………………………………………

 

12/7(金) 短期合宿中には、サティを入れても妄想が止まらず、愕然としていた方が、日常生活にもどってからの報告メールです。
「……感覚と妄想の区別が明確となることにより、認識が時系列で生じるという事実を実感しています。
あれほど厄介者扱いしながらも、腐れ縁を絶つことができずに、不快な気分にさせられていた妄想に対しても、今では、瞬時に過ぎ去るものとして、平然と見送っております」

 

………………………………………………………………………

 

12/6(木) 腹を立ててしまえば、心は、記憶のデータバンクから怒りに関連した情報を一気に検索し始める。
この前も今とまったく同じで、頭に来た……。もっと腹が立ったのは、あの時だ……。
妄想が、怒りを増幅するのだ。
同様に、優しい心になった時も、慈悲モードになった時も、心はそれに関連したデータの海のなかを高速度で走査する。
人に優しくすれば、善いことをすれば、陰徳を積めば、さらに増大されていくことによく気づいて、自覚しながら、楽しみながら行なう……。

 

………………………………………………………………………

 

12/5(水) 幸せな状態も、不幸な境遇も、財産も地位も人の心も何もかも、すべて変化していってしまうのに、なぜ私たちは無常を認めたがらないのだろう。
今と同じ状態が、ズーッと続いていくのではないかという錯覚と期待を、どこかで持ってしまうのだ。
もう、二度と逢えなくなってしまう、かけがえのない人たちばかりだ、と想えば、優しい気持ちになれるのではないか……。

 

………………………………………………………………………

 

12/4(火) 離れていると優しい気持ちになれるのに、一緒にいれば不善心をぶつけてしまう……。
逢えなくなれば美点のみが想い出され、いつでも逢えると思えば、欠点ばかりに眼が向いてしまう。
……優しい心が逃げてしまわないうちに、素直に表現する。

 

………………………………………………………………………

 

12/3(月) いちばん優しくしてあげなければならない身近な人と、なぜ喧嘩ばかりするのだろうか……。

 

………………………………………………………………………

 

12/2(日) 見事なサティが入ったときに、瞑想が進んだと感じるかもしれない。
だが、居眠り寸前の状態や、言葉だけのラベリングが虚しく空回りする一瞬一瞬が積み重ねられて、瞑想を進ませてきたのだ。
冴えない失敗を繰り返すのが練習だと心得る……。

 

………………………………………………………………………

 

12/1(土) 怒りに対してサティを入れているうちに、自分の怒りが完成するまでには必ず「自尊心の傷つき」が生じているという<怒りのパターン>を発見した方もいる。
そのことに気がつき、次に怒りモードになりかかったところで、素早くサテイを入れてみた。
すると、腹を立てようとしていた相手の態度が急に変わり、逆に「ありがとう」という言葉が返ってきて、びっくりしたという。
「……すかさずサティを入れることによって、相手も自分も傷つけずにすみました。その効果に私は驚きました」とレポートされている。
皆さま、がんばっていますね。

 

………………………………………………………………………

 

11/30(金) 短期合宿から下山して瞑想すると、感覚が非常に鋭くなっているのに驚き、何ヶ月も続いていたマンネリを脱することができた方がいる。
中心対象のお腹に「膨らみ」「縮み」と機械的なラベリングを繰り返すだけだったのに、「広がり」「緊張感」「緩み」「つっぱり」など、そのつどぴったりくる言葉でサティが決まった。
今までにないしっくりした感じに妄想も激減し、瞑想終了後も心が穏やかだった。
このように、合宿中にはこれといったことがなくても、下山後に成果を感じることも少なくない。

 

………………………………………………………………………

 

11/29(木) 老化の速度が早まるポイントは、過食、高温度の環境、過激な運動、活性酸素……等々。
いずれも代謝が早まり、テロメアが短縮して、寿命を縮めると言われる。
仏教では、怒りが細胞を破壊し、命を縮めるとも説かれている。
心と体の摂生をすることによって、老化はコントロールできるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

11/28(水) 誰にも平等に、同じ時間が流れているのではない。
ひとり一人の個人が、自分に特有の時間を発生させているのだ。
存在は必ず壊れていくし、無常に変滅していくのを止めることはできない……。
だが、老化していく速度も、劣化していく速度も、自分が管理しコントロールしていくものだ。

 

………………………………………………………………………

 

11/27(火) 心が乱れていれば、失敗やミスが多くなる。
サティの訓練をしてマインドフルになれば、ミスは激減するだろう。
しかし、間の悪い流れが重なれば、どれほどマインドフルであっても、ミスは発生する。
現象の世界とはそういうものだ。
失敗やミスが発生したら、逆に、改善されて、いままでよりも良くなる、と信じる。
順調だったら知り得ない、大きな学びが得られる、とプラス思考をする。

 

………………………………………………………………………

 

11/26(月) <善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ>【「ダンマパダ(真理のことば)9−116」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/25(日) <水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる>【「ダンマパダ(真理のことば)10−145」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/24(土) <村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい>【「ダンマパダ(真理のことば)7−98」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/23(金) <怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない>【「ダンマパダ(真理のことば)17−221」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/22(木) <実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である>【「ダンマパダ(真理のことば)1−5」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/21(水) <修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を越えた楽しみがおこる>【「ダンマパダ(真理のことば)25−373」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/20(火) <智慧乏しき愚かな人は放逸にふける。しかし心ある人は、最上の財宝をまもるように、つとめはげむのをまもる>【「ダンマパダ(真理のことば)2−26」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/19(月) <覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている>【「ダンマパダ(真理のことば)8−89」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/18(日) 病気が治っても、生活習慣やものの考え方が変わらなければ、同じ原因が繰り返されて、再発するだろう。
考え方や、ものごとの受け止め方、反応の仕方が変わっていくことが、心の清浄道であり、苦しみを根本からなくしていく道。

 

………………………………………………………………………

 

11/17(土) 7歳で阿羅漢の悟りを得た聖者もいるが、幼稚な「子供のまま」では悟ることはできない。
自我を確立してから、自我を乗り超えていくのが正しい流れである。

 

………………………………………………………………………

 

11/16(金) 愛してくれる人、理解してくれる人、受け止めてくれる人、自分の存在を丸ごと肯定してくれる人がいるから、スクスクと育って大人になっていける。
だが、いつまでも他人の存在や評価に左右されるのは、いかがなものか。
しょせん、煩悩もエゴ意識も無明の心の状態も残した他者ではないのか。
自らを拠りどころとし、他を拠りどころとしない。
法を拠りどころとして、他を拠りどころとしない。

 

………………………………………………………………………

 

11/15(木) 両親や家族が自分をしっかり見てくれているだけで、子供にとっては最高のご褒美なのだ。 
大人になってからも、自分を受けとめてもらえること、理解してもらえることは最高の報酬ではないか。
……話を聞いてくれてありがとう。共感してくれてありがとう。

 

………………………………………………………………………

 

11/14(水) 地球が滅び、銀河宇宙が消滅しても、存在の世界には、地獄や餓鬼の領域もあれば、阿修羅や天界もある。
宇宙の消滅も、しょせん<成・住・壊・空……>の無限サイクルで、誕生、維持、壊滅、空無……を繰り返しているだけではないか。
それでも、輪廻からの解脱を目指して心の清浄道を極めていく仕事は、存在の世界の成りゆきに良い影響をもたらしていくだろう……。

 

………………………………………………………………………

 

11/13(火) 思考する能力が文明を作り、エネルギー革命を起こし、便利で快適な生活をもたらしたが、 その豊かさに、光もあれば、影もある。
多くの生命が絶滅させられ、生態系も環境も破壊され、人類そのものを自滅させる核兵器などの準備も充分整って、地球そのものの存亡が危ういところまで来てしまった。
人類の「思考する能力」が、慈悲の実践と悟りの智慧の方向に向かって展開してくれないものか……。

 

………………………………………………………………………

 

11/12(月) 草の葉に揺れながら、ケコケコ、コロコロコロ……と鳴いている小指の爪ほどの小さな雨蛙。
空中でホバーリングしながら交尾している赤トンボ。
のたりのたりとたゆたう海に身をまかせて浮かぶ、真昼の月のようなクラゲの群れ……。
思考する能力も、学習能力もない。
ただ遺伝的に組み込まれた本能だけで、刺激に反応する機械的な生のシステム……。
シンプルに、悩むことなく、生きていないだろうか……。
通勤ラッシュに充満する嫌悪、癒されない心の傷、劣等感、何をしても満たされない不満足感、不安、自信のなさ、ストレスに悩みながら、散らかした部屋の中で不潔な妄想をしている私たち人間よりも……。

 

………………………………………………………………………

 

11/11(日) 余計なことを妄想して、人は自滅していく。
集中が破れる。プレッシャーでアガる。将来を悲観し絶望する。エゴ妄想や自我感ゆえに自分を限定し、力を削いでしまう……。

 

………………………………………………………………………

 

11/10(土) 緊急事態が発生しなければ……、〆切が迫り、試験開始や本番スタートの合図が鳴らなければ……、なかなか本気モードにはなれない。
自己保存の本能から、人も動物もアリのような昆虫ですら、怠けられる限りは怠けて、必ず余力を残しておくものだ。
全力が出しきれるときも、さらにその能力の限界を超えた火事場の馬鹿力が出るときにも、無我の感覚がある……。

 

………………………………………………………………………

 

11/9(金) <勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す>【「ダンマパダ(真理のことば)15−201」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/8(木) <忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたもう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない>【「ダンマパダ(真理のことば)14−184」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/7(水) <たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である>【「ダンマパダ(真理のことば)14−186」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

11/6(火) 本当に強い人は、傲慢になりません。
自分の弱さやコンプレックスを受け容れることができれば、人を見くだすようなことはなくなるでしょう。

 

………………………………………………………………………

 

11/5(月) だが、どんな幸せな状態にも終わりがあり、変滅してしまうものだ。
快楽にも終わりがある。
人と人との関係も、一瞬一瞬変化していってしまう。
成功も、繁栄も、満足も、夢も、愛も、命の輝きも……、始まりがあったものには終わりがある。
この世に存在する一切のものは、無常の法則に縛られている。業の法則に支配され、因果に拘束されている……。
そのように、存在の仕組みそのものを苦と感じるようになれば、この世界から解脱するしか道がないではないか。
苦があれば、苦から解脱するために、悟りを開く……。

 

………………………………………………………………………

 

11/4(日) まったく苦のない、至福の状態を満喫しているのであれば、悟りを求める心にはならないだろう。
ブッダの示した道を歩いて悟りを開くのであれば、四聖諦という公式に基づかなければならない。
それは、<苦→苦の原因→原因が除去され、苦が滅ぼされた悟りの青写真→その悟りを実現する8つの方法論>という流れだ。
完全に苦がゼロであれば、この式が成り立たない。
<苦がゼロ=悟り>なのだから、完璧な幸せが永久保存版になっている人は、もう悟っているよ。

 

………………………………………………………………………

 

11/3(土) 心がきれいになれば、悪いカルマを作らなくなるので、嫌なことや悪いことが起きなくなる。
苦しみがなくなっていくのだから、幸せになれる。
幸せを存分に味わってから、ゆっくり考えよう。
悟りを開こうか、どうしようか……。

 

………………………………………………………………………

 

11/2(金) 自我意識や自我感そのものの脱落を目指していくのが、仏教の実践である。
厳密にエゴ妄想を排除していく、サティの技法……。
その前座の修行として、エゴ妄想の範囲を拡大していくのも良い。
自分と家族や一族は一体ではないか。
同じ民族、同じ国の、同胞ではないか。
いや、同じ人類、同じ人間ではないか。
人間以外の生きとし生けるものも全て、同じ尊い生命ではないか。
すべての存在は一つであり、宇宙そのものと合一している私……。

 

………………………………………………………………………

 

11/1(木) 不純な心でするクーサラ(善行)なら、しないほうがよいのだろうか。
純粋に相手のためを想い、浄らかな心でする善行は、理想的な「勝善」である。
自分が幸せになりたいために善行をする、自分本位の「劣善」もある。
不純な善行であっても、くり返していくうちに、人の心は善い方向へと変わっていく……。
悪行→何もしない→不純な善行→浄らかな善行……と、昇格していけばよい。

 

………………………………………………………………………

 

10/31(水) 自己中心的になると、いつの間にか防衛的になり、心が硬くなっているのに気づかない……。
自分だけが貪り、他人に対して冷淡になる。
慈悲喜捨の心からは、ほど遠くなるのは言うまでもない。
……ささやかであっても、他人のためになされるクーサラ(善行)には、優しさがある。
軽くて、やわらかく、清々しい心に変わる……。

 

………………………………………………………………………

 

10/30(火) クーサラをすると、心が爽やかになる。
家族を守りたい、仲間のためになりたい、国のために役に立ちたい、人類のために貢献したい……という種保存の本能と響き合うからだろうか。

 

………………………………………………………………………

 

10/29(月) 貪・瞋・痴の不善心所にサティを入れると、善心所モードに切り換えることができます。
だが、うまくいくこともあるが、サティのファウルチップや空振りで、うまくいかないこともあります。
サティがダメでも、クーサラ(善行)をすると、確実に、心が変わります。

 

………………………………………………………………………

 

10/28(日) こんなクーサラ日記を書いた方がいます。
「朝、車で現場に向かう途中で、猫の轢死体を発見。
時間がない、車を止める場所がないよ、と言い訳しながら一旦通り過ぎるが、『こんなことやれるのは、自分ぐらいだろう』と思い直して、引き返す。
見た目のおぞましさ、触った感触、嫌悪と恐怖のミックスした心、急がなきゃ、早く、という焦りにサティを入れながら、ビニール袋に包んで、近くのゴミ置き場に寝かせて、出勤。
膝が震えていたのは情けないが、心は、実に晴れやか。……嫌な上司との仕事も楽しい一日になった」

 

………………………………………………………………………

 

10/27(土) 自分のエゴの範疇から外れた異質性に対する嫌悪、拒絶、怒り、攻撃性……。
自分と同類同質のものを嗅ぎ取って、激しく嫌悪する近親憎悪系の怒り……。
異質な他者への怒りも、自己嫌悪の怒りも、理想化された自我イメージへの執着に端を発している。
エゴを乗り超え、無我にいたるプロセスで捨てられていく怒りの煩悩……。

 

………………………………………………………………………

 

10/26(金) 異物を排除しなければ、生きていけない。免疫という。
異物のエネルギーを吸収しなければ、生きていけない。栄養代謝という。
異質なものを交ぜ合わせなければ、命をつなぐことができない。有性生殖という。
存在と生命の流れから離脱した領域を目指す……。涅槃という。

 

………………………………………………………………………

 

10/25(木) 原理原則を純粋に守ろうとすると、異質なものを排除しなければならない。
純粋培養では、生命としての力も、創造性も、柔軟さも、失われていく。
異質なものを際限なく受け容れると、原型が失われ、泥水のような混沌状態に陥ってしまう。

 

………………………………………………………………………

 

10/24(水) 同じメールの後半部分です。
「また、最近は、電車や道ですれ違う人に対して<幸せになりますように>と慈悲の瞑想を入れるようにしています。
そうすると、以前は、ささいなこと(肩がぶつかったなど)ですぐ腹を立てていましたが、それがなくなり、心が穏やかになるのを感じています」

 

………………………………………………………………………

 

10/23(火) ヴィパッサナー瞑想を始めて間もない方からメールが来ました。
「この瞑想をはじめてから、以前より、集中力が高まったことを実感しています。
例えば、会議や講演など、長時間じっと聴かなければならない状況になった際、以前は、妄想ばかりして、気がついたら何も聴いていなかったことがしょっちゅうでした。
しかし、最近は、そういった妄想がなくなり、これもヴィッパッサナー瞑想の効果だと感じています」

 

………………………………………………………………………

 

10/22(月) 良きものも悪しきものも、高貴なものも卑しいものも、公平に、淡々と眺めていくウペッカ(捨)の精神は、慈悲の瞑想を根本から支える心所(メンタル・ファクター)でもある。
ウペッカの心をなかだちにして、サティの瞑想と慈悲の瞑想とが響き合い、通底し合う。
すべてを受け容れ、すべてのものと調和する心の完成に向かって、サティと慈悲の両輪で、清浄道を進んでいく……。

 

………………………………………………………………………

 

10/21(日) 受容する心→理解→智慧→悟り……という流れに、どうしたら入れるだろうか。
受け容れる心がまえと、技術がなければならない。
どのような対象も無差別平等に受け止めて、ただ認知するだけにとどめておく技術……。
……サティの瞑想。

 

………………………………………………………………………

 

10/20(土) 受け容れる覚悟を定めていれば、嫌な人や嫌なものも、ありのままに、正しく理解することができるだろう。
その人を、その物を、その状態や情況をよく知り、正しく理解すれば、受け容れることができるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

10/19(金) 異質なもの、嫌なもの、対立するものを受け容れるためには、自分の感じ方、受け止め方、考え方、価値観……を変化させなければならない。
受け容れるとき、エゴが捨てられていく……。

 

………………………………………………………………………

 

10/18(木) 否定のエネルギーには、破壊の要素がある。
受容する心には、対象と同化しようとする調和の要素がある。
「受け容れる」ことは、あらゆるものが生み出されていく創造性の原点とも言えるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

10/17(水) 受け容れることができなければ、心の底で無意識に否定し、ネガティブなエネルギーの葛藤が続くだろう。
あるがままに認め、受け容れることができた瞬間、素直なエネルギーが流れ始める。
解放と創造が、始まる……。

 

………………………………………………………………………

 

10/16(火) 根本から乗り超えるためには、たとえ最悪の状態であっても、ありのままに受け容れることができなければならない。

 

………………………………………………………………………

 

10/15(月) 合宿に参加された方から、メールが来ました。
「合宿から帰ると、パソコンがバージョンアップされたように頭の回転がよくなりました。
相手が何を考えているのかがスーッと理解できるようになり、智慧を働かせて対応するので、今までのような軋轢が起こらなくなりました。
イライラしなくてすむので、気分よく過ごせています。
また、動物的なカンが働くようになったのか、書店に入ると、目の前に探していた本があったりします。
今までいかに取りとめのない思考や妄想に振り回されていたのか思い知らされております」

 

………………………………………………………………………

 

10/14(日) 自分のためだけに生きていると、自分自身を食い尽くし、枯渇してしまうよ……。

 

………………………………………………………………………

 

10/13(土) クーサラ(善行)を行なうことによって、善心所モードに切り換わるだけではない。
<徳>という名の善業エネルギーが発生する。
体が整い、心が整い、環境全体が整わなければ、瞑想修行は成功しない。

 

………………………………………………………………………

 

10/12(金) 自分の修行が進むことしか考えていない自己中心的な瞑想者は、高慢や物惜しみ、嫉妬、焦り、イライラなど、不善心所に陥りやすい。
不善心所モードになった瞬間、善心所のサティは失われている。
心のモード変換には、体を使ったクーサラ(善行)がよい。
他の瞑想者の修行が進むことを祈りながら、喫茶コーナーを整える。
風呂掃除、トイレ掃除、窓拭きなどの作務をする。
衆善奉行が、瞑想を進ませる……。

 

………………………………………………………………………

 

10/11(木) サティが上手くいかないのは、その人の心が不善心所モードに陥っているからです。
サティは、浄らかな心のファクターである善心所に分類されます。
いかにして、不善心所から善心所へモード変換できるかが、瞑想修行を進める大事なポイントです。

 

………………………………………………………………………

 

10/10(水) 合宿オリエンテーションを受けていた20余人全員が一斉に2分間の瞑想に入った。
思考の波動がパタリと止み、堂内の空気が一変した。
鮮烈な印象だった。
思考モードの猥雑さと、思考を離れた意識モードの清潔さ……。

 

………………………………………………………………………

 

10/9(火) <心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす>【「ダンマパダ(真理のことば)3−39」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

10/8(月) <心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば安楽をもたらす>【「ダンマパダ(真理のことば)3−35」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

10/7(日) <心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。−弓師が矢の弦を直くするように>【「ダンマパダ(真理のことば)3−33」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

10/6(土) 他人をどのように赦してきたのか、あるいは赦さずに責め裁いてきたのか。
同じやり方で、私たちが過ちを犯したときに、裁かれ、あるいは赦されることになるのです。

 

………………………………………………………………………

 

10/5(金) 強力なカルマで決定づけられた人生の流れも、そもそもは、一瞬一瞬の情報処理のやり方と心の反応の仕方が膨大に集積されたものにしか過ぎない。
誰でも、痛い目にあったのをきっかけに、深く反省して人生の軌道を修正してきているではないか。
本当に理解すれば、どんな人も、これから人生をリセットすることができる……。

 

………………………………………………………………………

 

10/4(木) どんな人も、濁流に押し流されるかのように、いかんともしがたい力でそこまで来てしまったのだ。
たとえ許しがたい人であっても、その因果の流れを憐れんで、受け容れてやれないものだろうか。

 

………………………………………………………………………

 

10/3(水) もし一方的に介護され、お世話になるだけの情況にいるならば、万感の想いを込めて、感謝の心を捧げる修行をしましょう。
言葉に発することができなければ、黙って、感謝の想いに心を統一させていきます。
ありがとう……と心の中で言い、幸せな良い人生でありますように、と祈ります。 
生きとし生けるものに感謝の念を捧げながら、慈悲の瞑想をして終わります。

 

………………………………………………………………………

 

10/2(火) 共通する部分や類似性を見出すのがポイントです。
地を這う虫の視点では、違いしか見えないかもしれない。
上空から眺めるように、自分自身と周囲の情況を対象化してみる……。

 

………………………………………………………………………

 

10/1(月) 異質なものを理解し、受け容れようとするとき、ものを見る角度や視点を変えざるを得ない。
ウペッカ(捨)の心が養われる瞬間……。
エゴを乗り超える一歩……。

 

………………………………………………………………………

 

9/30(日) 傷ついている人、苦しんでいる人に対して、慈悲の瞑想をする。
悪を行ない苦しめている人、その家族、加担している人、傍観している人に対しても、同じ密度の慈悲の瞑想をする。
眼に見える存在も、眼に見えない存在も含め、無量無数の力が働いて、ひとつの情況が出現し、展開している……。

 

………………………………………………………………………

 

9/29(土) 夜、眠りに落ちたまま、二度と目が覚めなかったら……?
輪廻転生が終るのは、永遠の安らぎでは……。

 

………………………………………………………………………

 

9/28(金)  <亀が諸の肢体(首と四肢と尾と)を自分の甲のなかにひっこめるように、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほごして、なんぴとをも謗るな>【「ウダーナヴァルガ(感興のことば)26−1」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

9/27(木) ああ、思い上がっていたな……と自らを省みる瞬間の心には、余裕があり、静けさがある。
外界からの情報にのめり込んでいる心、思考が充満している心、サティを入れる心、経験する一瞬一瞬に耳を澄ませる心、自らを省みる心……。

 

………………………………………………………………………

 

9/26(水) 智慧が閃き、物の見方が一変する瞬間のために、毎日10分間以上のサティの訓練と衆善奉行……。

 

………………………………………………………………………

 

9/25(火) 嫌いなのだから、「私が嫌いな人々」のグループに正しく再配置して祈った。
すると、スーッと楽になり、重い荷物をやっと本来の場所に置くことができたような解放感があった。
嫌っている心をありのままに認めると、心が落ち着き、今まで見えなかったものも見えてきた。
嫌う心もあったが、本当に仲良くしたいと思う気持ちや、優しい気持ちもあったのだ。
……このようなプロセスを経て、他人に投影されていた自己嫌悪をありのままに認め、受け容れることができた。
以来、今日まで、怒りの心が立ち上がっていない。
のみならず、3ヶ月前から続いていた肘の痛みもほぼ消えてしまったというレポートです……。

 

………………………………………………………………………

 

9/24(月) ヴィパッサナー瞑想を始めて以来、嫌いな人がどんどん少なくなっていったが、最後にどうしても乗り超えられない人がいた。
抑圧された自己嫌悪がその人に投影されていないかチェックするとよい、という指導を受けた。
その後、慈悲の瞑想をしていて、ハッとした。
難敵のその嫌いな人を、「親しい人々」のグループに入れて祈っていたことに、まったく気がつかなかったのだ……。(続く)

 

………………………………………………………………………

 

9/23(日) 午前10時から始まる朝日カルチャー・センターの講座を受講するためには、朝6時の新幹線に乗らなければならない、という方に訊ねてみた。
「どうですか。ヴィパッサナー瞑想を始めてから、何かが変わった、とご家族の方に言われたことはないですか?」
「そうですね。朝から、ため息をつくことがなくなったわね……と、家内に言われてます」
心が本当に変化したかどうか……。
最も信憑性が高いのは、何もかも見られている家族からの証言です。

 

………………………………………………………………………

 

9/22(土) 同じ時代に生まれ、同じ共通の経験をしながら、視るものも、学ぶものも、覚るものも、人それぞれ、千差万別である。
経験が人の心を変えるのではない。
経験の意味が変えるのだ。

 

………………………………………………………………………

 

9/21(金) 自分の作ったカルマが運命となって、人生の流れを形成していく。
だから、自然な流れで与えられたものは、ことごとく受け取っていけばよい。
茨の道は、茨の道を歩むことによって、過去の心の偏りが修正され、業の負債返しがなされていくものと心得る……。

 

………………………………………………………………………

 

9/20(木) 戒の修行とは、徳の修行であり、人格完成の修行のことです。
善き人々に囲まれた寺の生活では、煩悩の出る機会がなく、潜在意識下に眠った状態(随眠)になるのが通例です。
煩悩まみれになりがちな在家の立場は、反応系の心を浄らかにしていく最高の修行場と言えるでしょう。
浄らかな心を揺るぎなく確立し、戒の修行を完成させることこそ、悟りの段階に確実に入っていく王道なのです。

 

………………………………………………………………………

 

9/19(水) 命を懸けて、本当にやりたいことのために、全力を注いでいるとき、人生は最高に輝いている……。
自分の本心が何を望んでいるのかを、ありのままに知るためのサティ……。

 

………………………………………………………………………

 

9/18(火) 真実のみを語ります。
相手のためになることを語ります。
耳にこころよい、柔和なやさしい言葉を語ります。
これが、言葉を発するときに気をつけることだ、とブッダは言います。

 

………………………………………………………………………

 

9/17(月) 自分の長所をほめてくれる人、励ましてくれる人、善悪を正しく教えてくれる人、心の浄らかな人、前向きな人、プラス思考に導いてくれる人、……そういう善き友を持ちなさい。
善き友(カラヤナミッタ)が得られれば、聖なる修行はほぼ成功したようなものです、とブッダも言われました。

 

………………………………………………………………………

 

9/16(日) 謝りなさい。
心の中で謝るだけでも、かまいません。
自分の非を認め、謝る練習をすれば、自分の不完全さが見えてきます。 
叱られる人の気持ちも、責められる人の心も分かるようになります。

 

………………………………………………………………………

 

9/15(土) ほめる練習をすると、人を愛せるようになります。 
相手の欠点ではなく、良いところを見るようになるからです。
自分をほめてあげてください。
自分を好きになることができるようになってくるでしょう。

 

………………………………………………………………………

 

9/14(金) 自分を好きではないのに、人からは愛されたいのですか?

 

………………………………………………………………………

 

9/13(木) 法として存在していたのは、「ムカつき」や「批判」「貪り」「傲慢」などの一瞬の心の状態だった。
その不善心所を「私のもの」と錯覚する思考にサティが入れば、エゴの正体が浮上する……。

 

………………………………………………………………………

 

9/12(水) ムカッときた瞬間、批判したり、貪ったり、傲慢に見下している一瞬一瞬……、自己中心的な、一方通行の視点から眺めているという自覚はありません。
ところが、「ムカつき」「批判」「貪り」「傲慢」……とサティが入る瞬間、クルリと何かが転換するのです。
外界の対象に突き刺さっていく外向的な視線が、自分自身を客観視する内向的な視線に一変する……。

 

………………………………………………………………………

 

9/11(火) 環境をガラリと変えれば、心が変わる可能性がある。
善き友を持てば、多大な影響を受けるので、心が変わっていくのも間違いない。
しかし、受身の気持ちでいるかぎり、決定的な変化は起こりにくい。
諸々のクーサラ(善行)を、自らの意志で、積極的に、能動的に行なうとき、人の心は大きく変わっていく。  

 

………………………………………………………………………

 

9/10(月) 愚行を繰り返してきた、恥多き来し方を、ありのままに認める覚悟。
事実を否定し、あるべき理想にこだわり続けているエゴ妄想の存在を、ありのままに観る……。

 

………………………………………………………………………

 

9/9(日) 思考のプロセスがつむぎ出していくエゴ妄想にトドメを刺すもの……。
サティの瞑想の、一瞬の洞察の智慧。

 

………………………………………………………………………

 

9/8(土) 自由意志で選んできたかに見えることも、実は、否応のない力で選ばされてきた連続に過ぎなかった……。
自分の運命を受け容れ、好ましいものも好ましくないものも、与えられたものをことごとく受け取っていくことができるならば、無我の感覚に限りなく近づくだろう。
そのように、因縁の流れに従いきっていくとき、過不足のない自信が静かに満ちていく。
エゴが脱落した後に残された存在を、ありのままに、潔く引き受けていきさえすればよいのだ……。

 

………………………………………………………………………

 

9/7(金) 自分はこの世に生まれてきてよかったのだ。
そう信じることができる環境での生育は、自我を健全に確立し、自信をもたらすだろう。
エゴ妄想に支えられた普通の自信だが……。

 

………………………………………………………………………

 

9/6(木) 自信イコール勝算や優越感と思っている向きもいる。
相手のほうが優秀だ。勝てそうもない……と判断した途端に、自信を失い、劣等感を覚える……。

 

………………………………………………………………………

 

9/5(水) 自分に出来ることと出来ないことが正確に見えていれば、勝ち負けや優劣の結果に関係なく、自分を信頼できるではないか。
上手くいっても、いかなくても、あるがままの自分を受け容れている人には、自信がある。

 

………………………………………………………………………

 

9/4(火) 真剣に人とつき合えば、相手の中に重ねられた自分の本質が見えてくるだろう。
相手の言動に次々と反応を引き起こしていく自分の心を客観視することもできる。
自分の中には存在しなかった相手の異質な部分を受容し、同化を試みるプロセスに豊かさがあり、超越があり、成長がある。
揺るぎのない自信を得て自己完結するとき、天命を知る……。

 

………………………………………………………………………

 

9/3(月) 傷ついている人や苦しんでいる人を心から思いやることができるのは、「ミラーニューロン」という共感の脳回路が働くからである。
ネガティブな経験が「悲(カルナー)」の心に昇華されて甦る……。

 

………………………………………………………………………

 

9/2(日) 「なぜヴィパッサナー瞑想をするの?」と訊かれ、「優しい人になりたいから」と答えた方もいる。
確かに、煩悩をなくしていく瞑想は、汚染された心を浄らかにしていく瞑想である。
嫌悪の心、嫉妬の心、残酷な心、独り占めして貪る心、冷たいエゴイスティックな心……。
諸々の不善心が減少し、きれいな心になればなるほど優しくなれるし、崇高な慈悲の心に近づいていく……。

 

………………………………………………………………………

 

9/1(土) さしもの猛暑も過ぎ去っていったか……。

 

………………………………………………………………………
8/31(金) <世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない>【「ダンマパダ(真理のことば)13−170」岩波文庫】

 

………………………………………………………………………

 

8/30(木) 楽しい人生になってきたら、幸せを存分に味わっておく。
苦しい人生になってきたら、諸々の学びを心に刻み付けておく……。
苦の経験がなければ、他人の苦しみに鈍感になるだろう。
苦が、「悲(カルナー)」の心を養ってくれる。
楽しい人生も良い。 
苦しい人生もまた良い……。

 

………………………………………………………………………

 

8/29(水) 複数の脳から指令が届くのだから、葛藤が生じるのは当然である。
煩悩の声にも、ダンマの声にも、葛藤している状態にも、サティを入れる。
どの道を行くことになろうとも、経験する出来事に一瞬一瞬サティを入れ、心に刻み込んでいけばよい。
善い経験も、悪しき経験も、純粋経験のデータが智慧の源泉となっていく……。

 

………………………………………………………………………

 

8/28(火) 悟りを求めたいが、まだこの世の楽しみも捨てたくないのだ。
瞑想とダンマに浸りきる出家の生活に憧れるが、便利で快適な都会の暮らしも離れたくない。
快楽を求め、やりたい放題をしたいと、本能の脳から強力に響いてくる煩悩の声。
貪・瞋・痴をコントロールせよ、と理性の脳から聞こえてくるダンマの声……。

 

………………………………………………………………………

 

8/27(月) ウペッカ(無差別平等に観る心所)が使えれば、ものごとを淡々と見送っていくことができる。
しかし、愛に執着し、憎しみに執われてしまう心が本当に変わるためには、悟るべきものを悟らなければならない。
どんな物事も因果のエネルギーによって転変し、無常に変滅していく実状。
甘美な妄想を胸に抱き、いつまでも手放さないでいることはできるが、状態も本質も一瞬一瞬変滅していくものには執着しようがないではないか……。

 

………………………………………………………………………

 

8/26(日) 今、当事者として、現在進行形で展開している出来事の渦中にいながら、同じように、淡々と客観視ができないだろうか。
望んでできるものではないだろう。
そこで、サティというメソッドの力で、強引に、客観的な視座をセットしてしまう。
The修行……。

 

………………………………………………………………………

 

8/25(土) 歳月が流れ、怨みも愛執も、今となっては本当にどうでもよいことになったとき初めて、事態をありのままに眺めることができるだろう。
もはや、執着がない。エゴが反応していない。
だから、理想的なサティが入りやすく、ありのままに客観視ができるのだ……。

 

………………………………………………………………………

 

8/24(金) 失ってみて初めて、掛け替えのない存在だったことに気づく……。
どんなものも、当たり前だと思えば、欠点にしか目がいかない。 

 

………………………………………………………………………

 

8/23(木) 幸福な環境が完全に整っていても、心に嫌悪があれば、不満足があれば、嫉妬や高慢があれば、安らぎは訪れない。静けさが拡がることもない……。
聖者たちは、どんな劣悪な環境であっても、そこを天国のように見なして暮らしている。
心に一点の曇りも汚染もないからです。

 

………………………………………………………………………

 

8/22(水) 衣食住が足り、人間関係に恵まれ、幸福の条件がすべて整っても、幸せにはなれない。
心が汚染されている限り……。

 

………………………………………………………………………

 

8/21(火) 智慧を妨げている元凶は、不善心所です。
どのようなレッスンをしようとも、汚染された心に浮かぶのは、身を破滅させる悪知恵ばかり……。

 

………………………………………………………………………

 

8/20(月) 学習する。知的理解を深める。自分自身の経験に照らし合わせて関連づける。応用問題として日常茶飯の事柄に適用し、検証する。追試をこころみる。外から来たものか、自分の中から生まれたものなのか、自分でも分からなくなるほど繰り返し、無意識の層に手渡して忘れてしまう。
そして、空っぽの心で淡々と瞑想を開始する……。

 

………………………………………………………………………

 

8/19(日) 思考プロセスが止まっているのに、なぜ洞察の智慧が閃くのか。
その背景には、無意識の層で進行していくダンマの脳内熟成がある。

 

………………………………………………………………………

 

8/18(土) 進むべき道を探し求めて遍歴する時代が終れば(→教相判釈)、生き方の流儀が確立する。
例えば「悪を避け善をなす」等の判断基軸が、いつでも迷いなく自動的に働く状態となるだろう。
あとは、心を空っぽにして、どんな場面も即興で水の流れるように生きて、誤まつことはない。
悠々と、与えられたものに従いきって、なすべきことをなしながら、この生涯を終ればよいのだ……。

 

………………………………………………………………………

 

8/17(金) 戯れに始めた瞑想だったとしても、思考が止まり、エゴの干渉が一掃されると、心が空っぽになるだろう。
心が空っぽになると、内奥に響く真実の声に耳を澄ますことができる。
その声に従いきっていくと、それ以外にはあり得ない、本来の道がおのずから開かれていく……。

 

………………………………………………………………………

 

8/16(木) 情熱のおもむくままに、遊びたかった。
学んでも、学んでも、底の知れない知的世界を極め尽くしたかった。
花のない青春だったと悔いるのも、ただ遊び呆けて無知な老人になるのも、嫌だった。
矛盾を抱え、迷いながら、何事もなし得ぬままに、矢のように時が過ぎ去っていった。
まだどこにもたどり着けない自分の、本心の望みが分からなかった。
自分は何をするために生まれてきたのだろう……。

 

………………………………………………………………………

 

8/15(水) 理想に燃え、我を張り通し、野望にも恋にも熱くなって、恥多き時代を通過しながら、見るべきほどのものを見なければならない。
ウペッカ(捨)が心に沁みてくるには……。

 

………………………………………………………………………

 

8/14(火) 淡々と我がことをなしていく……。

 

………………………………………………………………………

 

8/13(月) ときめきがなければ、美しい瞬間がなければ、甘美な陶酔がなければ、つまらぬ人生ではないか……。
だが、束の間の時は過ぎ行き、酔いから醒めて迎えなければならない朝が来る……。

 

………………………………………………………………………

 

8/12(日) 事実にのめり込まない。夢中にならない。つかまない。執われない。偏らない。
サティを入れる瞬間の<無私性>……。

 

………………………………………………………………………

 

8/11(土) 何のためにサティを入れるのか、その原点を忘れない。
思考を止めるのも、ありのままに客観視するのも、認識も洞察も理解も、一瞬一瞬のサティはすべて心をきれいにするための営み。

 

………………………………………………………………………

 

8/10(金) 綿密なサティが入らない時は、モードを変えて、大雑把なサティが連続すればよいと考える。
身体動作に合わせて「右」「左」、もしくは「歩いている」「歩いている」と、掛け声のようなラベリングでも構わない。
調子が良くなってきたら、センセーションをしっかり感じて、法の確認のサティに切り換える。

 

………………………………………………………………………

 

8/9(木) 苦の価値を見出し、楽への執着が諸悪の根源であることを正しく理解することによって、現象世界そのものを達観する。
進化の頂点に立った人類の<意識の進化>の究極で、涅槃を見る……。

 

………………………………………………………………………

 

8/8(水) 乾季で川は干上がり、泥水に横たわって口をパクパクしながら死んでいった無数の魚たち……。
水がない。酸素がない。呼吸ができない。死にたくない……。
恐るべき苦を乗り超えようとする強烈な意志(チェータナー)がほとばしり続けて幾星霜、やがて肺魚の祖先となった魚たちの気道の一部が膨らんで、毛細血管の密生した肺の原型が生み出されていった。
進化というものは常に、激烈なドゥッカ(苦)を超えようとする意志が原動力であった。

 

………………………………………………………………………

 

8/7(火) 自分に苦しみを与えてくる存在は、阿羅漢の化身なのだと見る発想……。

 

………………………………………………………………………

 

8/6(月) 善き人たちにばかり囲まれていれば、自分の心の汚染がアブリ出されることはない。
嫌らしい人たちは、こちらの心に怒りの煩悩が存在することを指摘し、浄らかにするためのトレーニングをしてくれている先生なのだ、と認識を改める。

 

………………………………………………………………………

 

8/5(日) 否定すべきものであっても在るものは在るのだ、と認めるいさぎよさ。
相反し対立するものが統合されていく時にこそ、新しいものが生まれるのは常識ではないか。
ネガティブな負のエネルギーも、力の塊りである。
必ずプラスに転化させることができるし、そこから独自の世界が切り開かれていく……。

 

………………………………………………………………………

 

8/4(土) 嫌悪・批判・怒りなど否定のエネルギーには創造性がない。
破壊したい心と否定のエネルギーの慢性化に、終止符を打つ。

 

………………………………………………………………………

 

8/3(金) ネガティブな自分をありのままに受け容れることができれば、前進していくこともできるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

8/2(木) 必然の力で与えられた自分の環境を、ありのままに受け切っていくこと。
先走らず、背伸びをしないで、今の自分の身の丈に合った修行を確実にやり遂げていくこと……。

 

………………………………………………………………………

 

8/1(水) 現象世界のどのような経験も、所詮、因果のエネルギーの生滅変化に対するただの反応にしか過ぎない。
それだけのことだ……。
そのように、ウペッカ(捨)の精神が不動のものになるためには、涅槃を見なくてはならない……。

 

………………………………………………………………………

 

7/31(火) どうしてもやってみたいことを実行に移し、その結果を記憶に焼き付けていく。
経験で理解し、納得がいけば、後戻りすることなく進んでいくことができる……。

 

………………………………………………………………………

 

7/30(月) 時が過ぎ、歳月が流れ、今となっては本当にどうでもよいことになったとき初めて、事態をありのままに眺めることができるだろう。
そのように、怨みにも、愛執にも、いかなるものにも執われず、淡々と、ありのままに客観視する精神を<ウペッカ(捨)>という。

 

………………………………………………………………………

 

7/29(日) 愛する人を失った虚脱感も、身を切るように痛切な悲しみも、3年経てば印象がやわらぎ、遠いものになっていく…と多くの人が言う。
すべてのものには必ず終りがある……と心得ておく。

 

………………………………………………………………………

 

7/28(土) 愛されなかった人が愛されるためには……。
自分が、まず愛を与えることです。
愛情に関しても、自分の出力したものを未来の自分が刈り取る法則。

 

………………………………………………………………………

 

7/27(金) 運命とは、業のエネルギーの別名でもある。
自分自身の過去の言動が運命となって現れてきているのであれば、受け容れるほかないではないか。
これからは、悪を避け善をなし、きれいに生きていけば、運命が変わっていく……。

 

………………………………………………………………………

 

7/26(木) たとえ自分自身が客観視できたところで、基本的なものの考え方や反応系の心が変わらなければ、事実の「評価」に苦しみ続けるだろう。
自分自身をありのままに受容することはできないだろうか。
あるいは、自分の運命を丸ごと受け容れることはできないだろうか……。

 

………………………………………………………………………

 

7/25(水) 他人と比べて自信を失ったり、自分が偉く見えたり、嫉妬したり……と揺れ動く評価に苦しむだけではない。
自分と比べてさらに苦しむ人も少なくない。
自分自身の理想イメージと現状を常に比べているし、また過ぎ去った黄金時代と比べて力を失っていく。
何かと比べた相対的な自分ではなく、あるがままの自分を客観視できないだろうか……。

 

………………………………………………………………………

 

7/24(火) 何と比べるかで、すべてが一変する……。

 

………………………………………………………………………

 

7/23(月) ゼロからのスタートを切った頃には、失うものが何もなかったではないか。
努力し、精進を重ねてきた結果、今日があるのだろうが、知らぬ間に欲望が固定し、執着が肥大してはいなかっただろうか。
全てを失ったところで、元々何もなかった原点に帰ってきただけではないか……。
家族を、財産を、友を、地位を、評価を、何をどれほど所有していようとも、死んでいく時には、業以外には何も持っていくことができない、とブッダは言う。  

 

………………………………………………………………………

 

7/22(日) 欲があれば、妄想が起きやすい。
ネガティブな結果を恐れれば、緊張する。
たとえ気づかなくても、百分の一秒、あるいは千分の一秒単位の妄想が常に飛びかっているのが人の心だ。
一時的でもよい、結果に対する無執着の心を作れば、心が静まり、集中が高まるだろう。
起こるべくして起きたことは、ことごとく受け容れる覚悟を定めてはどうだろうか……。

 

………………………………………………………………………

 

7/21(土) 今までと何も変わってはいない。
ただ、落ち着いてボールを、相手を、対象を、よく見るようにしただけなのに、急にヒットが連発し始めた……。
「結果は関係ない。やれるだけのことをやればいい」
と思った瞬間、心に微かな余裕が生まれ、シーンと静まったのだ。
サティの瞑想の極意……。

 

………………………………………………………………………

 

7/20(金) 落ち込んだ時には、傲慢の心がなかったかどうかチェックする。

 

………………………………………………………………………

 

7/19(木) どれほど苦しい日々であっても、悲しみや憤りや絶望感で今の心を汚さないように気をつけよう。
これから良くなると信じて、善心所を守りながら嵐が通り過ぎるのを待つのです。
始まりがあったものには、必ず終りがある。
夜明けは、必ず来る……:。 

 

………………………………………………………………………

 

7/18(水) なんの制限もない、無条件の白紙の状態では、何を、どう創造すればよいのか、途方に暮れるにちがいない。
偉大な発明が生まれ、創造性が発揮される背景には必ず、困り果てた状況があり、乗り超えなければならない苦難があった。
そのままでは、もはや生存できないギリギリの極限状況にうながされて、生命の進化は遂げられてきた。
自分に与えられたドゥッカ(苦)を乗り超えていく方向にのみ、その人だけが歩むことのできる悟りへの道がある。

 

………………………………………………………………………

 

7/17(火)  カルマが悪いから、苦しい人生になるのだろう。
だが、苦しい人生がなければ、苦を乗り超えようとする努力も、自己理解の深まりも、それを突き抜けて偉大な境地に到達していくこともないだろう。 
苦しい人生が展開していく局面の一つひとつから、その原因を組み込んだ過去の生きざまが浮かび上がってくるではないか。
自分に与えられたドゥッカ(苦)は、そこから全てが始まっていくダイヤモンドの鉱脈なのだと心得る。

 

………………………………………………………………………

 

7/16(月) 大きな仕事をなし遂げるには、全力投球をしなければならない。 
タイミングや環境など、自分以外の諸々の力にも助けられなければならない。
「今こそやるべきだ」と確かに感じているだろうか。
否応のない必然の力に催されているだろうか。
成否は、時の運ではなく、はるかな昔から集積してきた自分自身の善業エネルギーによる。
衆善奉行……。

 

………………………………………………………………………

 

7/15(日) なぜサティを入れて、ネガティブな事実をありのままに承認しなければならないのか。
否定すべきものであればあるほど、反射的に眼が背けられてしまうからである。
無意識の闇に抑圧されたものは直しようがないではないか。
事実を承認する→受け容れる→必ず乗り超える決意をする→努力が維持される→心が変容する……。
こうして、さしもの人の心も変わっていく。

 

………………………………………………………………………

 

7/14(土) 頭の中の理想とありのままの現状との間には、必ずギャップがある。
どのようなセルフ・イメージを持ち、理想の追求をしても構わないが、本心が納得していないことをパスして、先に進んでいくことはできない。
強引に先を急いでも、必ず後もどりすることになるだろう。
本心が囚われている恨みも欲望もコンプレックスも、ありのままに認めて、一つひとつ納得がいくまで解放してやらなければならない。
ヴィパッサナー瞑想が必需品である所以です。

 

………………………………………………………………………

 

7/13(金) ただの無思考状態を作るだけなら、サマタ瞑想のサマーディに入りさえすれば誰にでもできる。
思考の対象化がエゴ意識の自覚に直結している、と覚るまでには、「法の確認のサティ」を徹底しなくてはならない。
思考プロセスの完全な停止、入力情報の直接知覚、純粋なサティが入ったという感動的な確証……。

 

………………………………………………………………………

 

7/12(木) LPモードの「自覚のサティ」だけしかやらないでいると、サティの基本そのものが必ず甘くなってきます。
毎日最低10分間ぐらいは「法の確認のサティ」をレッスンしましょう。
技術的に不正確になれば、思考が対象化されず、サティなのか思考なのか自分でもよく分からない、曖昧な、考えごと瞑想になってきます。
そうなると、エゴが、思考モードの産物であることも忘れてしまう……。

 

………………………………………………………………………

 

7/11(水) 「自覚のサティ」では、今、自分が何をしているのかに気づいてさえいればよいのです。センセーションの実感に集中する必要はありません。
普段のスピードで自由に行動し、「見ている」「確かめている」「切る」「切っている」「伸ばす」「つかむ」「音」「思考」……と、ただ気づくだけ、自覚するだけのラベリングで充分です。
厳密な、ハイビジョン・モードのサティは「法の確認のサティ」と言います。
日常生活では、モード変換して「自覚のサティ」ができるだけで素晴らしいのです。

 

………………………………………………………………………

 

7/10(火) 戒を徹底して守ろうと心がけるだけで、日常生活がマインドフルになってくる。
蚊を見つけた瞬間の反応、微罪の嘘、とっさの言い訳などに注意深くなるので、自覚のサティがレベルアップするだろう。

 

………………………………………………………………………

 

7/9(月) 鎌倉時代や室町時代の一般庶民の生活レベルはどのようなものであっただろうか。
エアコンなしでは、夏が過ごせなかったのだろうか。
すきま風の多い木造家屋で、真冬の暖房設備などはどうしていたのか……。
何事も来るべきものは受け切っていく覚悟をすれば、耐えられないことはない。
「忍耐」の修行は、原始仏教では大事な徳目であり、十波羅蜜の一つでもある。

 

………………………………………………………………………

 

7/8(日) 快適な環境で修行できれば、瞑想が進み悟れるのだろうか。
だが、ブッダの時代からインドでも、ミャンマーやスリランカの寺でも、苛酷な気候風土のなかで苦受と戦いながら修行してきたのだ。
環境が劣悪であればあるほど、心に悪い反応が出てきやすいだろう。
そうしたエゴの反応を対象化し、苦楽を等価に観じきっていくのがヴィパッサナー瞑想である。

 

………………………………………………………………………

 

7/7(土) 最初から何も問題のない人よりも、苦労して反応パターンを組み替えたほうが、経験で学ぶものが多くなる。
前後の比較から理解が徹底し、説明能力も説得力も深まるだろう。
マイナスの経験は、プラスに転じることができる……。

 

………………………………………………………………………

 

7/6(金) 骨身に沁みたことだけが、心底から理解される。
本心から腹に落ちれば、揺るぎのない決意が生まれる。
本気モードで決意すれば、容易に変わらない反応系のパターンも組み替えられていく……。

 

………………………………………………………………………

 

7/5(木) 痛い目にあうまで、人の心は変わらない。
愚かなようだが、そうやって学習する……。

 

………………………………………………………………………

 

7/4(水) 不善心に巻き込まれると、その一瞬一瞬の心のエネルギーによって不善業が形成され、やがてネガティブな現象が生起してくるだろう。
だが、現れてしまえば、エネルギーは消滅してチャラになる。
どのような事象にも終りが来るのだが、すぐにまたネガティブ妄想をしていないだろうか。

 

………………………………………………………………………

 

7/3(火) 一切の妄想を排除し、純粋に痛覚のみが知覚され確認されている状態……。
サティが正しく機能すると、痛みが妄想で増幅され、心配や不安や嫌悪や苛立ちなどに発展することがない。
痛みの化け物が一掃されれば、ただ事実だけが残る。
落ち着いて、明晰な意識で、静かに、苦受を苦受として受け止めていけば、やがて終りが来る……。

 

………………………………………………………………………

 

7/2(月) 座る瞑想の最中に脚や膝やくるぶしが痛くなると、これはしたりと喜ぶ瞑想者も多い。
痛みの観察に入れるからである。
睡魔に襲われ、妄想にハメられ、脱線ばかりしていた人も、これでしばらく痛みの観察に集中できる。ありがたい……。

 

………………………………………………………………………

 

7/1(日) 何事も必然の力で生起し、転変し、滅し去っていく世界である。
原因のあることは必ずそうなっていくだろう。
壊れていくものも生じてくるものも、因果のエネルギーの展開は止めようがないのだ。
受けるべきものは、ことごとく受け切っていく覚悟……。

 

………………………………………………………………………

 

6/30(土) 心を汚すことなく、引き受けていく……。

 

………………………………………………………………………

 

6/29(金) 悪を避ける楽しさ。戒を守っている自信。悔いのない爽やかさ。人のためになる喜び。
瞑想に支えられる達観。浄められていく感動。果てしない静けさ……。

 

………………………………………………………………………

 

6/28(木) 悟る前の修行者たちは、明確な意志(チェータナー)をもって、あらゆる徳を積む。
解脱した聖者たちは、同じ行為を、チェータナーの伴わない機能だけの心(唯作心)で淡々とする。
悟る前も、悟った後も、同じ衆善奉行……。

 

………………………………………………………………………

 

6/27(水) 刀折れ、矢尽きて、やるべきことをやり尽くした最後の土壇場で自分を救ってくれるものは、それまでに積み重ねてきた善業の集積エネルギーである。
徳を積むことに、全力を尽くす……。

 

………………………………………………………………………

 

6/26(火) いつでも自分が自由に意志決定をしているなどと信じてはいないだろうか。
一日の大半は、心に組み込まれた思考パターンと行動パターンが機械的に反応しているだけに過ぎない、ベルを聞いた犬が涎を流すように。
常にマインドフルではいられないのだから、戒を受け容れ、必ず悪を避け善をなすのだという命令を組み込んでおく。

 

………………………………………………………………………

 

6/25(月) 仕事と日常の生活に呑み込まれ、押し流され、サティの入らない時間が矢のように過ぎ去っていくのが在家の瞑想者である。
サティが入らなければ、六門から入力される情報に普通に反応していくので、誤認も錯覚も判断ミスも日常茶飯事なのだと心得ておかなければならない。
たとえどのような情報を受け取ろうとも、自分の反応行動はダンマを拠りどころにすると決めておく……。

 

………………………………………………………………………

 

6/24(日) 統合失調症と戦いながら、ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいる方もいる。
外界からの知覚となんら変わらない、生々しい声を幻聴として退けるのは至難の業だという。
「声」の内容に反応したくなるのも当然のことだが、事実の声であろうと幻聴であろうと関係ない、と見るのがヴィパッサナー瞑想である。
セオリー通り「音」「聞いた」とサティを入れ、情報の中身に手を出さないことができれば、この病気にとって画期的なことだ。
ヴィパッサナー瞑想を貫いてほしい……。

 

………………………………………………………………………

 

6/23(土) サティの瞑想ができる人もいれば、できない人もいる。
サマーディに入れる定力のある人もいれば、入れない人もいる。
どのような意識状態も偶然デタラメに起きることはなく、諸々の構成因子と必要条件が完備した時に出現してくる。
発育と成長のさまざまな段階を経ながら赤ちゃんの心が成熟していくように、苦が乗り超えられ、幸福を実現し、さらに、解脱に向かって深められ進化していく瞑想の心……。

 

………………………………………………………………………

 

6/22(金) 他愛もないどうでもよい妄想にはサティが入るのに、のっぴきならない欲望や怒りの妄想になると、サティが入らないのだ。
ある瞬間にはサティが入り、別の瞬間にはサティが入らない。
これは、サティの機能の問題ではない。
欲望に眼がくらみ、激しく嫌ってしまう、諸々の反応系の心を自覚し、反応パターン書き換えの仕事に着手する。

 

………………………………………………………………………

 

6/21(木) サティが入らない。思考が止まらない。
欲望の妄想が膨らんでいく。
考えれば考えるほど、ぐらぐらと煮えたぎるお湯のように、怒りが募って爆発しそうになる……。
本当は、無常など何も解っていないのだ。
ギラギラしたイメージ、鳴り響く言葉、思考、妄想が頭の中に充満する……。

 

………………………………………………………………………

 

6/20(水) 足を踏みおろす瞬間にも、踏みしめていた足が床から離れる瞬間にも、……それまで存在してなかったセンセーションが出現してくる一瞬があり、また存在していたものが消えていく一瞬一瞬がある……。
存在するものは、壊れていくということ。
人生の拠りどころにしていた仕事も、家族の絆も、愛する人の命も、自分の心も体も消えていく。
業として来世に持ち越す愛執も怨念も、いずれ現象化し、変滅し、跡形もなく消え去っていく……。

 

………………………………………………………………………

 

6/19(火) エゴが抵抗しようがしまいが、法則通りに事象は生起してくるだろう。そして、不快な事象に反応した不善心所の出力エネルギーは新たな不善業を形成していく……。
不善心の反応→不善業の形成→不快な事象の生起→不善心の反応→……という悪循環……。

 

………………………………………………………………………

 

6/18(月) いかようにもがこうが、逃げまわろうが、蒔いた種が実れば、必ず刈り取らなければならない。
逃げ切れるものなら、カルマというほどのこともない、ただそれだけのことだ。
来るべきものが必ず来るのであれば、いっそ与えられたものをことごとく受け取っていく覚悟を定められないだろうか……。

 

………………………………………………………………………

 

6/17(日) 絶対的なものに身をまかせ、全てを託しきることによって自我感を脱落させようとする試みは、多くの宗教や諸々の行法に普遍的なものである。
ヴィパッサナー瞑想は、事実の検証なしに何ものかを信じたり崇めたてまつるのを嫌うが、しかし原始仏教にもその普遍性につながるものがある。 仏法僧に対する三宝帰依が徹底していくと、エゴのご都合主義や我執が弱められていく……。

 

………………………………………………………………………

 

6/16(土) 傲慢の裏返しである「卑下慢」も含めて<慢>の煩悩は、不還果の聖者になっても微かに残るという。 非を認め、過去のあやまちに深々と頭を下げて謝り、二度と同じあやまちを繰り返さないと誓う……。 真剣に懺悔の瞑想をしている時には、エゴ感覚も反射的な利己性も姿を消している。

 

………………………………………………………………………

 

6/15(金) 家族や仲間や、エゴにとって都合のよい者にだけ愛念を放射するのは、慈悲の瞑想ではない。
嫌いな人も好きな人も、敵対する人も味方する人も、皆、同じ人間であり、同じ生命ではないか……という無差別平等の視点に立って、慈愛のエネルギーがあまねく出力されているだろうか。
反射的に、敵味方、利害得失、好き嫌い、等々に振り分けてしまうエゴの働き……。
完全な慈悲の瞑想が発信できるようになっていくプロセスが、エゴを超克していく道。

 

………………………………………………………………………

 

6/14(木) つい眼を奪われ、音に耳をそばだて、浮かんだ考えに一瞬、のめり込む……。
そのように、印象の強い事象には必ず「見た」「聞いた」「考えた」とサティを入れるのです。
このヴィパッサナー瞑想の原則が貫かれている限り、自己中心的な視座を離れている。
サティとは、客観視の持続であり、エゴを乗り超える道……。

 

………………………………………………………………………

 

6/13(水) 悟るまでは、日々エゴとの戦いであり、いかにしてエゴ感覚を制御するかが大きな課題となる。
どうすれば良いのか……?
全てを対象化し客観視するサティの瞑想、無差別平等の慈悲の瞑想、痛切な懺悔の瞑想、仏法僧の三宝への帰依、与えられたものをことごとく受け取っていく覚悟……。

 

………………………………………………………………………

 

6/12(火) 触ったもの、匂ったもの、感じたもの、眼に入ったもの、耳に飛び込んできたもの……が知覚された瞬間、安全か危険か、良いか悪いか、損か得か、好きか嫌いか……等々が自動的に判断され、反射的な反応が起動していく,
自己保存の本能に根ざした生体防衛反応であり、エゴ妄想のスタートが切られる最初の瞬間……。

 

………………………………………………………………………

 

6/11(月) 例えば、歩く瞑想の一足一足のセンセーションに、全注意を絞り込むことができると、
「歩行感覚以外には何も存在していない!」
という強い実感に打たれるだろう。
サマーディ感覚が高まり、思考が完全に停止すると、「経験する瞬間の心」と「気づく瞬間の心(サティ)」のみが連鎖していく状態が目の当たりとなる。
諸法無我についての考察ではなく、瞑想の現場で無我の状態を実感として体験することが、仏教の実践ではないのか……。

 

………………………………………………………………………

 

6/10(日) 今、思ったその考えや感想を「(…)と思った」とラベリングする。
主観的な思考が次々と対象化されていく感覚を存分に味わうこと。
ただの考えであって、「思考=私」ではないと知る……。

 

………………………………………………………………………

 

6/9(土) 心が汚れないことを尺度とする。
結論として、心が不善心所に陥るのであれば、正しい選択ではなかった……。

 

………………………………………………………………………

 

6/8(金) どんなものでも視点を変えて見れば、肯定できないものはない。
まったく同じ業務内容でも、独立し、自分が経営者として取り組んでいるのであれば、やり甲斐があり、毎日楽しくて疲れを知らないのではないか。
自分の行為をどのように受け止め、意味づけるかによって、すべてが一変する。

 

………………………………………………………………………

 

6/7(木) 自己中心的になると、気に食わないことが激増し、ひどく疲れるのです。
嫌なことが多発し、不善心所モードが多くなってきたら、自己中心的になっていないか、チェックする習慣をつける。
ハッと気づいた瞬間、自分が客観視されてくる。
他人の心が見えてくる。
きれいなサティが入り始める……。

 

………………………………………………………………………

 

6/6(水) 前頭眼窩野に、脳の疲労を取る中枢があります。
その機能は、興味を持ち、好きになることによって、脳内疲労物質が排除されるという仕組みなのです。
「ああ、嫌だ、イヤダ……」の不善心所が人を疲れさせる真犯人……。

 

………………………………………………………………………

 

6/5(火) 仕事が忙しいから疲れるのではありません。
仕事が嫌だから疲れるのです。

 

………………………………………………………………………

 

6/4(月) どうしても逃れられない情況であれば、一転、自分から望んだことのよう受け容れてしまうとよい。
どうせやらなければならないのであれば、嫌々やるよりも、不善心所がゼロの状態で行なう方が良いのではないか。

 

………………………………………………………………………

 

6/3(日) ちょっと背伸びする程度に無理をするのがよい……。

 

………………………………………………………………………

 

6/2(土) 「最後に、まとめていただけますか?」
「反応系の心に汚染が残っていれば、サマーディは作りづらいということ。今、自分が置かれている情況を見据えて、なぜ瞑想をするのか問い直してみること。悟りたいのであれば、<戒→定→慧→解脱→涅槃>の正しい道筋に従って、まず人格の完成を目指すこと。その正しい<戒>の修行にサティの瞑想は極めて有効であること。瞑想を劣等感の抑圧と現実逃避に悪用しないこと。以上です」
「長時間、ありがとうございました」

 

………………………………………………………………………

 

6/1(金) 「最後は、眠気に通じていく妄想ですね」
「善心所も不善心所も、一つ現れれば芋づる式に同系の心所が連鎖していきます。直前に不善心所系の妄想をしていると、やがて煩悩としての眠気(昏沈・睡眠)に陥るのです。くすぶり始めたところでサティという水をかければ、火が点きません。
これまでの5つ全てに効果があるのは、小食です。食べ過ぎると、煩悩系の妄想が多発します。瞑想は体調に決定的に左右され、体調は食事の量と質で決まります。小食を心がけてください」

 

………………………………………………………………………

 

5/31(木) 「疑いや迷い系の妄想の消し方も教えてください」
「ポイントは、検証する精神です。何事もこの眼で見、この手で確かめたことには疑惑は生じないものです。ヴィパッサナー瞑想と科学が似ているのは、実証的精神です。ヴィパッサナー瞑想の場合は、仮説を立証しようとする脳内前提も取り外し、思考の止まった法としての知覚対象を一瞬一瞬観察していく瞑想です。このような純粋体験で検証すると信が定まり、疑いも迷いも生じなくなります。
もう一つ、検証できないまま考察を限界まで進めたら、同じことを頭の中で堂々めぐりさせない潔さです。同じ妄想が出てきたら、いさぎよくしろよ、と自分に言い聞かせるのです」

 

………………………………………………………………………

 

5/30(水) 「欲が消え、怒りが鎮まっても、フワフワと取りとめもない妄想が次々と浮かんでくるのはどうしたらよいのでしょうか?」
「なぜ自分は瞑想するのか、もう一度真剣に考え直すことです。自分は、この世的なくだらないことが大好きなのだとも自覚すべきでしょう。即効性があるのは、立派な法友と交わり、本やトーク、DVDなどでダンマの情報に感動することです」
「くだらない妄想を止めるには、この世を捨てるくらいの覚悟ですね」
「反応系の心が俗事に執着しているかぎり、サマーディは起きづらいのです。浄らかな世界や聖なるものの価値に目覚めるためには、嫌なことから逃げないことです」

 

………………………………………………………………………

 

5/29(火) 「反応系の心が本当に変わるまでには時間がかかるものですが、いちばん効果的なのは、因果論に基づく理解でしょう。怒りの心が自分自身の未来に及ぼすカルマ的影響がどんなものか、瞬時に想定できるように訓練するのです。
カルマの基本構造は<殺す者は殺され、罵る者は罵られ……>の法則です。怒りは対象を否定し破壊するエネルギーを出力するので、やがてそれに対応した嫌な現象を経験させられることになるという理解です」
「もし本当にそれが腹に落ちれば、怒れないでしょうね」

 

………………………………………………………………………

 

5/28(月) 「怒り系の妄想が暴れ出すと、本当に瞑想になりません。どうやって鎮めるのでしょうか」
「怒りの妄想を切断すれば止まるし、心は鎮まるのですが、それでは一時停止効果以上のものではありません。怒りを根本から超克するためには、心の反応パターンに徹底した理解を叩きこまないと難しいのです」
「例えば?」

 

………………………………………………………………………

 

5/27(日) 「なんでも手に入れるまでが楽しくて、手に入れてしまうと飽きちゃうのはどうしてか
な……と思ってはいました」
「妄想している時はあれほど甘美だった夢が実現した瞬間、ただの事実になってしまい、欠点やマイナス要素ばかりが目に立ってくるのはなぜか、ということです。事実からはいくらでも不満が見つかるのに、夢は甘美なのです。
欲望が生まれる構造、夢と現実と幻滅の構造を正しく理解すると、瞑想中の欲望系の妄想の出現率が変化する。これが2つ目です」

 

………………………………………………………………………

 

5/26(土) 「夢がかなった瞬間の喜びもあると思いますが……」
「一瞬の達成感や幸福感がないとは言いませんが、夢がかなってしまえば、すぐに当たり前になって、振り出しに戻るのではないですか。妄想する心のシステムで生きているかぎり、現実に満足することはできないのです」
「それならまた、新しい夢を見て、実現していけば良いのではないですか?」
「馬の鼻先のニンジン人生を繰り返しながら死んでいって、本当にいいの?」

 

………………………………………………………………………

 

5/25(金) 「サティで妄想を止めるのは定番ですね。もう一つは?」
「反応系の心の修行です。
欲望の虚しさを構造的に理解すること。ただのありのままの事象から、どのように欲望が発生していくのか、そのメカニズムを洞察して理解に焼き付けること。妄想する心のシステムが変わらないかぎり、どのような欲望も満たされることはない、と本当に解ること。永遠に心が渇き続け、欲求し続けて、不満足性というドゥッカ(苦)に苛まれなければならないと知ること……」

 

………………………………………………………………………

 

5/24(木) 「まず、欲望系の妄想ですね」
「欲望系であれ怒り系であれ、すべからく妄想を止めるためには2つの側面から攻略すべきです。
一つは、サティの切断作用です。美しいものが見え、ここちよい音が聞こえ、美味しい味が口の中にひろがり、芳香や気持ちのよい感触が意識された瞬間、サティを入れて後続を断つのです。
ああ、いい……!と、快感に身を任せ、打ち上げ花火のように拡がっていく妄想にのめり込むときに欲望が完成します」

 

………………………………………………………………………

 

5/23(水) 「妄想が5つに分類されると、例えば、どうなるのですか」
「欲望も怒りも後悔や疑惑もどんな煩悩も、すべて思考プロセスから生まれる、妄想の産物なのです。
5つの分類を列挙すると、欲望系の妄想、怒り系の妄想、フワフワと取りとめもない妄想、疑いや迷い系の妄想、そして眠気に通じていく妄想です」
「簡単に解説してください」

 

………………………………………………………………………

 

5/22(火) 「では、どうしたら妄想を止め、欲界を離れることができるのでしょう?」
「それに対する答えに、原始仏教の特徴がよく現れていると思います。
ものごとを要素に分けて、分析的に視ていくことによって心を浄らかにする。
原始仏教は、分析論と清浄道なのです」
「具体的には、どういう風にやるのですか?」
「漠然と妄想を止めようと思っても止まらないので、妄想を5つに分類し、一つひとつ潰していきます」

 

………………………………………………………………………

 

5/21(月) 「よく『この世を捨てる覚悟がないと、妄想は止まらない』と仰っているのは、つまり欲界イコール妄想ということなんですね」
「そう。この世を捨てて出家する……という言い方をしますが、物理的に俗世を捨てて山寺に入っても、妄想を楽しんでいるかぎり欲界の住人なのです」
「……逆に、眼耳鼻舌身の対象に純粋なサティが入れば、思考プロセスがいささかも働いていないので、これは法の世界であり、欲界ではないということなんですね」
「そういうことです」

 

………………………………………………………………………

 

5/20(日) 「まず、サマーディを妨害しているものとは何でしょうか?」
「総括的に言うと、欲界を離れるエネルギーがなければ、サマーディは作れないということです」
「欲界とはどのように定義されるのでしょうか」
「眼耳鼻舌身の五感の情報を楽しむ世界。それが欲界です。眼や耳から情報が入った瞬間、何も妄想をしなければ楽しむことはできないので、欲界は妄想とセットの世界です」

 

………………………………………………………………………

 

5/19(土) 「5月9日のご教示に戻り、サマーディを高めるもう一つの方法を教えてください」
「全注意を一点に注ぎ込む方法は、正しい手順を踏まないと危険性が伴うと説明してきました。しかるに、<サマーディの妨害要因を取り除く方法>には、まったく問題がありません。この方法こそ原始仏教の真骨頂であり、<心の清浄道>の王道と言えるでしょう」
「明日で結構ですので、分かりやすく解説をお願いします」

 

………………………………………………………………………

 

5/18(金) 「戒の修行が完成し、サマーディも完成しないと、サティの瞑想は始められないのでしょうか?」
「そんなことはありません。解脱のためのサティはサマーディ完成後に着手すべきですが、戒の修行や心の清浄道には一貫してサティの瞑想が必要不可欠なのです。
サマーディの定力が伴うか否かでサティの効果が異なりますが、誰が、どのようなレベルでサティの瞑想をしても、素晴らしい気づきの効果が検証されるでしょう」

 

………………………………………………………………………

 

5/17(木) 「いくら集中力があっても、気づく心がなければ何も洞察できませんよね」
「そう。たとえサマーディの完成状態で<無>と合一しても、時間が経てばサマーディは破れて必ず日常意識が戻ってくるので、一時的なハイテンションも崩れるのです。サマーディに入れば悟り、サマーディが終われば凡夫にリセット……の繰り返しです」

 

………………………………………………………………………

 

5/16(水) 「抑圧しているものを探しに行くと、かえってダメなんですね」
「自我が抑圧しているものを、自我が探しに行ったのでは、見つかるわけがありません。
自我意識やエゴ感覚があれば必ず<自己中心的>になります。<自己中心性>を崩すためには、眼耳鼻舌身意の対象を、淡々と、無差別平等に、客観的に、公平に、等価に気づいていくサティの瞑想がイチ押しということです」

 

………………………………………………………………………

 

5/15(火) 「合宿の体験記で読んだことがあります。……それにしても、なぜ、抑圧されたものまで洞察できるのでしょうか」
「サティが正しく機能すれば、思考の干渉が完全に止まります。すると、思考の産物である自我意識も消え、一時的な無我感覚で純粋観察をしている状態になります。すると、エゴが必死で隠そうとしていたものが、<優勢の法則>に引っかかって浮上してしまうのです」

 

………………………………………………………………………

 

5/14(月) 「なるほど。だから、まず徳の修行を優先する、という発想になるわけですね。
……徳の修行が終わるまでは、瞑想をしない方が良いのでしょうか」
「そんなことはありません。一点集中にこだわらなければ、サティの瞑想は驚くべき威力を発揮します。特に心の随観には、潜在意識に抑圧されたものが見事に検出された事例が豊富です」

 

………………………………………………………………………

 

5/13(日) 「どう、危ないのですか?」
「サマーディの本質である<集中>のファクターが達成されていく時、2つの仕事がなされています。
一つは、瞑想対象という一点にすべての注意を注ぎ込んでいくこと。もう一つは、それ以外の対象を意識から除外することです。この構造ゆえに、自分の見たいものにだけ眼を向け、嫌なものは抑圧しようとする弊害が起きがちなのです」

 

………………………………………………………………………

 

5/12(土) 「集中力の伴わない瞑想よりも、集中力のある瞑想の方が常に良い、というわけでもないのですか?」
「ブッダの教示した瞑想修行では、集中力(サマーディ)よりも大事なものがあるのです」
「戒ですか……」
「そう。サマーディ(定)の修行に必ず先行しなければならないのが、戒の修行です。戒とは、立派な人格を養う<徳>の修行と理解すべきです。汚染された心や卑しい品性のままサマーディの修行に専念するのは、ちょっと危ないのです」

 

………………………………………………………………………

 

5/11(金) 「サマーディが危険なのですか?」
「結論を先に言いますと、サマーディそのものが危険というよりも、サマーディの特訓を始めるタイミングをまちがえると、危いかもしれないということです。
原始仏教には、正しい瞑想修行の鉄則があります。<戒→定→慧→解脱>の筋道に従って、定(サマーディ)の修行をしないと、心の闇に蓋をかけ抑圧したままの状態になるだろうということです」

 

………………………………………………………………………

 

5/10(木) 「一つ目の、集中力の特訓を教えてください」
「瞑想対象に全注意を絞り込んで、散乱する心を鎮めていくのですが、その前に、なぜサマーディを高めようとするのか、もう一度確認しておいたほうが良いでしょう」
「え?……だって当たり前じゃないんですか」
「正しい手順にしたがって瞑想を進めないと、瞑想が逆効果にもなりかねないのです。
瞑想には危険な要素もあると心得ておきましょう」

 

………………………………………………………………………

 

5/9(水) 「集中力の弱い人はどうやって高めれば良いのですか」
「集中力が究極まで極まった時、瞑想の世界では<サマーディ>と呼ばれますが、そのサマーディを養うには、2つの道があります。
一つは、一点集中型のサマタ瞑想を筆頭に、諸々のやり方で集中力を訓練する。
もう一つは、サマーディの妨害要因の除去です」

 

………………………………………………………………………

 

5/8(火) 脳内にサティの回路が形成されてこなければ、音が聞こえても雑念が浮かんでもすぐに気づくことができず、次の思念とゴッチャになってすべての印象が不分明なものとなる……。
センセーションに集中する力が弱ければ、お腹や足の感覚がハッキリ感じられないのも当然です。
集中力(→サマーディ)の伴ったサティの安定を目指す……。

 

………………………………………………………………………

 

5/7(月) 果たして自分は正しく瞑想できているのだろうか……と常に迷いと疑問があった。
合宿の8日目と9日目に全力投球でサティの瞑想に没頭したところ、2つの体験をした。
1つは、約50分間、思考が普通に現れ去来したが、1つも取りこぼすことなく完璧にサティを入れることができた。
2つは、約30分間、一瞬も逸れることなく中心対象のお腹の感覚を感じ続けることができた。
……ピュアなサティの感覚を初めて垣間見ることができ、迷いがふっ切れたという。

 

………………………………………………………………………

 

5/6(日) 自分の身の丈に合った関わり方で瞑想をすればよい。
たとえお粗末なものであっても、自分のありのままの現状に基づいて取り組むほかないではないか。
現状を引き受けることができれば、その原因を組み込んだ過去の自分をも受容できるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

5/5(土) サティという技法の力によって、極めて難しい「エゴ性の強い思考」も対象化されていくだろう……。
毎日10分間以上、ヴィパッサナー瞑想を訓練していくと、諸悪の根源である自己中心性が自覚され、我執が弱められていく所以である。 

 

………………………………………………………………………

 

5/4(金) 反射的な批判、主観的な感想など、自分自身に密着したエゴ度の強い思考にはサティが入りづらい。
「なんだあの態度は……バカにしてる」
「この眠気は、食べ過ぎかな」
独り言のような、短い、断片的な思考を膨大に取りこぼしているので、いつの間にか自我感に囚われていく……。

 

………………………………………………………………………

 

5/3(木) 『この私が、誰にも頼らず、実力でなしとげたのだ』と思えば、高慢になるだろう。
『なんてドジなことをやっているんだ、まったく、お前(自分)は、どうしようもないヤツだよ!』と自分自身を責め裁く言葉を吐く人も多い……、呪うかのように。
エゴがやっているのだと思えば、成功しても失敗しても不善心所になり、ドゥッカ(苦)になる。

 

………………………………………………………………………

 

5/2(水) 自分は何でも自分の力だけでやっていきたい、というのですか?
存在というものは、他のすべての存在との相関関係の中でしかあり得ないし、本当は、多くの方々に護られ、諸々の力に支えられてやってこられたのではないですか? 

 

………………………………………………………………………

 

5/1(火) 三宝やダンマに身も心も委ね切ることができると、我執や自我意識などの「エゴ度」は確実に弱められる。
対人関係のみならず、スポーツも芸術表現も、諸々のパフォーマンス、講演、人前でのプレゼンテーション等々、どんな分野のどのようなことを行なう場合でも、「俺が…」「私が…」のエゴ感覚が微弱なほど、良い結果になるだろう。

 

………………………………………………………………………

 

4/30(月) 完璧に因果を読み解き、どれほど正確な未来予測ができても、それは、その瞬間だけのことであって、次の瞬間にはすべての条件が一変してしまう。
猿知恵の自分にいったい何ができるのだろう………。
その日、自分が接するであろうすべての人に対して、自分のなし得る最良のことがなされますように……と祈り、後は、ダンマに委ねきった直観で即断即決していく……。

 

………………………………………………………………………

 

4/29(日) 心が本当に納得しないかぎり、終りにすることはできない。
ダマシは利かないが、事実なら仕方がないか。 
ありのままに、事実を観ることによって、受け容れていく瞑想……。

 

………………………………………………………………………

 

4/28(土) 何が起きようとも、所詮この世のことは一時的な状態に過ぎない。
好いことも消えるが、悪いことも消えていくのだ…。
幸福にも、不幸にも終りがある。
徳を積んで天界に行こうが、煩悩をほしいままにして地獄や餓鬼の領域に堕ちようが、やがて輪廻する。
そのような、無常に変滅する現象世界そのものから、永遠に撤退しようという発想……。

 

………………………………………………………………………

 

4/27(金) 無我論の仏教を実践しながら、「私が悪いのです。いたらぬ私をお赦しください……」という表現はおかしなものである。
愚かな状態にセットされた心は、愚かな行為をする。
因果論を知らない無知な心が、愚行の引き金を引いてしまったのだ。
その不明を恥じ、無知であったことを懺悔する……。

 

………………………………………………………………………

 

4/26(木) これからは正しく、きれいに生きていくので、無知ゆえのあやまちを赦してください、と頭を垂れる。
「きれいに、正しく」とは、「生命を傷つけない。盗まない。不倫をしない。嘘を言わない。酩酊しない」という五つの徳目と心得る。
五戒を守り、世のため人のために善行をなし、心を浄らかにするヴィパッサナー瞑想を実践する……。
懺悔とは、未来志向であるということ。

 

………………………………………………………………………

 

4/25(水) 過ぎ去ったことは過ぎ去ったことであり、こぼれたミルクが元にもどることはない。
起きたことは起きたこと、やってしまったことはやってしまったこととして、そのことから何を反省し、何を学び取るのか。
同じあやまちを繰り返さないという決意。
償うべきものは償うという覚悟……。

 

………………………………………………………………………

 

4/24(火) 過去の過ちやしくじり行為を悔やんで、腹を立てる。後悔する。自責の念に駆られる。
泣く。自罰的になる……。
これらはいずれも不善心所の行為であり、正しい懺悔ではないと心得る。
懺悔の瞑想は、未来志向でなければならない。

 

………………………………………………………………………

 

4/23(月) 「理論的には、そうなんだろうなと思えても、感情が納得しない時にはどうすれば良いのですか」
「では、お母さんの心を傷つけ、悲しませてしまったことを憶い出してみてください。
お母さんが泣いている姿が浮かんできませんか?
あなたのことを、世界中の誰よりも大切にしてくれた人が泣いているのです、あなたに傷つけられて……」

 

………………………………………………………………………

 

4/22(日) 「怒りが治まらない時に、反省しようなどという気にはなれません」
「怒りに巻き込まれ、非難と罵倒の言葉が頭のなかを駆けめぐってしまうのは、自己中心的な立場に固執しているからではないのですか。
懺悔モードになるのは、その正反対の視座を構えることなのです」

 

………………………………………………………………………

 

4/21(土) 「まだ他にも何かあるでしょうか、不善心所から脱け出るのに……」
「不善心所に陥るのは、自己中心的だからです。
自己中心性を弱めるには、例えば、自分の非を認めて謝ることができるかどうかです。
この1週間を振り返って、何か自分に落ち度はなかったか、自己中心的ではなかったかと反省する……」

 

………………………………………………………………………

 

4/20(金) 「煩悩フレンドしかいない人はどうすれば良いのですか」
「悪友と交われば、やがてその悪友のようになる。自分と同じかそれ以上の人と共に歩めないなら、独り犀の角のように歩め、というのがブッダの答えです」
「厳しいですね」
「心が汚れていくような人と交わって不幸になるくらいなら、孤独に耐えたほうが良いでしょう。
長い輪廻のなかで常に最良の関係を育んできたベスト・フレンドと、今世でも必ず再会すると切に願っていれば、そうなっていくものです」

 

………………………………………………………………………

 

4/19(木) 「他に良い手立てはありませんか?」
「心のきれいな人と一緒に過ごすことです。
法友や師友(カラヤナミッタ)と呼ぶに値する人は、必ず浄らかな心に導いてくれるでしょう。
<善き友を持つこと、善き仲間のいること、善き人々に取り巻かれていることは、清浄行の全体である>とまでブッダは言明しています」

 

………………………………………………………………………

 

4/18(水) ダンマ系の本を開き、CDを聴き、ビデオやDVDを見て、共感した瞬間、心は変化しているだろう。
問題は、不善心所モードに陥ると、ダンマ系の情報に心を接触させようという発想が浮かばなくなることだ。
今の状態を常に対象化しようとする癖(←サティ)をつけなければならない。

 

………………………………………………………………………

 

4/17(火) ネガティブな状態にサティを入れて手放すのは、一つのやり方である。
強引に、善心所モードに切り換えてしまうのもよい。
慈悲の瞑想をする。
善行をする。
善行の記録「クーサラ日誌」を読み直すのもよい。  

 

………………………………………………………………………

 

4/16(月) 妄想が止まれば、不善心所モードは終わりになる。
煩悩も不善心所モードも、思考プロセスの産物だからである。
サティを入れて、思考を止める……。

 

………………………………………………………………………

 

4/15(日) 不善心所モードになれば、蜂の巣を突ついたようにネガティブな妄想が飛び交って心は乱れ、混線し、疲れていく。
爽かな善心所モードと、物事がありのままに視えるマインドフルな状態がキープされると、「ああ、疲れた」とあまり言わなくなる……。

 

………………………………………………………………………

 

4/14(土) 他の対象を除外して一点に集中する特質のゆえに、サマーディを狙う瞑想をする前に、心を浄らかにしなければならない。
トイレが汚くなるように、悪い想念で毎日汚れていく心の便所掃除をする。
心を直さないでサマーディに耽っていると、瞑想は現実逃避になりかねない……。

 

………………………………………………………………………

 

4/13(金) 自分を導いてくれてきた方々や、支えてくれてきた人たちに感謝し、今自分が手にしているものを還元しようとする発想……。

 

………………………………………………………………………

 

4/12(木) 順風満帆、すべてがうまくいっている時に、自己省察モードになるだろうか。
頭の中では、それ行けドンドンと行進曲が鳴り響いて、夢想と高慢が膨らんでいく……。

 

………………………………………………………………………

 

4/11(水) 鞭打たれてから走り出す馬もいれば、鞭が動く気配を感じただけで走り出す馬もいる。
思いきり鞭打たれても、頑として走り出さない馬もいるという。
痛い目に合った経験そのものではなく、経験をどのように受け止め、何を学び、理解したのか……。

 

………………………………………………………………………

 

4/10(火) なぜ、失敗して痛い目に合わないと、本気になれないのだろう……?

 

………………………………………………………………………

 

4/9(月) 深刻な失敗であればあるほど、痛切に骨身に沁みていく。
なぜ失敗したのか、正確に何が起きていたのかを把握することが出来れば、自分自身の本質を目の当たりにするだろう。
反省し、修正し、再起動しながら、人は立派になっていく……。

 

………………………………………………………………………

 

4/8(日) エゴ感覚が弱まる。
自分に都合のよい選択的注意を注がなくなる。
六門からの入力情報が、正確な順番でありのままに心に届く。
受け取った情報が既存の脳内データにつながっていく展開の仕方もありのままになる。
見たままに、聞いたままに、感じたままに、電光石火、マシーンのような即断即決が下されていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/7(土) 妄想から生まれたエゴの印象を拠りどころにするのではなく、自己に顕わになったダンマを拠りどころにする……。
過去の経験と知識と技術の集積が正しく配列されて、一瞬一瞬の情報処理と反応の仕方を決めている状態……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/6(金) エゴを乗り超えていく決意が不動のものであれば、価値観のオーダーが自ずから入れ替り、判断機軸の最上位に位置するだろう。
すると、何をしていようとも、エゴ感覚が顕わになった瞬間を逃さず、サティが入るようになる……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/5(木) 己の無力・非才が心に沁みていればこそ、ダンマに委ねきる感覚が痛切なものとなる。
仏教に信を定めた因縁に然らしめられるままに、ただなすべきことをなしているのだという感覚……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/4(水) 千分の一秒の刹那的思考が「私…」という自我感を残して駆け抜ける……。
自我感の印象は自動的に他者のエゴを意識させ、<慢(マーナ:自分と他人を比較する煩悩)>がギラリと光る。
「私の手柄よ…」と誇らしく胸を張る。 
あるいは、落ち込み、暗転する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/3(火) エゴ感覚が発生するのは、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入力された瞬間、「見たのは私」「聞いたのは私」……と刹那的思考が働くからである。
余計な夾雑物が充満している心は、最高ではない……。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/2(月) 自分の学んできたこと、経験してきたこと、培ってきたことを投入して取り組んでいるのだから、私がしているのだという当然の感覚。
一瞬一瞬同じことをしながらも、法にすべてを捧げて、身を委ね切ったかのような無私の感覚……。
芸術やスポーツや仏教の修行など、どんなジャンルでも、圧倒的に後者の方がよい仕事をする。

 

 ………………………………………………………………………

 

4/1(日) サマーディは、悟りの手段に過ぎず、究極のゴールではないという学習。
煩悩を肯定してしまえば、ブッダの教えからは逸脱するのだという理解。
正しい知識がなければ、至高の存在(→概念)との崇高な融合感覚に圧倒され、静けさと強力な喜悦感に没入してしまうだろう。
<戒→定→慧→解脱>のシステムを正しく理解し、必要不可欠なサマーディの役割と限界を心得て清浄道を歩んでいく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/31(土) 空っぽになり、無限なる至高概念との完璧な融合状態を深々と味わえば、悟ったと錯覚するのも無理からぬことだ。
だが、物質も無常、心も無常、終わりのないサマーディが完璧に、永遠に続くことなどあり得ないではないか。
日常モードに意識が転換すれば、微かであっても貪・瞋・痴の凡夫反応が再び起動する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/30(金) 悪臭のする心を何とかしようと、瞑想修行の道に足を踏み入れたわけである。
元の木阿弥はたまらない。サマーディの力業で垣間見た一点の曇りもないピカピカの心を、どうしたら永久保存できるのだろう……。
煩悩を刺戟する人里を離れ、嫌な人間関係をことごとく避け、不快要素を徹底的に排除して、心乱れることのない、静かな瞑想空間を確保しなければならない……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/29(木) 瞑想対象への集中が極まると、対象と合一し、対象になり切って固まってしまうのが、サマーディの特徴である。 
固まっている間は、一時的に「心も変容」していると言ってよいだろう。
サマーディに終わりが来れば、すべてが入定以前の状態にリセットされる……。
<洞察の智慧なきサマーディ>の一時停止効果……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/28(水) 裸眼で眺めるよりも、ピントの合った眼鏡をかけたほうが、対象の細部までクリアーに見えるだろう。
集中が高まり、六門の知覚が鋭くなればなるほど、対象認識も本質洞察の仕事も有利になる。
これが、ヴィパッサナー瞑想のサマーディの役割である。
肝心なのは、この世の真実の姿をありのままに見た時に起きる<心の変容>なのである。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/27(火) 快楽のたこ壷にハマったようなサマーディ感覚は、サマタ瞑想に特有のものである。
ヴィパッサナー瞑想のサマーディには必ず連動してサティが働くので、一瞬にして現実感覚に引き戻されてしまうだろう。
「今この瞬間の事実に気づく」というサティが機能するかぎり、心が仮作した概念世界に没入することができない清潔さ……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/26(月) ひとたびサマーディの変性意識状態を体験すると、多くの人が圧倒され、ヴィパッサナーの瞑想理論も心の清浄道も吹き飛んでしまう。
目くるめく官能の世界に溺れ込むように、サマーディという名の快楽に魅了されていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/25(日) 定力が伴っていてもいなくても、正しくサティの瞑想が行なわれれば、自己理解が深まり、心が変わっていく可能性がある。
たとえサマーディに自在に入定できる状態になっても、完成した集中力だけでは、心を根底から変える智慧の発現は難しい……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/24(土) 身体各部のセンセーション(実感)は、手応えのハッキリした実質感ゆえに集中の対象に適している。
しかし、身体実感に集中すればするほど、気づきの要素や観察の要素を連動して働かせるのが難しくなる。
サマーディという単一のファクターのみに限りなくのめり込めるサマタ瞑想。
同時並行に複数の構成因子を育てなければならないヴィパッサナー瞑想。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/23(金) 「膨らみ・縮み」の感覚や歩行の感覚に集中し、あるいは入息出息の感覚にどれほど集中しても、その一瞬一瞬にサティが入らず、気づく心がなければ、サマタ系の瞑想修行をしているだけに過ぎない……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/22(木) たとえどのような体験をしていても、ひとたび認識が確定し結論が出されてしまえば、「それ」になってしまう。いつの日か、眼から「ウロコ」が落ちるまで……。
歩行の動作が停止しても、あわてて結論を出さずに耳を澄ませれば、まだセンセーション(身体実感)の余韻が響いているではないか……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/21(水) どれほど素晴らしいことを語ろうとも、聞く耳を持たない者に伝わることはない。
相手の閉ざされた心が開かれ、話を聞く準備ができるまで、待たなければならない。
人生の何事にも、潮時やタイミングというものがある。
心に感覚を取る準備ができてから、一足の歩行の動作を開始する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/20(火) 心が本当に変われば、それを目の当たりにする家族は必ずショックを受けるだろう。
黙って率先垂範する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/19(月) せっかくの土曜の夜に、瞑想の講座に出かけていく妻に対して、若い夫は内心苦々しく思っていた。
『瞬間のことば』のCDを購入した妻は一日中掛けっぱなしにしているので、夫も否応なしに聴かされる破目になっていた。
<春の光がほのかに感じられる季節になってきました。……瞑想会に行ってみましょう>等々。
程なく夫は瞑想に寛大になり、明日の瞑想会には行かないのか、などと言うようになったという。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/18(日) 「前回の講座(朝日カルチャー)で慈悲の瞑想を習ったので、毎日の食卓で「いただきます」の前に慈悲の瞑想をしてから食事をいただくようにしてみました。 
慈悲の言葉に毎回意識が向くので、心がちょっときれいになってきたような気がします」
……良いレポートですね。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/17(土) 妻にもCDのコピーをさりげなく渡したところ、車の運転中などによく聴いているという。
やがて、CDブックの話題がしばしば食卓にのぼるようになった。
<すべてのことに満足している若者がいるでしょうか>
<母よ、あなたは今、何にサティを入れていますか?>
<娘よ、今、私はサティを入れていませんでした>等々。
ダンマが家族をつなぐ絆となり、楽しい団欒になってきたという……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/16(金) ヴィパッサナー瞑想者の父が、中学生の娘にCDブック『瞬間のことば』を貸してあげた。高校受験や女の子同士の人間関係で悩んでいたので、勉強の合間によく聴いていたらしい。 
半年が過ぎた頃、娘から悩みの訴えがすっかり聞かれなくなった。
成績も上がっていたという。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/15(木) 欲望系も怒り系も、不善心所の特徴の一つは、対象への執着とのめり込みです。
対極の「聖なる無関心」は、慈悲の瞑想とサティを入れる瞬間に現れる……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/14(水) 顔を見るのも忌み嫌い、一刻も早く離れたいと願えば願うほど離れられなくなるのは、強烈な執着がネガティブに働いているからです。
恐怖も然り、落ち込みも然り……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/13(火) お互いの不善業を消すために、出会うべくして出会っているのです。
親友のように仲良くやっていきたいと心から思えた時に、「因縁が解け」ている……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/12(月) 嫌な人が消えてくれるのを期待しながら慈悲の瞑想をしても、別れることは出来ない……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/11(日) 嫌いな人や苦手な人に対して真剣に慈悲の瞑想をしていると、2つのことがしばしば起きます。
一つは、不思議な展開で和解の方向が開けてきて、なぜか嫌いだった人が嫌いではなくなる、気にならなくなる、好ましくなる、好きになる……という具合に良好な関係に大転換することです。膨大な事例があります。
もう一つは、嫌いだった人がなぜか移動する、転属する、引越していく……という具合に、関係そのものが終了してしまうのです。
解くべき因縁が解けたのでしょう。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/10(土) 五戒を破ることはなくても、判断ミスをしたり、ぶざまな失態を演じたり、愚行を重ねてしまうのが私たちである。
しくじりを回避しきることは、できないだろうと心得る。
良き現象からも、悪しき現象からも、心を成長させる学びは等しく得られるではないか……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/9(金) もし戒がなければ、自ら律していかなければならない。
何でもありの世間にいて、たった一人で悪を避け、心の中で煩悩をねじ伏せていくことは途方もなく困難な仕事になるだろう。
戒によって守られているのだという感覚!

 

 ………………………………………………………………………

 

3/8(木) この世のことは、泡沫のごとく、あるいはかげろうのごとく見て、無執着を目指せ、と説いたブッダ。
何ごとも一所懸命に努力精進するのだが、本当は、どうでもよいではないかと達観し、淡々と取り組んで、悠然としておれ、というスタンス……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/7(水) 変化していく事実は、掴むことも止めることもできない。
心の中の妄想・妄念に執着し、握り締めているのだという消息。
視るべきものをありのままに見届けて、静かに手を離していくヴィパッサナー瞑想。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/6(火) 煩悩があるから、煩悩を衰滅させていく修行をしているのです。
執着を捨てるべきだと理性的に正しく判断しているものの、情の心は、捨てたくない、まだ持っていたいと告げている……。
そうであるならば、過渡的なその心をありのままに認めるのが、ヴィパッサナー瞑想です。
執着を無理に手放せば、反動が来ます。  
修行そのものを投げ出して、撤退していく人も多い……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/5(月) 腹が立ったら、理不尽な愚か者を赦し、受け容れる修行なのだと心得、まず怒りの火を鎮める。
落ち着いたら、慢(優劣や上下、貴賎など、他人と自分を比べる煩悩)の心がなかったか否かを点検する。
ヴィパッサナー瞑想が進んで、事象の因果性や、存在するものの無差別平等性などが腹に落ちていくのに比例して、やがて慢の煩悩も力を失っていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/4(日) 哲学的考察でまとめ上げた思考体系を、生きる拠りどころにするのですか。
そうではなく、日々の生活現場で五戒を守り、善行(クーサラ)を実践しなさい。
思考を止めて、ニミッタにたぶらかされず、事実の直接知覚に基づく観察の瞑想をしなさい。
事実の世界をありのままに洞察する智慧を拠りどころに生きていくならば、苦のない人生が展開してくるだろう……。
戒を守って悪を避け(諸悪莫作)、善行をなし(衆善奉行)、心を浄らかにするヴィパッサナー瞑想を実践すること(自浄其意)が、過去の仏たちが共通に説いた教えなのだ、とブッダは言う……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/3(土) どれ程のめり込みハメられていても、やがてニミッタの鮮明さが失われ、お腹や足のセンセーションに帰ってくる瞬間が訪れるだろう。
その現実感覚、リアルな実感で確かめられる法の世界を見失わないこと……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/2(金) どれ程まばゆく光り輝けるものも、聖なるものも、所詮、福神漬けのイメージやスリッパのイメージと同じ脳内現象に過ぎないのです。 
そう納得がいけば、『……よし、もう二度とたぶらかされないぞ。この次、出てきたら絶対サティを入れてやる』と決心するものです。
しかし、そんな風に待ち構えているところへ、同じ映像を出現させるような間抜けなエゴはおりません。
予想だにしない新手のイメージが出現し、意表を衝かれて、またもハメられてしまう……。

 

 ………………………………………………………………………

 

3/1(木) なぜ、たぶらかされてしまうのか……。
自作自演だからです。
自分の願いも価値観も宗教的情熱も、何もかも完璧に把握しているエゴによって仮作された脳内イメージなのです。
何を提示すれば誘惑されるのか、一番の急所を誰よりも熟知しているエゴを乗り超えるために<サティの技術>がある……。

 

 ………………………………………………………………………
2/28(水) 初めてニミッタを体験したにもかかわらず、セオリー通り「妄想」とサティを入れ、たぶらかされることがなかった……。
そんな人は、おりません。
いくら知識で分かっていても、必ず見惚れてしまうものです。
何度も失敗しながら、身をもって検証したものが本物になっていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/27(火) サマタ瞑想であれヴィパッサナー瞑想であれ、集中が高まると、さまざまな視覚映像がリアルに出現するものである。
光のイメージなどが多いが、菩薩や仏、聖母、神々等々の姿が現れると、大抵の人が感動し、魅了され、神秘体験を得たかのように錯覚する。
これらは「相(nimitta:ニミッタ)」と言い、視覚野の神経細胞が発火した脳内現象に過ぎない。
ヴィパッサナー瞑想では、ただの妄想なのだと心得て、たぶらかされないように気をつける。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/26(月) 「私が幸せでありますように……」と祈れなかったのに、いつの間にか唱えることが出来るようになりました……。
まだヴィパッサナー瞑想を始めて間もない方です。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/25(日) 一方的に介護を受けているだけの認知症の方々ですら、自分なりのやり方で家族の支えになりたいと願っているのだと知り、胸を打たれた。
利己的反応も真実だが、利他的行動も人間の命の深部に組み込まれている……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/24(土) 絶えず慈悲の波動を発信する人は、必ず愛されるようになります。
人間は愛されなければ、ダメになります。
どんなことがあっても自分の存在を認めて、受け容れてくれる人が必要です。
慈悲の瞑想をしてください。
嫌われ者だった人も、必ず好かれるようになっていきます……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/23(金) 不殺生の戒は、生命を尊重し、命を大切にする精神を養うためのものです。
生きとし生けるものへの殺傷を慎むことに端を発し、命を尊ぶ心は、究極の慈悲の完成にまで成長していく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/22(木) 赦せない被害者は、いつまでも解放されない。
自分自身が束縛から解放されるために、人を赦す……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/21(水) 発想が自己中心的になり、結果に捉われれば捉われるほど、心はかたくなに緊張していく。
しかるに、縁のある方々のために祈りを捧げようと発想した瞬間、心が切り換わって緊張がゆるみ、全身の細胞に微細なバイブレーション感覚が走り抜けていく。
心がひろびろとして、安らぎが訪れてくる……。
自分がではなく、自分に縁のあるすべての方々が幸いであるように……と祈る心は崇高なのです。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/20(火) 喉がカラカラに渇き、コチコチに緊張し、プレッシャーに圧し潰されそうなら、一度大きく深呼吸をして、慈悲の瞑想をする。
これから相対する方々、縁あって同じ空間や建物に居合わせているすべての人々に対して、心から幸いを祈るのです。
自分のことだけに執われていると、緊張する…。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/19(月) 眼耳鼻舌身意の六門から情報が入力された瞬間、認知システムの構造上、厖大な連想が光の速度で心に拡がっていく……。
事実の世界と妄想概念の世界は必ず混同され、無明が生まれ、転倒想が発生してしまう所以である。
その無明を破り、転倒想を乗り超えるために作られたヴィパッサナー瞑想……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/18(日) ドゥッカ(苦)なのに、楽だと錯覚する。
あらゆる存在は無常の法則に貫かれているのに、永遠不滅の存在があると信じてしまう。   
エゴは妄想の所産であり、本来、無我なのに、自我がある、真我がある、とかたくなに思い込む。
不浄なものが美麗に見えてくる。
<無常・苦・無我・不浄>の現実を<常・楽・我・浄>と錯覚し取り違える……。
これを「転倒想(vipalla^sa)」という。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/17(土) 苦を経験し、苦を心底から理解すると、一切皆苦の構造に投げ込まれている生きとし生けるものに対して、万感の想いを込めて慈悲の瞑想ができるだろうということ……。
しかるに私たちは、ドゥッカ(苦)を経験しているのに、ドゥッカ(苦)が解らないのだ。
頭の中に妄想が充満していると、本当はドゥッカ(苦)なのに、快楽だと錯覚する……。 

 

 ………………………………………………………………………

 

2/16(金) 70人の比丘が住むタイのワット・カボランで、瞑想指導をされていた尼アチャン・ソンポールが言われた。
「ドゥッカ(苦)が解らなければ、本当の慈悲の瞑想はできない……」

 

 ………………………………………………………………………

 

2/15(木) かけがえのない人を失い、何ものにもかえがたい宝物を失った経験……。
痛切な喪失体験が、他人の悲しみへの共感能力を養う。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/14(水) 不善心所が起ち上がる前に、苦受を苦受としてありのままに受け止めるサティがあるではないか。
たとえ不善心所が心に拡がっても、サティを入れて見送ることができるではないか。
慈悲の瞑想に専念し、対抗思念のエネルギーで不善心所を駆逐することもできるではないか。
「サティ」も「慈悲」も機能しないのであれば、クーサラ(善行)を実行することによって、善心所に帰ることもできるではないか……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/13(火) たとえ激しいドゥッカ(苦)に打ちのめされていても、それでも、善心所で反応することを貫くこと……。
怒らず、恨まず、愚痴らず、怖れず、落ち込まず、心を汚すことなく、善心所をキープするかぎり、未来は必ず良くなっていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/12(月) そうであるならば、苦痛にも必ず終りが来るだろう。
悪化した関係も、悲惨な情況も、どん底の不幸も、お先真っ暗な絶望感も……、永遠に同じ状態を続けることができない無常の法則が働いているではないか……。 

 

 ………………………………………………………………………

 

2/11(日) どんなに守り抜きたい、かけがえのない大事なものであっても、劣化は避けられず、必ず壊れていく運命にある。
快楽には、終りがある。
理想的な関係や状態がいつの間にか変質してしまう。
幸福にも繁栄にも黄金時代にも、やがて衰微の兆しが現れ、否応のない終焉の日が訪れる。
美貌も若さも、老いに向かって急速に失われていき、心も体もこの世から消えていかなければならない……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/10(土) <エゴの私>が否定し眼を背けても、<本心の私>はすべてを知っている。
いや、いくら無い振りをしても<本心の私>が知っているからこそ、「抑圧」の問題が起きてしまうのだと言えよう。
<エゴの私>が無自覚になることはできても、事実をごまかすことはできない。
因果法則により、たとえ負の現象が生起しても、一時の苦受に耐えれば終りになる。
正反対のエネルギーを放つことによって償うこともできる。
深い学びを得て、心を成長させることもできるではないか。
逃げないで、解くべき因縁は解く、と腹を括る……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/9(金) <いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強豪なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、>
<目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ>【「スッタニパータ(ブッダのことば)1−146、147」岩波文庫】

 

 ………………………………………………………………………

 

2/8(木) 弱肉強食の非情な世界で、誰もが幸せであることが不可能なのは分かっている。
それでも、生きとし生けるものが幸いであってほしい、苦のない生涯がまっとうされますようにと、決して叶えられるはずのない祈りを捧げていく……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/7(水) 数えきれない生きものと多くの人間に苦を与えてきた自分が、今、苦(ドゥッカ)を根絶するという瞑想をしている……。
申し訳ありませんでした……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/6(火) 己の未熟さと過去の罪業を想起して身を低めるのです。
無自覚な優越感や傲慢の臭みを除去するためには。 
慈悲の瞑想は、エゴを乗り超えるための修行なのだと心得る……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/5(月) いったい自分はこれまでにどれだけの人を傷つけ、どれだけ多くの生き物を苦しめてきたことだろうか。
父親や母親にあれほど愛してもらい、育ててもらってきたのに、その親を自分はどれほど苦しめ、悲しませてきたのだろうか……。
痛切に痛む心から発せられる慈悲の瞑想……。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/4(日) <悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交れ><劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え>【「ウダーナヴァルガ(感興のことば)25−3、5」岩波文庫】

 

 ………………………………………………………………………

 

2/3(土) <どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うということは、そのようなことなのである。>【「ウダーナヴァルガ(感興のことば)25−11」岩波文庫】

 

 ………………………………………………………………………

 

2/2(金) 他人が感じていることを理解する共感能力は、同じものを自分自身が過去に経験し、自覚し、その意味を理解してきたことによって培われる。
他人の心や行為を理解する瞬間の脳細胞は、自分自身が同じ行動をする時の脳細胞が使われているからだ。
これを、「ミラーニューロン(鏡の神経細胞)」という。

 

 ………………………………………………………………………

 

2/1(木) たった一人でも、自分を見守ってくれている人がいる。尊重してくれている人がいる……と感じられれば、苦境を乗り超えていく勇気が湧いてくるだろう。
黙って、衷心から幸いを祈り、慈悲の波動を発信する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/31(水) 煩悩を分かち合う共感にしかならないなら、慈悲のバイブレーションで包み込むほうが良い……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/30(火) 相手の悲しみや苦しみにエゴの立場から同情し、相手と同じ不善心の状態に自分も陥るのは正しくない。
慈悲の瞑想を発信するのと同じスタンスで共感する。
サティとウペッカ(捨)を堅持したエゴレス感覚での共感……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/29(月) どうしても認めることができない不祥事だからこそ、後悔と自己呵責を繰り返してきたのでしょう。
自分を罰し、責め裁いても、起きてしまった事実は元にはもどりません。
過ぎ去ったことがらに注意を向けるのを止めて、これからは、同じあやまちを繰り返さないと未来に誓うのです。
償いのエネルギーを、未来に向かって出力することによって、過去から解放されていけばよい……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/28(日) 臆病な人が臆病な人に出会うと怒りを覚え、ケチな人がケチな人に出会うと嫌悪することが多いようです。
抑圧された「自己嫌悪」が外に飛び出し、他人の上に投影されて、その人を嫌うという複雑な手順で嫌悪しているのです。
ありのままの自分を受け容れる勇気と、事実を認める潔さ……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/27(土) 事実をありのままに認め、受け容れることができた瞬間、不祥事をした自分とそれを責め裁く自分との葛藤が終る。
過去のあやまちや欠点や劣等感を隠蔽しようと、必死に抑圧していたエネルギーも任務を失い、解放されていく。
完全に受容することができ、すべてが赦せたとき、心の底から訪れてくる安息。
肩の重荷を下ろして、スッキリと、爽やかに生きる……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/26(金) 「自己嫌悪」や「自惚れ」という言葉が存在するように、嫌う自分と嫌われる自分、賛美する自分と賛美されている自分がいるかのようです。
「本心の私」も「エゴの私」も、どちらも妄想の所産と仏教では見ますが、2つに引き裂かれた「自分」が常に葛藤していることは確かです。
事実のみをありのままに認めていくヴィパッサナー瞑想の基本精神が、自己矛盾の葛藤を終息させる……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/25(木) 瞑想合宿中の大きな成果として、過去の自分をありのままに受け容れることができた方からメールが来ました。
「……先日の母親と一緒の旅行でも、今までのわだかまりは一切消え、実に気持ちよく一緒にいられました。
……今までの失われた時間を、今後埋め合わせしていこうと思います。
長い間沈殿していた澱が消えることがこれほど素晴らしいことであるとは、以前には考えることもできませんでした……」
ヴィパッサナー瞑想には、人の心を変える力があります。心が変われば、人間関係が変わり、人生が変わっていく証左を目の当たりにしたかのようです。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/24(水) 解脱した聖者は、慈悲の実践としてダンマを伝え、人々を苦しい状態から解放させるために淡々と善行の日々を過ごしている……。
聖なる修行を完成しようと、ヴィパッサナー瞑想者は、ありとあらゆるクーサラ(善行)を心がけて波羅蜜を熟させていく……。
すべての人々にとって、五戒を守り、諸々の善行を心がけることが、仏教徒の証しとなる……。
かくして、凡夫から聖者にいたるまで、仏教とは、「諸悪莫作(悪を避ける)」・「衆善奉行」に徹し、心を浄らかにしていく(「自浄其意」)営みに尽きるのです。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/23(火) サティの瞑想をするわけでもなく、悟りを求めようなどという気もないが、あらゆるクーサラ(善行)を常に心がけている人たちもいます。
現象世界には業の法則が働いているので、善い種を蒔けば善き果を収穫するのは自明のことで、必ず幸福度がアップするからです。
聖者でもなく、瞑想修行者でもない、一般のテーラワーダ仏教徒が、世のた人のために善行を行ない、衆生済度の仕事をする理由の一端です。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/22(月) 修行が進まない。悟りが開けない……。
それは、修行を推進させる波羅蜜(善業の集積エネルギー)が足りないからだ、とテーラワーダ仏教では考えられています。
ヴィパッサナー瞑想者が、まだ修行途上にもかかわらず、世のため人のために善行を行ない、衆生済度の仕事をする理由もここにあります。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/21(日) <先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。><自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしはつねにわが身をよくととのえている。賢者は自分の身をととのえているからである。>【「ウダーナヴァルガ(感興のことば)23−6、9」岩波文庫】

 

 ………………………………………………………………………

 

1/20(土) まだ悟っていない凡夫の状態よりも、悟りを開いた状態のほうが、法を広めるにも衆生済度をするにも、効率が良いのは言うまでもありません。
ブッダもそうなされたし、ブッダに続く阿羅漢たちもそのようにされたのです。
煩悩の泥沼に苦しむ凡夫が、同じ泥沼の中でもがき苦しむ他人を、どうやって救済するのか……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/19(金) 解脱に到る完全なシステムがブッダによって提示され、それに従って聖なる修行を完成した阿羅漢たちは、残余の生涯を人々の救済に捧げきって涅槃に入る……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/18(木) テーラワーダ仏教は、ブッダの説かれたダンマのみで完結した世界です。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/17(水) 苦楽も美醜も優劣も幸も不幸も是も非も……、所詮、<ディッティ(ditthi:見:ものごとをある立場から見ること)>の世界。
法を対象とする本来のサティがキープされれば、「ディッティ」を離れ、あるがままに観る如実智見の世界……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/16(火) ドゥッカ(苦)は人格を向上させ、敗因の研究から成功が導かれる。
批判や苦情は未来を切り開くアイデアの宝庫にならないだろうか。
ものごとを正反対の立場や、異なった立場から眺めた瞬間、すべてが変貌する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/15(月) 無駄なことはない。
無駄だったと感じる「ものの見方」があるだけ……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/14(日) 鮮やかな瞑想体験が得られた瞬間よりも、その瞬間をもたらした原因エネルギーが放たれていくプロセスに注目しましょう。
毎日行なうサティの瞑想、慈悲の瞑想、諸々のクーサラ(善行)、聞法、戒を守る情熱、法友とのコミュニケーション、反応系の心を成長させる全情報……等々。
華々しい瞑想体験は諸力の結晶した瞬間であり、本当に心を成長させているのは、地道に衆善奉行のエネルギーを放っている一瞬一瞬であるということ。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/13(土) 眼に見える成果は何も得られず、手ぶらで下山しなければならないリトリートもあります。
才能がないと自己嫌悪に落ち込むのも、瞑想修行を諦めて撤退するのも、愚かな発想です。
何が原因だったのか、敗因を徹底的に精査すれば、自分自身の短所や欠点や問題点が浮かび上がり、自己理解が深められるでしょう。
自分自身のマイナスのファアクターを完全に掌握し、肝に銘じることができれば、成功への道が開けたも同然ではないでしょうか。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/12(金) 本物のヴィパッサナー瞑想体験であれば、心が本当に変わるので、その効果は一時的なものに止まらない。
心の反応パターンそのものが一新されるのだが、具体的には、人生のあらゆる局面で、諸悪莫作・衆善奉行が徹底して実行されていくということ……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/11(木) こんなメールも来ました。
「合宿から下山し、子供たちに、なんかママ違うね、優しい感じになったよ……と言われ、とても嬉しく思いました。
帰ってきてから、まだ一度も怒っていません……」

 

 ………………………………………………………………………

 

1/10(水) 今まで何十年も無自覚でいたが、いや、「抑圧」していたが、あの頃、どれほど自分が淋しかったか、苦しかったか、口惜しかったか、誰にもぶつけることができない怒りを呑み込んできたか……。
その出来事ではなく、「辛かったんだよなぁ……。悲しかったんだよなぁ……」と、傷ついていた当時の<感情>をありのままに認めることができた。
涙が溢れ出て、体が熱くなった。
するとその後、問題の家族に対して『幸せになっていいよ……』と、心の中で言うことができたのだ、という。
本人が予想もしていなかった展開となった心随観のレポートです。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/9(火) ……「膨らみ・縮み」の身識の門にすべての注意が集中し、センセーションが異様な鮮明さで浮き彫りになっていった。
突然、「ドーン」と身識の門以外のすべての門が閉じられたかのように、心も体も環境もすべてが中心対象の感覚のみとなった。
その透明で、不思議な世界を味わうや、音もイメージも思考も、すべてに流れるようなサティが入り、時を忘れて没頭した……。
初心者の初めての合宿で、きれいにサマーディを体験される方もいる。

 

  <おしらせ>2月の短期合宿は中止になりました。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/8(月) 一瞬たりともサティを切らさないように努めてきた10日間合宿も大詰めを迎えていた。
<現象→サティ→現象→サティ>の完璧な連続状態を持続している瞑想者の波動に同調するように歩く瞑想に集中していった。
「(部屋全体に法が満ちている……)と思った」 
「(この法に身体をゆだねよう……)と思った」 
とサティが入った……。
微細な足裏のセンセーションに没入し、一片の思考も入らない状態を持続できたのは、他の瞑想者に助けられたからに違いない……とレポートされた方がいました。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/7(日) 一方、押し寄せる膨大な印象の海の中で、自分が何を経験しているのか訳が分からず、立ち往生することも多い。
ダンマに照らし合わせて経験の意味を正しく理解する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/6(土) 本を読み、人の話を聞き、さまざまな情報を収集し、熟知している事柄を、実際に初めて体験すると、何十倍何百倍もの圧倒的な印象と情報がなだれ込んでくる。
体験によって検証する……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/5(金) 現象→サティ、現象→サティ……と、どんなものにも必ずサティを入れて対象化する訓練によって、客観視が安定し、正確な自己理解が深まってくる。
ワガママ、我執、エゴイスティック、自己中心的、尊大……等々のくだらなさに咎(とが)を見て、エゴを乗り超える決意を揺るぎないものにする。
知的諒解と技術的訓練……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/4(木) <ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。>< ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。>【「ダンマパダ(真理のことば)1−1、2」岩波文庫】

 

 ………………………………………………………………………

 

1/3(水) 人の心はなかなか変わらないものです。
その変えがたい心を変え、成長させ、自己変革をなし遂げていくのは、生涯のテーマとして取り組むべき大仕事です。
たとえ同じ愚を繰り返すことがあっても、諦めないこと。
節操を曲げないこと。
決意し続けること……。

 

 ………………………………………………………………………

 

1/2(火) 敢えて自分に不利な発想を心がけると、ちょうどニュートラルなスタンスになるだろう。
「損をしてもいいじゃないか」
「たとえ自分に何の落ち度がなくても、問題に巻き込まれたからには、自分の不徳のなせる業だ」
「自分が相手にかけた迷惑だけを一方的に調べる」……等々。

 

………………………………………………………………………

 

1/1(月) 自然放置された心は、必ず自己中心的に働くだろう。
自分に都合のいい情報に、選択的注意が注がれていく。
情報処理の仕方も、判断の仕方も、反応の仕方も、すべて自分中心の観点に立ってしまうのは、生体防衛の本能であり、自我防衛の本能に由来するものだろう。
サティの瞑想のために、その基本的偏向を修正しなければならない。