『届くように』(匿名希望)

 

  今から十年前、私と小学三年生の息子は、雨の降りしきるキャンプ場にいました。夏のピークを過ぎ、他には数組の家族がいるだけで、標高と雨のせいもあって肌寒く、私たちは目前の清流をただ眺めていました。初めてのキャンプは夕食の準備も手際よくいかず、焦げたご飯を食べ始める頃にはすっかり暗くなっていました。
  ここに来る前に、妻との話し合いが終わり、私が息子を、妻が娘を育てることになっていました。
  何も知らない息子は、自分より大きな岩によじ登って、「雨でもキャンプって楽しいね。ご飯もとってもおいしかったね」と、笑顔で私に向かって言いました。
  「この子を必ずしあわせにしなければならない」。私は強く心に刻みました。
  それからの私は、毎日の買い物と料理を覚え、息子とたくさん遊び、よく話し、寄り添いました。
  しかしその後、成長し、高校二年生になった彼は、私と別れ、母と妹のもとへ向かったのです。
  私は、自分より子供のために生きる<いい父親>を疑いませんでした。そして、彼のことが私のすべてになり、自分を見つめることをしなかったのです。
  私は彼に厳しさだけを向けた父親でした。試合で負けた時も、洗い物を忘れた時も、嘘をついた時も・・・、いつしか口調はきつくなり、些細なことで叱っていました。そしていつも彼の出来ないことを探していたのです。
  そんな時、彼は言いました。「次はしっかりやるから、自分を信じて」
  彼は自分より弱い者でもやり返さず、堪える、穏やかな性格でした。友達も分け隔てせず、悪口や汚い言葉も言ったことがありません。私の作った拙い料理をいつも美味しいと食べてくれ、頼んだことに一度も嫌な顔をしませんでした。振り返ってみれば、息子に悪いところなどどこを探してもなかったのです。
  その日、些細なことで叱ってしまいました。その時私はどれほど醜い顔をしていたのでしょう。彼は今まで見せたことのないような、深く悲しい顔をして出て行ってしまいました。
  息子がいなくなった私には、もう何もありませんでした。ただ、直感的に、一人で家に居てはまずいと思い、車に乗って惹かれるように向かった先は、幼い日に仏教系幼稚園で毎日のように訪れた森に囲まれた神聖な場所でした。
  さらにその後、それまで宗教心も信仰も持っていなかった私でしたが、最も必要なときに、何者かに導かれるかのようにブッダの教えに行き着きました。そして読んだダンマパダ、ウダーナヴァルガ、スッタニパータには、まさに愚か者の私のことが書かれていたのです。私は何度も何度も読み返しては、ブッダの真理を心にとどめました。
  そうしているうちに、極端に体重が減っていることに気づきました。癌でした。以前、難病にかかった時は死におびえ、嘆き、心が沈みましたが、この時は、たった一人で病院にいても孤独を感じませんでしたし、告知の時も手術の時も、心がざわつくこともありませんでした。
  その頃父から手紙が届きました。父とはその三年前から絶縁状態で、長く癌を患っており、会うことはもうないと思っていましたし、最後の電話で話した時には「怨んでいる」と、そう言ったきりでした。その便箋いっぱいに書かれていたのは、私への怒りと怨みでした。私は手紙で、親の恩に感謝していることを伝え、傷つけたことを詫びました。
  しばらく経って父から電話があり、買い物をする力がもうなく、私にしてくれないか、と頼んできました。それから三か月間、私は父の側にいました。
  「世話かけて悪いな」。
  病院のベッドで、父の差し出した手を握り返した瞬間、私は思い出しました。それは幼い頃の父の大きな<あの手>でした。
  次第に容態が悪くなっていきましたが、病院への不満、気がかり、一人残された母のことを口にしていました。亡くなる前日、「もう、すべて大丈夫だから。心に何も持たなくていいから」、そう言うと父は静かに頷きました。それが最後の会話でした。
  次の日、私は父に手を添え、目を瞑り、届くように、慈悲の瞑想をしました。
  それから一年後、私は息子と会いました。私たちのことを案じた父が作ってくれたかのような時間でした。二人になった車の中で、私たちは静かに話し始めました。私の心は落ち着いていました。
  私は、正直に自分の愚かさを話し、深く謝りました。彼は、怒りや怨みを微塵も見せず、一つずつ心の内を打ち明けました。私たちは、もう、あのときの親でも、あのときの子でもありませんでした。
  「自分が言うのもおこがましいけど、お父さん、とてもいい方に変わったね」と息子は言ってくれました。
  今、私は認知症の母を介護しながら共に暮らしています。息子との電話で、私はたった一言、「少し疲れた」と思わず口にしました。
  翌朝、今日から大学生となる晴れやかな式典に向かう電車の中で、彼は少し硬い表情でこう言いました。
  「きついなら、自分もそっちに行って住むから」
  私は、今も、愚かな者です。それでも、一歩一歩、歩んでいます。