『気がつけば出会いから7年』 J.N.

 

  色々なことがあったものの、自分の人生は結構順調に進んでいると感じていました。
  恵まれた環境で育ち、あまり苦労もせず大人となり、就職、結婚と進み、仕事も家庭もしっかり守ってきました。自分のことを良い人と思っていましたし、周りからもそう思われているであろうと勝手に信じていました。会社では当面の目標としていた所にも到達し、「さあこれからどこまで行けるかな?」などと考えている時のことでした。
  非常に優秀ですが、結構エゴの強いメンバーが現れ、何故か仕事が苦しく感じ始めたのです。今までなんてことはないと思っていた種類の仕事も非常につらく感じられ、猛烈な自己嫌悪に襲われたのです。今思えば、たまたま環境が良くて自分の中にあった「根深いエゴ」に気付くことがなかっただけで、その奥底にあるものとそっくりのエゴで私に向かって来る相手に出会うことにより、一気に顕在化したのだと思います。
  2〜3年その様な状態が続き、結果一か月の休職となりました。休職中に図書館で引き寄せられるように仏教のコーナーに行き、初期仏教を知りグリーンヒルに出会うことが出来ました。気がつけばそれから7年が経過しました。
  朝日カルチャー、瞑想会、1Day合宿、短期合宿などに参加し、自宅では毎朝40分程、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想、自分を戒める言葉を唱えることを行っています。
  もともと長続きしない性格でありますが、瞑想は何故かほぼ毎日欠かさず行っています。本当に朝早く起きて瞑想を続けられている自分が不思議です。心の何処かに、これしか自分は変われない、清くて健やかな心、慈悲と感謝にあふれ充実感のある日々を過ごしたいとの思いがあるからだと思います。そこに少しでも近づきたいと願っているから瞑想を続けているのだと思います。
  確かに直接的で感情的な「怒り」は少なくなっていますが、まだまだ数多くの「対象を嫌う心」や「慢(他者と比較する心)」を発生させているのが現状です。たぶん、自分に好意的でない人には、条件反射的に「慢」を発生させてしまっています。
  昨年短期合宿に参加させていただいた際に地橋先生から下座行を進められました。なかなか踏ん切りがつかず行動に移せなかったのですが、半年前からようやくスタートしました。今は毎週駅までの通勤路のゴミ拾いを中心に行っています。裏道も通りますので結構ゴミが多く、毎回2袋が一杯になる程拾っています。なんでゴミなんか拾っているのだとの思いや、雨が降った日はやらなくて済むのでホットしたりなど、まだまだレベルは低いのですがなんとか継続してやっています。
  ゴミを拾うなかで様々な思いが出てきます。
  さっきまで人が飲んでいたものなのに、何故捨てられた瞬間に汚いものに見えるのか。何故同じゴミで泥が付くだけでこんなに汚く感じてしまうのか。何故髪の毛は体から離れた瞬間にこんなに気持ち悪いものに変わってしまうのか。本当は差などまったく無いのに、受け入れ側の違いで大きな差が生まれることにあらためて気付かされています。
  「誰かに対して、泥を付けて見ていないだろうか」「本当は良い人なのに、たまたま泥が付いているから違うように見えているのではないのか」との意識も出てきました。
  また、ゴミを拾っていると「ご苦労様」とか「おはようございます」など声を掛けてくださる方がいますが、そのような方は、世間一般の裕福度と反比例の様な気もします。
  ゴミを拾う中で、「慢」とは何か?私の「慢」は何なのか?について考えさせられます。
  最近はこの様な日々を送っております。私の修行はまだまだですが、それでも7年前心の海の底に沈んでいた時期からすると、グリーンヒルに出会い目標を持ち、気付きを持つ生活ができていることに感謝しています。これも地橋先生をはじめスタッフの方々のお陰であり本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。