『苦 (ドゥッカ)が指し示す道』 岡田行矢

 

  瞑想を始めるきっかけとなったのは中学生の時から悩まされてきた頭痛です。その頭痛は始まると1時間以上持続し、痛みは強烈なものでベッドの上で七転八倒するようなとても苦痛を伴う酷い体験です。それはだいたい2年に1回のペースでやってきて、発作期間に入ると約1カ月間、毎日2〜3回頭痛発作に襲われます。
  その頭痛が起きている期間は毎日発作に怯え、発作が起きると気力と体力を根こそぎ奪われ何をする気も起きなくなります。何か目標に向かって努力していても頭痛発作が起きることで気力をなくし、全てが崩れていきました。しばらく頭痛から解放されてまた何かに頑張って取り組んでいても、頭痛発作が起きれば再び無気力で「できない自分」に逆戻りです。そのようなことが重なっていくともう俺は何もできない、頑張ったって無駄なんだと投げやりになっていきました。
  その頭痛が起きないようにしたいと思い、1年前に出会ったのがヴィパッサナー瞑想でした。瞑想によって得られる静けさや優しい気持ちは心地よく、もっとこの世界を知りたいと思うようになりました。瞑想に取り組んでいるとある程度までは集中が深まりサティの精度も上がってくるのですが、そこから先に進まなくなりました。また慈悲の瞑想にまったく気持ちがのらないのです。
  瞑想が深まってくると、なぜか自分が日々感じている怒りや高慢な部分が首をもたげてきました。というのは、私は他人を見下して怒りにかられることが多く、自分が一番偉いと思うことさえあり、明らかに自分が悪くても、心から相手に対して謝罪するということが一度もなかったということが明確に自覚でき、その問題から目をそむけて逃げているということにわだかまりがあったのです。瞑想をすればするほどそのような問題が僕の目の前に立ちはだかってきてどうにも瞑想ができなくなるので、先生の助言にも助けられとうとうその問題に正面から向き合って克服していく決意をしました。その決意をしたときの妙に清々しい気持ちは印象的でした。
  ヴィパッサナー瞑想で頭痛を完璧に克服したという実感はまだありません。頭痛発作はだいたい2年に1回のペースでやってくるので、起きるとしたら2016年だろうと思います。しかし、怒りや高慢に対して日々取り組んで行くことで、生きることが少し楽になりました。なぜなら、怒ることや他人を批判することに、いかに無駄なエネルギーを膨大に使っていたかが分かったからです。また、そのことで以前はまったく気持ちがのらなかった慈悲の瞑想や懺悔の瞑想も少しできるようになり、以前よりも柔らかで温かい気持ちで過ごすことができています。
  そして、自分になぜこれほどの頭痛が生じるのかということもよく考えるようになりました。仏教の考え方で事象には必ず原因があるということを常に意識していると、日々の生活の中でカルマ論の検証ができ理解が深まります。すると諦めていた人生ももしかしたら自分で切り開いていけるのではないかという希望も湧いてきました。
  そして、仮に私の現在の最大の苦 (ドゥッカ)である頭痛が起きても、そのとき自分に生じている感覚や気持ちの変動に鋭くサティを入れていき、それでもし頭痛の原因を特定できたら、また自分がレベルアップできるチャンスになるのではないかと考えるようにもなりました。
  少し良いことばかり述べてしまいましたが、実際はそう一朝一夕に人格が向上することはありません。日々の生活の中で怒りにかられることもまだしばしばあります。しかし私には、怒りや高慢を必ずや克服して完璧な慈悲を実践するという究極の課題が頭痛を克服しようとすることで明らかとなり、毎日家で行う瞑想や毎月の瞑想会に出席させていただくことで課題を再確認し、その道を意欲的に歩んでいけるということが喜びや自信にもつながっています。