原始仏教の理論とその最高位の瞑想であるヴィパッサナー瞑想を研究、実践しています。


 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)の活動についてのお知らせです。


アクセスカウンター

スマートフォンからアクセスの方々へ   
  このホームページの画面の右上に表示されている  を
  クリックすれば、メニューを表示することができます。

「月刊サティ!」は、編集長が逝去されたためしばらく休刊します。

お知らせ
  月刊サティが新しくなりました。               

 

  以下のURLで、バックナンバーが閲覧できます。
     https://gekkan-sati.jp/
  新しい月刊サティの次号は、もう少しお待ちください。

お知らせ
  地橋所長の新刊本が2月20日発売開始    

 

     実録 ブッダの瞑想法 死のレッスン
            

お知らせ
  榎本憲男さんによる瞑想に関する記事が掲載されていますので紹介いたします。   

 

  ビジネスパーソンにも広がる「マインドフルネス瞑想」を実践してみた | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)
    https://forbesjapan.com/articles/detail/66185?fbclid=IwAR3GS4F8ousLIxmqZ0viCcIpJq1tOcSv6POEIMLnC3O8Ik1pKg3wl8y75QY

 

  シリコンバレーやウォール街にも浸透 ストレスから逃れ業務効率を上げる「マインドフルネス瞑想」が資本主義には“諸刃の剣”である理由
    https://www.moneypost.jp/1074871

お知らせ
  過去の瞑想会の【Q&A】(質問とアドバイス)
  がYou Tube動画で視聴できます。
         https://www.youtube.com/@web3486/videos 
  チャンネル登録すると、新しい動画のお知らせが来ます

 お知らせ
  「慈悲の瞑想」「懺悔の瞑想」「赦しの瞑想」のことば
    のページをアップしました。下のリンクをご活用ください。
     「慈悲の瞑想」のことば
     「懺悔の瞑想」のことば
     「赦しの瞑想」のことば

 今日の一言!

 

 2025年6月までの瞑想会スケジュールをアップ    

 

 初めての方を対象に、サティの瞑想を正確に体得していただくための講習会

   2025年3月の地橋秀雄講師による「初心者講習会」の開催  
   2025年3月9日(日)13時〜17時

 

 地橋所長が講師の泊まらない1Day合宿    満員御礼     

  2025年2月の1Day合宿の開催
   2025年2月23日(日) 実施
       1月27日(月) 23時〜予約受付開始 

 

 地橋所長が講師の31年連続の人気講座(2025年1月期)  
   朝日カルチャー講座新シリーズ(2025年1月期)は2025年1月25日(土)より開催  
   「朝の瞑想」は10階の教室になります。
   「夜の瞑想」は11階の教室になります。

 

 「ブッダのヴィパッサナー瞑想」のオンライン講座(2025年2月)
   2025年2月24日(月)19時00分〜20時30分に開催              
    ZOOMミーティングを使いますので、遠方の方々もお手軽に自宅から参加できます。
    お申込みは、朝日カルチャーで!
     朝カル・オンライン講座:「ブッダのヴィパッサナー瞑想」

 

 月刊サティ     
   以下のサイトから、アクセスしてください。
     https://gekkan-sati.jp/

 

 地橋所長によるダンマトーク(法話)のDVD・CD、書籍(一部)を購入希望の方へ
   アマゾンや瞑想会場などのほかに、メールでもご注文・購入できるようになりました。
   こちらのご購入方法をご覧ください。
   DVDなどの内容は『瞑想の本・CD・DVD』をご参照ください。

 

 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)へのメールアドレス
   メールアドレスは、greenhill-meisou@satisati.jp です。

☆☆☆☆ ヴィパッサナー瞑想の本のご紹介動画 ☆☆☆☆

 

マインドフルネスの源流 地橋秀雄による『ブッダの瞑想法』シリーズ
(春秋社刊)内容紹介(4分)

 


DVDブック『実践 ブッダの瞑想法』(地橋秀雄著)
内容紹介(3分半)

 

 

CDブック ブッダの瞑想法 「瞬間のことば」(地橋秀雄著)
内容紹介(3分半)

 

 

 

 

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ヴィパッサナー瞑想の本 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 


 



 

 

 

 


 



 

 

 





  

 

★ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)のツイッターが一日おきに更新されています。
 以下のURLで是非フォローしてください。
   https://twitter.com/greenhill_meiso

 

 



今日の一言

 

2月12日
★原始仏教では、神(Deva)や悪魔( M?ra)や餓鬼(Peta)など霊的生類が頻繁に登場し、ブッダやモッガラーナ(目蓮)を始めとする人間との交渉が生々しい。
 典籍には、瞑想中の比丘を悩害するペータや精霊の逸話も少なくない。
 霊的生類は万人にとっての普遍的な知覚対象ではない。
 そうしたセンサーを持ち合わせている者同士で語り合うべきものだ、とも説かれている。
 魑魅魍魎を語らずの原則だが・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

2月10日
★若くして出家したが師匠に命じられて寺男となり50余年、78歳のラーさんは、早朝の托鉢僧の送迎、食堂での食事供養、日に何度も落葉を掃き芝を刈り、必需品を調達し、あらゆる寺の仕事を黙々とやり続けてきた。
 「休日は?」と訊かれれば、「休日はない。休むのは、死ぬ時だ」と即答される、文字通り年中無休の生涯だった。
 誠心誠意ダンマに全てを捧げきったこうした方々に仏教が支えられて2500年、大乗仏教が主流だった極東の島国でヴィパッサナー瞑想を真剣に修行する人たちが微増している・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

2月8日
★母親が見守ってくれているだけで、子供は持てる力をのびのびと発揮できる。
 独りぼっちになってしまえば、不安や心配や危険回避の情報処理に心を奪われ、失速するだろう。
 心理的な安全基地を失えば、人は生きていけないほどヘトヘトに消耗する。
 熱帯の異国の寺の独房に籠って瞑想修行が続けられるのは、心から信頼できるアチャンと寺男ラーさんの、温かい眼差しと暗黙の配慮があるからだと痛感される・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

2月6日
★外国の瞑想センターでは、周期的にサヤドウやアチャンの法話と面接がある。
 大勢の瞑想者が広大な禅堂に集い、修行する寺も一般的だ。
 数年来、私が止宿するタイの森林僧院では、瞑想指導がなされず法話も面接もないので、クーティは完全な独房になる。
 孤独と沈黙の日々が続くと耐えきれず、途中リタイアした日本人が少なからずいるとも耳にした。
 修行の展開を検証しながら、自らにセルフ・インストラクションする経験値がないと行きづまるのも無理からぬことだ・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

2月4日
★素晴らしい仏像を見た瞬間、心が一気に高揚しダンマモードに切り替わるのを仏像効果という。
 嫌なことを引きずりながら帰宅すると、ネガティブ妄想はなかなか鎮まらない。
 サティは善心所に分類されるので、不善心所モードどっぷりでは立ち上がらないからだ。
 だが、美しいお気に入りの仏像やダンマ画像を凝視していると、たちまち心は同期してくる・・・。
 くだらないこの世的なことに執われていた自分が見えてくる。
 三宝に祈りを捧げて、瞑想を始めるとよい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

2月2日
★長期止住する老婆が携帯電話で怒鳴りまくり、エンジンブレーキが深夜まで鳴り響く寺になったが、天が与えた情況を絶対肯定する思想を説いてきた身である。
 不善業の受容とウペッカー(捨)の確立には絶好の修行だ。
 現象世界からの解脱を目指す者が、苦楽や快不快に反応していられようか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月31日
★深い緑の静寂に包まれたタイ北部の森林僧院も同一状態を保ち続けることはなく、必ず崩壊していくのが現象世界である。
 私が修行する環境に破壊的なことが起きてしまったのは一年前だった。
 クーティを取り囲んで防風林のように音をブロックしていた樹木が何本も伐採され、無残な切り株だらけにされていた。
 その結果、U字型の県道を疾走する車の凄まじい音が直撃してくる独房に変わり果てていた・・。
 全ては一時的であり、無常に変滅していく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月29日
★瞑想は体力勝負であり、体調を絶妙に整え、透明な意識状態を出現させなければ高度な仕事はできない。
 ブッダが解脱したのも断食直後だったが、私のような非才な瞑想者がリトリートに入れば断食は必須だった。
 40年前の過酷な苦行時代と同様の断食と絶食スレスレの条件を組み込んだら、意識の透明感が甦ってきた。 
 だが、色法(身体の変化プロセス)を完璧にととのえても、彼岸に達するには瞑想技法と解脱の智慧を備えなければならない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月27日
★瞑想を指導される者よりも、指導する側の学びは深く、多くを教えられた良い人生だった。
 さりながら私には、辛く苦しい修行の日々が最高に楽しい。
 悪戦苦闘しながら瞑想が深まり、諸々の謎が解け、犀の角のように黙々と瞑想の奥義を窮めていく至福の日々・・・。
 森林僧院の去り際に、「この寺で死ねば・・・?」とアチャンに誘われた。
 素晴らしいことだが、30年間も在家の修行者として瞑想指導を続けた私に、そのカルマはないだろう。
 宿業の力に押され、また私自身の潜在意識が自ら選んだ人生の流れである・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月25日
★いくつもの熱帯の寺でリトリートに入ったが、毎回決死の覚悟でガチガチになっていた。
 修行の成果に無欲の心で飛び立ったのは昨年が初めてだった。
 事の成否も、死ぬも生きるも、何もかも起きたとおりそれでよい、と腹が定まった。
 この世に残す未練は何もない。
 解放は、無執着に由来する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月23日
★瞑想とダンマを引き算すれば、何も残らない人生だった。
 衆善奉行を旨としてきたのは、世俗の幸福のためではない。
 物理法則のはたらく現象世界で事が成就するのに不可欠な徳を積むためであった。
 リトリートに入るたびに、貯えた徳をすべて捧げて修行の成功を祈った・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月21日
★新刊本のゲラ校正を優先しなければならず、今回はタイ森林僧院での修行を断念した。
 仕事や生活雑務に忙殺され、わずか三日間、修行時間が激減しただけで瞑想の切れ味が鈍るのを感じた。
 さらに多忙な在家瞑想者の悲哀が忖度された。
 家族を捨て、仕事を捨て、財産を捨て、究極の断捨離である出家をしなければ、荘子のように「聖人は俗務に従わず」と宣言することはできない・・・
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月19日
★何度も嫌な出来事が繰り返されれば、なぜ惹起されるかの原因が構造的に理解されてくるだろう。
 苦を経験しなければならない種を蒔いてきたのだ。
 そう納得がいけば、甘んじて受け容れる覚悟が生じてくる。
 苦を感じた瞬間の反射的な嫌悪や怒りが阻止されれば、新たな不善業を作らずにすむ。
 新たな善業を重ねれば、乗り超えていくこともできる。
 苦楽に動じない「捨(ウペッカー)」の修行を深めていく道もある・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月17日
★本の出版に関しては、過去世でよほどの不善業を作っていたのだろう。
 頓挫したり、暗礁に乗り上げたり、グズグズとぬかるみにハマったり、何かとトラブルが多かった。
 不徳を心得ていたので、外国の寺に行けば必ず衣・食・住・薬の四資具に加えて、ダンマブックや出版関係の布施をしてきた。
 悪業の結果も出るが、善業の因も果を結び、これまでに瞑想の本を何冊か上梓することができた。
 『死のレッスン』も何度失速し、放棄しかかったことだろう。
 スタッフの情熱と協力と励ましと見守りがなかったら、日の目を見ることなく、流産していたにちがいない。
 成就すべきものは成就していく展開に、善もすれば悪もしてきた者にふさわしい業の力を感じた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月15日
★存分に懺悔をした後は、自分を責め続けないことだ。
 ダンマを知らない無知な心が愚行をしたのだ。
 二度と同じ過ちをくり返さない。これからは法を拠りどころとして生きていく、と誓えばよい。
 自己呵責は、一瞬の心の生滅を「私」と錯覚するエゴ妄想の仕業だ。
 不善業の毒矢は一本でよい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月13日
★「故意に嘘をつく者に悟れる見込みはない」とブッダは言う。
 全ての煩悩の根本には、真実の状態が見えない「無明」の闇が拡がっている。
 意図的に真実を歪め、ありもしないものを捏造して欺く精神は、無明の闇よりもさらに暗い。
 無知ゆえの愚行を恥じ、懺悔の瞑想をしなければならない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月11日
★自己破壊の憤りで自滅寸前となったのは自らの意志だったが、外部の力(=業)が働いて助け出された。
 ものごとは個人の意志を超えて生滅変化する。
 10年の歳月を費して苦と苦の原因(妄執=渇愛)を身を以て証しながら、仏道の歩みが始まった。
 流されるままに流され、打ち上げられて今、ここ・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月9日
★二十歳の春には、金も地位も名誉もこの世的な価値などどうでもよかった。
 自分の過去に復讐するように生きていた。
 目の眩むような、輝く生の瞬間を求めていたが、虚しさの泥沼に沈んだ。
 遠方の友人の妻が送ってくれた本に従い、瞑想を始めて人生の流れが変わった。
 宿業の蓋が開かれた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月7日
★若い頃は、孤独が虚しく寂しいと感じたこともあったが、老いた今は、至福のものとなった。
 瞑想者には、孤独は宝だ。
 虚しさも寂しさも恐怖も、妄想の産物に過ぎない。
 この世の仕組みが理解され、輪廻転生の構造が視野におさまり、異界の生類の正体が詳らかになれば、怖れるものが無い・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月5日
★鉢と衣だけで生きていく真の出家ができれば、家族への愛執も世俗の栄達も財産への執着も手放すことができる。
 苦の因である渇愛を削ぎ、無我感覚と捨(ウペッカー)の心の確立になんと有利なことか。
 在家にとどまるのは、徳を積み、身をもって苦(ドゥッカ)の構造的理解を深めるためではないか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月3日
★何事かを成さねば、秀でた者にならねば、と愚かな我執に苦しんだ。
 身の丈を心得て、根拠のない野心が手放せた。
 何も望まず、願わず、ただ必然の流れで起きたことを受け容れていくと、成すべきことが見えてきた。
 悪を避け善をなす限り、道を踏み外すことはない。
 天命が顕わになる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

1月1日
★家族を持たなければ、我執に起因する愛別離苦はない。
 清潔な距離感の瞑想者たちとの絆を貫いているのは「捨」の優しさばかりだ。
 濃密な愛執に穢れることなく、ただ法のみを拠り所として独り生きてきた。
 守るものが無い。
 失うものが無い。
 この世に慈と悲を残しながら静かに去っていける・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月30日
★老いが素晴らしいのは、煩悩の束縛が衰微し、五欲から解き放たれていくことだ。
 見るべきほどのものは見たし、もはや俗世に望むものは何もない爽かさ 。
 残るは、聖なる修行の完成と、死のプロセスを刮目して見届けるだけだ。
 人生最高の日々が、こんな風に到来してくるとは予想外だった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月28日
★70代のアチャンと寺男のラーさんのどちらが欠けても事実上崩壊する異国の森林僧院だった。
 これで最後の覚悟をすれば、身の引き締まる想いがした。
 リトリートも、瞑想会も、この呟きも、ある日、突然、終わりがやって来る。
 老いが深まるほどに、毎回が全力投球となり、一瞬一瞬がこれほど痛切に輝くとは・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月26日
★一年前、不思議な展開で森林僧院の30日間修行に入ることができた。
 天が時を与えてくれたと受け止め、ぐずぐずしていた新刊本を必死で書き上げてタイに渡った。
 出版社の都合で刊行が遅れたが、今、再校ゲラの朱筆が終わろうとしている。
 書くべき本が書け、やるべき修行ができたのは、善業が集積した波羅蜜の力による。
 天とは、その別名だ・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月24日
★天が与えるとは、否応のない力で宿業が現象化する譬えに過ぎない。
 身を低めて天に祈りを捧げるのは、エゴを無力化させるためだ。
 悪業の結果は忍受し、善業の流れに従いきって成すべきを成すのが天命と心得る。
 根拠のない野望を強引に具現化するのは、愚劣な業を作る猿知恵ではないか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月22日
★我執の根は奥深く、エゴの欲望は巧妙に言い訳をしながら自己正当化してくる。
 道を踏み外さないように、こう祈るとよい。
 「天命を全うするのに必要なものは、すべて与えてください。必要のないものは与えないでください」
 天から与えられ、授けられたものだけで生きていくので【天与の祈り】という・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月20日
★日々起きるべくして起きたことを淡々と受け容れていくだけで人生は立派に完結していく。
 過去に組み込んだ業の結果が否応なく現象化してくるのだから、流されるままに生きていけばよい。
 「悪を避け善をなす」という判断基軸さえ貫き通せば、古人の言う「天命を全うする」生き方になっていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月18日
★プライドが高すぎ、自己愛が強すぎれば、ダメな自分が許せない。
 あるべき自分が、あるがままの自分を否定する。
 自分を特別視するエゴ妄想に執着すれば、苦が深くなる。
 過去世が異なり因縁の流れが異なるのだから、誰も、何ごとも、千差万別が大前提である。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月16日
★なぜ、起きたことは全て正しいのか。
 苦楽も善悪も幸不幸も、人間の勝手な印象であり、思惑に過ぎない。
 人類であれ生命であれ宇宙であれ、何がどのように存続しようが壊滅しようが、ただそれだけのことであって、必然の力で展開していく因縁の流れを正しく読みとり、無執着の極みを目指す・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月14日
★至高の存在と融け合うサマーディがどれだけ続いても、やがて日常意識に回帰すれば我執が戻ってくる。
 サマーディとサティが連動し、異様なまでの集中力で現実を直視する瞬間定に至らないかぎり、諸法無我の消息を洞察する智慧は閃かない。
 崇高な概念と合一するサマーディでは、煩悩は壊れない。
 無我の境地が永続するには、反応系の心を完全に浄化しなければならない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月12日
★左脳に卒中の起きたジル・テイラー博士の腕が浴室の壁と融け合い、自他を分かつ境界線が失われ、すべてが「私」と一体化し、無限のエネルギーに融け合っていく・・・。
 サマーディが極まって、対象と合一する感覚と同じ体験である。
 左脳を局部的に停止させれば、万物一如も自我の終焉も体験できるということだ。
 サマーディから醒めれば元の木阿弥になり、脳卒中が治らなければ言語障害に苦しみ続けるだろうが・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月10日
★罪悪感、後悔、隠し事、劣等感・・・。
 自分を責め苛む心を解放し、過去に終止符を打たなければならない。
 懺悔の瞑想に真剣に取り組み、愚かな過ちをしてきた自分をありのままに認め、ダンマを拠りどころに、正しく生きていく決意を揺るぎないものにしていく。
 鎖を解かれた心は、晴れ渡る。
 本当の瞑想が始まっていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月8日
★倫理なき瞑想は悪にもなると知るべきである。
 「万引きしてます」「銃殺してます」とラベリングして妄想を止めれば、恐怖心や罪悪感に手が震えずに仕事ができる。
 なぜ人類には、本能を制御する大脳新皮質が搭載されたのだろうか。
 欲望や怒りの暴走を抑えなければ自滅するからだ。
 普遍的な世界宗教には、煩悩的反応を制御する戒律が必ず定められている。
 戒は進化の必然だった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月6日
★ヴィパッサナー瞑想から倫理と宗教性を抜くことによって、マインドフルネス瞑想がビジネスの世界に広く普及した。
 ストレス緩和も集中力も客観視も、経済活動に有効だからだ。
 ブッダの瞑想のままでは、過剰な消費を慎み、利他行が奨励され、暴力性も否定され、強欲資本主義に都合が悪くなる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月4日
★人間を超越した覚者たちは、法のみを拠りどころにしている。
 しかるに、心の安全基地となる人がいなければ、孤独が耐えがたくなるのがわれわれ凡夫だ。 
 かけがえのない家族や男女の絆が濃密になっていくのは避けがたい。
 愛執がエスカレートし、渇愛という名の苦の原因になっていくのも、また必然の展開だ。
 清潔な距離感の慈悲の絆で結ばれるのは至難の業だが、テーラワーダ仏教の寺はその数少ない例外だろう。
 森林僧院の比丘たちの関係は美しい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

12月2日
★信頼する人達が去り、椅子の温もりも消えると、まどろんでいた猫が孤独な豹に変身するように、油断なく意識の流れを俯瞰し始める。
 瞑想はただ一人の道のりである。
 家族や仲間と一緒なら、たとえ苦海に呑み込まれ、火宅の家で遊び呆けていても安心してしまうのが人類だ。
 「群れるな、おしゃべりを止めよ、瞑想し、己を見つめよ」とブッダは説き続けた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月30日
★エゴの猿知恵が影を潜め、内奥の閃きに従って決断したからには、何が起きてもそれで正解と心得る。
 成功は常に一時的であり、挫折経験も宝の山に変わる日が必ず来る。
 塞翁が馬のこの世には、しょせん束の間の正解しかない。
 徳を積めば幸福な日々が、悪業を重ねれば苦渋の人生が、ただ虚しく、移ろい、転変するだけだ・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月28日
★これからどう生きていけばよいのか途方に暮れたなら、進むべき道を示してくださいと謙虚に祈りを捧げる。
 身近に小さな義務があれば果たし、眼前の選択肢を精査して熟考する。
 最後は、深層の心に問いを投げかけて、瞑想にゆだねる。
 心が静まり思考が止まるまで頑張れば、一瞬の確信が閃くだろう・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月26日
★自動的な錯覚と認知バイアスに無自覚になれれば、一切皆苦の人生が楽しくなる。
 楽受を貪る快楽原則も、妨害に対する怒りも、苦(ドゥッカ)に叩かれるまでエスカレートしていく。
 真実から目を背け、無常を永遠、不浄を甘美、無我を真我、苦を楽と錯覚する「転倒相」の無明こそ生命の仕組んだ罠・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月24日
★音楽にうっとりと感動していた高校生が戯れに「音」「回想」とサティを入れてみた。
 すると、海辺の夕焼けは雲散霧消し、感動のときめきも醒め、この瞑想はつまらないと思った。
 純粋な知覚情報を妄想で編集して楽しむのが欲界である。
 人生に陶酔し夢のように死んでいきたい向きには、真実を洞察する瞑想はやらない方がよい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月22日
★ヴィパッサナー瞑想に没頭するようになったある日、テレビを点けると、何百回も聴いたピアノ協奏曲が流れてきた。
 懐かしい旋律に「音、音・・」とサティを入れると、メロディがブツブツの単音に断片化されて崩壊した。
 もし映画だったら、24コマ/秒の静止画に寸断され、動画が壊滅するように・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月20日
★サティとサマーディが連動する瞬間定になると、究極の集中が一瞬一瞬の現実の知覚対象に分断され、サマーディがブツ切りになる。
 定力に比例して気づきは高速化し、音も、妄想も、体感も・・、刹那刹那に寸断され、1秒間に10数個ものサティが突き刺さる。
 そのとき、音楽を始めとする欲界の美は崩壊する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月18日
★瞑想をして頭の中の妄想が排除されれば、情報が正確に知覚され、正しい判断と適切な反応の礎になる。
 だが、それ以上瞑想を深めると、五感の情報を思考でまとめ上げる認識世界の虚妄さに気づいてしまう。
 欲界を楽しみながら輪廻を続けるには、真実相を観る瞑想は程々にしたほうがよい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月16日
★イメージの造型に没入しながら執筆するのは変わらないものの、全体の構想を司る客観性が純化してきたという。
 音楽の聴こえ方も一変し、超高級オーディオ装置で再生したかのような鮮烈な落差が際立ってきた。
 出音の瞬間が異様なまでにクリアーとなり、シンバルの音など金粉が舞うような美しさに打たれるのだという・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月14日
★邪悪な登場人物に同期しながら迫真の造型に没頭して書き上げると、心を解毒する必要が生じるのだという。
 音楽批評の〆切がチラつけば、無心に音楽を聴く妨げにもなる。
 ヴィパッサナー瞑想の心の清浄道に活路を求めた所以である。
 セオリーどおり事実と妄想を峻別する修行を続けて数ヶ月が経過すると・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月12日
★ヴィパッサナー瞑想者でもある小説家・榎本憲男が【Forbes】に自らの体験について書いている。
 彼は毎日100分以上の瞑想を実践し、1Day合宿にも毎回参加する、現在グリーンヒルで最も熱心な瞑想者の一人である。
 博覧強記の知識人だが、瞑想を始めたのは、妄想を離れる時間が必要不可欠と感じたからだった。
 https://forbesjapan.com/articles/detail/66185
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月10日
★歩行瞑想のコツが掴めずにいた音楽関係の初心者に「ピアニッシモのように繊細に、静かに、優しくタッチした瞬間の感覚・・・」と伝えた。
 即座に何かが閃き、その後はどの一歩にも同じ感覚はなく、畳の微妙な傾きや沈む実感にまで没入し、喜(ピティ)に浸りながら素晴らしい瞑想が体験されたという。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月8日
★六道輪廻の異界の存在に揺るぎない確証を得たのは、タイの森林僧院での雨安居だった。
 夜毎、寝台が揺れるほどリアルな霊的襲撃が怒涛のように激烈に繰り返された。
 妄想と事実の厳密な識別に生涯を捧げてきた者が、外在事象と脳内現象、あるいはサマーディのリアル感とを混同したのでは話にならない。
 万人に知覚されない世界は共有できる者同士で控えめに語れ、とブッダは戒めているが・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月6日
★寝込みを襲われ、意識朦朧のままB脱力や@サティに専念するのは難しく、除霊されるまでに時間もかかる。
 しかるにA燦然たる光への集中は一瞬にしてなされ、熱線で灼かれたように除霊されていく。
 毎夜、体が乗っ取られた重圧で目醒めた瞬間、眩い白光になり切って欲界を離脱する特訓・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月4日
★昼間は五戒を厳守しているのだが、夢の中では平然と、楽しむように破戒している人もいる。
 修行の道を選んだはずなのに、本心は欲界に執着している出家は、やがて還俗する。
 夢うつつで無意識に反応する心が、覚醒時の意志決定と合致しているだろうか・・・。
 自我が宰領する世界が浄化されても、深層の意識世界には汚染が残されている、「随眠」状態の煩悩。
 夜毎の睡眠中の憑依は、意識朦朧の半醒半睡状態でも、揺るぎなく出世間を目指しているかが問われていた修行だった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

11月2日
★悪魔パーピマンは7年間ブッダにまとわり付いたが、ついに断念した。
 中部経典「降魔経」では、歩行瞑想中のモッガラーナ尊者に悪魔が憑依する。
 霊的生類が実在しても、万人に知覚されなければ、検証を旨とする科学の対象にはならない。
 ともあれ、なぜ夜毎にこれほど執拗な霊的襲撃を受けるのか、その修行の意味が理解できた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月31日
★霊的な憑依が起きやすいのは、@何かに夢中になった瞬間、A雑念が鎮まり瞑想が深まった瞬間、B眠りに落ち意識が失われた瞬間、だろうか。
 @Aはサティを入れて一蹴するだけだが、睡眠中に体に侵入し乗っ取られた状態で目覚めた時が厄介だ。
 朦朧とした意識でサティを入れ続けるのは難しい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月29日
★タイの独房では、無数のパイプを体内に挿し込まれたかのような激烈な憑依だったが、全身の脱力Bが功を奏した。
 体組織を構成する分子や原子や素粒子に合一する感覚で脱力を深めていくと、雪が融けるように除霊されていった。
 なぜ、こんな修行を今さら、と訝ったが、結果的に、どんな霊的干渉だろうと駆逐することができる自信を得た・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月27日
★煩悩世界に君臨するマーラ(悪魔)も餓鬼の霊も、微細身ながら五感の情報を享け楽しむ欲界の住人である。
 それゆえに、例えば燦然と輝く白光の眩さに統一してしまえば、憑依の依り代が失われ別次元に駆逐された状態になる。
 対象のエレメントに集中するAの色界の瞑想が有効な所以である・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月25日
★憑依などの霊的干渉を受けた場合、最善手は徹底的に無視することだ。
 怖れたり焦ったり脅したり、反応すれば相手の存在を認めたことになり、憑依が逆に強化される。
 見た、聞いた、感じた、妄想・・・と、経験したとおりに淡々とサティを入れ続ける。  
 無反応、無視に勝るものはない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月23日
★昨夏のタイ森林僧院で凄まじい霊的襲撃を夜ごとに受け続け、リアルな現実と妄想や勘違いの錯覚を厳密に識別しながら、諸々の対処法を会得した。
 @憑依された瞬間から徹底的にサティを入れる。
 A欲界の存在を超越すべく、色界の瞑想に集中する。
 B全身の脱力に集中し、体の存在を消していく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月21日
★樹木でも葉群でもなく、陽に透ける純粋な緑の光彩に集中すれば色界の瞑想になっていく。
 対象の純粋なエレメントに集中し、姿かたちのある欲界を離れる修行が不可欠となっていた昨今だった。
 ヴィパッサナー瞑想者は魑魅魍魎を語るべきではないが、霊障が存在するなら断固として対処しなければならないと覚悟を定めていた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月19日
★樹木よりも陽光に燦めく緑に眼を奪われ、ブッダの立像よりも木洩れ陽に、涅槃像ではなくそのプラチナの輝きに吸い寄せられるようにシャッターを切っていた。
 妄想を離れた直接知覚の瞑想に集中する日々である。
 五感の情報を概念化して楽しむ欲界が色褪せていくのは必然の流れだった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月17日
★抜けるような青空の日に、八王子のプッタランシー寺院本山を訪ねた。
 竹林や樹木が鮮やかに照り映え、小規模ながらタイの森林僧院を彷彿させた。
 樹下に修行用の蚊帳が整えられた瞑想重視の寺である。
 写真撮影を快諾された比丘が一瞬にして瞑想者の眼差しになられたのはさすがであった・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

10月15日
★光り輝く聖なるイメージとの合一を目ざすサマタ瞑想者は至福に満ちた表情をしている。
 煩悩と向き合い、苦を洞察するヴィパッサナー瞑想者の表情は暗くなりがちだと語ると、「先生はどうして、いつも明るい感じがするのか?」と訊かれた。
 講座中と瞑想中では意識モードが違う。
 指導者の瞬間は、過去の成果や誇りとすべきポジティブなものを拠りどころにしている。
 だが、孤独になれば、伏流のように去来しているのはネガティブ妄想が圧倒的に多い。
 自惚れも自己嫌悪も、光も闇も、どちらも、どれも真実だ。
 人は、多数のエゴを持つ複合体として理解する。
 いや、一瞬一瞬のどの心も本当だった・・・と。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月13日
★思い悩んだら、瞑想を始めよう。
 意識モードがたちまち切り換わり、つまらぬ俗事に囚われていたことに気づくだろう。
 人は、事実ではなく妄想で苦しむ。
 脳内フィルターが解釈した世界に過ぎないことを忘れ、夢中になって実体視しているのだ。
 思考モードを離れた瞬間、妄執だったと覚知する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月11日
★修行も瞑想指導も、「こうしよう」「ああ言おう」と我執が働けば、万物が自然に展開する流れから逸脱していく。
 エゴ妄想を止め、空っぽになれれば、すべてが最良の展開になっていく。
 万物が相互に関連し合った諸法無我の消息に従いきっていくからだろう。
 無我感覚を極め、ゾーンに入る・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月9日
★瞑想指導が中心の生き方になると、自分の中の優れた部分や輝かしい成功体験を無意識に反芻し、己の不徳や愚かさから目を背けがちになる。
 「先生」と呼ばれる人々が陥る通弊である。
 修行途上で、まだなすべきことのある身のアーナンダが比丘や比丘尼たちに説法していて師僧のマハーカッサパから叱責された。
 「そなたはお喋りをして、何の役に立とうか・・・」
 深く心に沁みる言葉だった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月7日
★修行者を第一義にして以来、心をよぎる記憶や連想がネガティブなものに大きく傾いていった。
 光もあれば闇もある全人生の記憶の保管庫から、愚かで未熟で穢れたものばかりが検出され突きつけられてくる。
 清浄道の瞑想として当然の流れであり、正しい展開だ。
 残存する心の汚染を消去していくのがヴィパッサナー瞑想である。
 光り輝く崇高なものと融け合い、至福感に浸っている暇はない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月5日
★脳科学では、記憶は思い出すたびに書き換えられていくという。
 そもそも現実を体験する瞬間の認知が「あるがまま」の真実ではない。
 認知が歪み、記憶が変形し、老いさらばえれば家族の顔も忘れ、人生が丸ごと脱け落ち、夢のように死んでいく・・・。
 なぜ、あんなに必死で、無我夢中で生きていたのか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月3日
★中1の夏の熱中症、40年前のインド巡礼、昨夏のタイの孤独、昨夜の外食、5分前の珈琲、ピカリと光った稲妻・・・事実の世界が、現実が、次々と、ただの妄想の素材になっていく。
 どれほど苦しくても、楽しくても、過ぎ去れば、全て夢のようだ。
 何が起きても、それでよい、と達観する「捨(ウペッカー)」・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

10月1日
★過去世から集積された業は、今世でなした善悪の何百倍になるのだろうか。
 起きることは必ず起きるのだから、何が起きてもそれでよいのだ。
 必然の流れに従いきっていく覚悟が定まって以来、「捨」の心が安定した。
 若い頃に確立していたら、ドゥッカ(苦)が激減していただろうが、そうはいかないのが人生だ。
 愚行を重ね、羞恥にまみれ、苦に叩かれてやっと腹に落ちてくる・・・。
 人は、失敗からしか学ばない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月29日
★因縁の流れと義務感から瞑想指導を続けているが、心は一介の修行者に過ぎない。
 常に己の愚かさと残存する汚染に注意が注がれ、わずかでも向上していくことに喜びを覚える。
 三宝に導きを乞い、新たな閃きを実践し、さらに創意工夫する日々が楽しい。
 森林僧院も日本の孤独も大差ない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月27日
★無常論を知的に理解し「ホンマに、そうや」とうなづく人もいる。
 観察の瞑想を修行して、どんな現実も刹那に崩壊し、次々とただの妄想の素材になっていく光景に衝撃を受ける人もいる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月25日
★ただ生きてるだけで自動的に貪り、怒り、愚かなことをしてしまうシステムに組み込まれ、不善業を山積してしまう無明の人生・・・。
 一切皆苦になっていく世界の構造が理解できたなら、殺した者は命を助け、憎んだ者は愛し、奪った者は与えていくだろう。
 たとえ百千の悪に対するたった一つの善でも、やり続けて相殺していく他はない。
 苦の因を限りなく引き算していけば苦受の経験が減少し、楽受の瞬間がいや増す法則だ。
 それが、この世の幸福である。
 徳を積みまくって幸福の頂点に昇りつめたとき、現象世界のいかんともしがたい無常の苦が身に沁みる・・・。
 そこから、仏教の真の修行が始まっていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月23日
★外国の僧院で奇跡的に修行が進み、究極の瞬間が訪れるかと思われた刹那、思いも寄らぬアクシデントが勃発し、全てが破壊されたことが何度もあった。
 徳がないどころか、人の修行の決定的な瞬間を意図的に妨害した過去世があると確信した。
 瞑想者の方々に親身な指導を続けてきた所以である・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月21日
★自ら作った業の結果が異熟した瞬間、新たな苦楽の業を否応なく作ってしまう無限ループの世界は、もうゴメンだ。
 と、いくら腹に落ちても、深層意識の瞬間的な反応は不明だ。
 自覚できるのは、エゴが宰領する世界でしかない。
 「修行僧よ、汚れが消え失せない限り、油断するな」とブッダは言う。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月19日
★「幻滅」の構造を存分に検証し、現象世界の真相が洞察されてくるにつれ、「この世を泡沫のごとく見よ、陽炎のごとく見よ」というブッダの言葉が腹に落ちてくる。
 眼にウロコを貼り付け、勝手に思い込んだ脳内仮想世界を現実と錯覚しながら喜び、怒り、哀しみ、楽しむたびごとに新たな不善業を作り続けてきたのだ。
 あな、怖ろしや・・・。
 妄想が惹起する欲望の正体を見届けて渇愛を手放した者は、無願解脱の門をくぐって彼岸に達する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月15日
★願望実現のくだらなさを検証した後は、何も願わず、全現象完全受容の修行に入る。
 「無願三昧」という。
 悪業が縁に触れれば、悪しき現象に巻き込まれるだろうが、断固として悪は拒絶する。
 苦は受け容れるが、悪しき反応を命じる不善心は慎むのだ。
 五戒を守り抜きながら、天(宿業)が与えた苦楽の事象をことごとく受けきっていく修行・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月13日
★サティがヒットし、ものごとの真の姿が露わになった瞬間、妄想は一掃され、甘美な幻想が崩れ去っていく。
 「幻滅」の瞬間は、ヴィパッサナー瞑想の真骨頂だ。
 何が真の幸せなのかは計り知れず、願望を実現させて不幸になっていく人達もいる。
 何も願わず与えられたものに満足する道もある・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月11日
★業が形成されるポイントは、物理的な規模や量ではなくチェータナー(意志)である。
 貧しければ100円の布施からでもよい。
 古来より、きれいな心でなされた貧者の一灯が巨大な業を作った逸話は多い。
 我欲の利他行でも望む結果は得られるが、執着(渇愛)が強ければやがて苦の因になるだろう・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月9日
★苦を与えれば苦を受け、楽を与えれば楽を受けるのだから、人生の流れを変えるには、欲しいものをまず与えなければならない。
 だが、金の無い者が布施をするのは難しい。
 愛されなかった者が人を愛するのも難しい。
 自然に発露する衝動に従えば、負のスパイラルに巻き込まれていく。
 ドゥッカ(苦)に引きずり込もうとする力に逆らう智慧、その実践である瞑想・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月7日
★苦を受けた瞬間、負のスパイラルに陥らないためには、苦の価値を正しく知らなければならない。
 幸福な楽受の連続状態は、徳を虚しく消費しながら老いていくプロセスに過ぎない。
 苦に叩かれて愚かさを痛感し、敗因を精査し、人は内省的な視座を得る。
 苦を乗り超えた経験が、他人の痛みに共鳴する「悲(カルナー)」の原点・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月5日
★業論を理解し、必死で徳を積み、やっと幸せになれたのに、すべてが当たり前になっていく・・。
 新たな刺激が欲しくなる。
 うごめき出した煩悩が、出番を待っていた不善業に機会を与えてしまう。
 苦が襲来する。徳を積む。幸せになる。崩れ去る・・。
 妄想の甘美さに心は渇き続け、輪廻が続く・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月3日
★苦を受けた瞬間、不善業が一つ現象化して消えたのだから喜ぶべきである。
 「殺す者は殺され、奪う者は奪われ、罵る者は罵られる」法則を思い出せば、なぜ苦境に陥ったのか腑に落ちる。
 善行をして徳を積めば、運の流れは必ず変えられる。
 苦を深く経験した者が「悲の瞑想」の達人になっていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

9月1日
★いつまでも苦境が続くのは、ドゥッカ(苦)の無限ループにハマっているからだ。
 起きたことは仕方がない。
 苦を受けた瞬間の嫌悪や怒りのチェータナー(意志)が、新たな不善業を形成すると心得る。
 よく気をつけて、サティを入れ、反応する瞬間の不善心のエネルギーを絶たなければならない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月30日
★たとえ阿羅漢でも、業が惹起した事象から逃れる術はない。
 なぜ苦(ドゥッカ)に叩かれたのか、その因果を正しく読み解かなければならない。
 のみならず、いかなる苦境も無常の法則に貫かれており、必ず終わりが来ると信じて心を汚さない。
 智慧なき忍耐は、愚かな苦行に過ぎない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月28日
★人生苦に叩かれれば絶望的になるだろうが、耐えきれない苦は襲来しないと心得てよい。
 蒔いた種を刈り取る構造の業の世界である。
 苦楽は己の器量に応じた分量しか来ないだろう。
 巨悪を作る能力のあった者は、巨大な苦にも耐えられる。
 苦のどん底で骨身に沁みたものだけが、人格完成の真の宝となる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月26日
★日暮里のタイの寺について調べると「タンマガーイ」という上座仏教に所属する新興宗派だった。
 その行法は「身心の内奥に光り輝く球や内なる法の身体(タンマガーイ)を観る瞑想により、独自の解釈に基づく涅槃に達する(矢野秀武)」ものだという。
 ブッダのダンマから逸脱したものに興味はない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月24日
★この寺はパチンコ店を改修して転用されたものだと聞き、なるほどと思った。
 解脱した聖者には、寺も仏教も不要だろう。
 煩悩に汚染された心を浄らかにするために、仏教寺院は存在するのだ。
 穢れた地でこそ経が読まれ、祈りが捧げられ、瞑想が修行され、欲界の波動が浄化され、やがて聖地に変貌していく・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

8月22日
★下館の道場から徒歩30分ほどにタイの寺が6年前から存在していたとは知らなかった。
 近隣のタイ人の信仰心によって建立されたらしい。
 必需品だという人工芝を3本お布施してきた。
 かつての八王子道場の近くにはスリランカの寺、日暮里にもタイの寺、よもやの地元にも原始仏教の寺・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

8月20日
★2023年5月28日から、週2回のペースでYou Tubeに短い動画がアップされている。
 瞑想会の公開インストラクション【Q&A (質問とアドバイス)】のシリーズ化。
 最近はこのシリーズがきっかけで初心者講習会や朝カルを受講する方が増えてきた。
 ヴィパッサナー瞑想の真髄に分け入る初動になれば本望である。
 チャンネル登録をすると、新しい動画が更新される度に通知が受け取れる。
 ツイッターの映像版のように、瞑想とダンマと生き方系のワンポイント動画です。
https://www.youtube.com/@web3486/search?query=%E3%80%90Q%26A%EF%BC%88%E8%B3%AA%E5%95%8F%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%B9%EF%BC%89%E3%80%91
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月18日
★「正知」の意味は、行住坐臥すべての行為に常に気づいている状態だ。
 もう一つは、気づかれた対象を正確に把握する瞬間的な理解力である。
 思考プロセスを使わない洞察知の先駆けと考えればよい。
 さらなる知識と経験と熟考に磨かれた「正知」は、悟りの七覚支の一つ「択法」に昇格していく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月16日
★妄想を止め反応を止めるだけのサティが、やがて洞察智の伴った高度なサティに成長する。
 まず、戒を守る決意が不動のものとなれば、倫理性に裏打ちされたサティが「正念」と呼ばれる状態となる。
 さらに、サマーディの力が増してサティと連動すると「正知(サンパジャニャー)」が働き始める・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月14日
★恐怖は、ネガティブな妄想のプロセスから生まれる。
 そもそもサティが連続していれば、浮上する妄想が次々とサティで撃ち落とされ、恐怖は成り立たないだろう。
 だが、サティは一時停止に過ぎない。
 サティを失念しても恐怖感に襲われないためには、反応系の心の修行が不可欠な所以である・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月12日
★第四に、いつ死んでもよい覚悟ができていることだ。
 仏教の死のプロセスを検証する一発勝負が楽しみでならない。
 飛行機が墜落していく数分間も魅力的だが、歩く瞑想の修行中に死ぬのも素晴らしい。
 独り夜の闇のなかを行く修行のさなかに、恐怖が過ったことはない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月10日
★第三に、長年にわたり重ねてきた善行の徳によって護られるだろうという確信だ。
 修行に訪れたすべての寺で衣食住薬の四資具を始め、諸々の布施行を多角的に続けてきた。
 この世は、因果法則に貫かれた事象が生滅変化していく業の世界だ。
 「善いことをしたなら、安心しておれ」とブッダも言う・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月8日
★すべてを委ねたからには、わが身に起きる一切は三宝が与えたものとして受け容れる覚悟を定めてきた。
 何が起きてもそれでよい、と揺るぎない信を定めた者に恐怖はない。
 第二に、ブッダのダンマと瞑想を伝える仕事に命を捧げてきた者が、仏教を守護する神霊達に守られぬはずはないという確信・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

8月4日
★夜の五行川の遊歩道にひろがる闇には、田圃道の彼方の人家の灯火に感じる安心感はない。
 体感と意識の流れのサティに徹しきるには絶好だが、夜の闇のなかを歩く孤独感に恐怖が過ぎることはないのか・・・。
 四つの理由から、私が恐怖感に襲われることはない。
 第一に、仏法僧の三宝に全てを委ねている・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

8月2日
★命懸けの瞑想修行をするのに、森林僧院の独房ほど身の引き緊まるものはない。
 だが、おびただしい蟻や蚊が襲来する・・・。
 夜座をする頭上の天井で突然、ゲッコー(蜥蜴)と蛇が死闘を繰り広げる物音が始まる。
 部屋に侵入したサソリを捕獲する瞬間の緊張にも、サティが入りづらい・・。
 何事も、光もあれば闇もある・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

7月31日
★瞑想修行を始めてからの目を見張る運の良さは、過去世で瞑想者を助けてきた業の結果だろうか。
 今回も、夜の田圃道という絶好の修行環境が与えられた。
 外国の森林僧院も、出家も、長期の瞑想合宿も・・夢想された対象は必ず美化されてしまうものだ。
 与えられた現実が最高の修行場と心得て全力を尽くす・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

7月29日
★気づきの鋭さが増し高速化してくると、ラベリング無しのサティが自然に始まるだろう。
 逆に、六門開放型のサティの精度が落ちてきたら、マハーシ式のラベリングに戻すとよい。
 具体的に名辞する努力が、サティ本来の気づく力を賦活する。
 心も体調も無常に変化する。
 修行は常に臨機応変・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月27日
★ほぼ毎日60分、四方に水田が拡がる夜道で速歩の瞑想をする。
 複雑な体感や意識の流れに集中してサティを入れるには、人も車も皆無の夜の田圃道は最高だ。
 外国の森林僧院では、蛇やサソリ、おびただしい蚊や虫などの外乱が煩わしい。
 日本の片隅でも修行は完成できると証しするための残余の生涯・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

7月25日
★早歩きがなぜ認知症を防止するのだろうか?
 早歩き60分/週3回で、脳機能を改善する<脳由来神経栄養因子>や血管新生を促す<血管内皮増殖因子>が脳内ネットワークを強化するという。
 まあ、そんな説明はどうでもよい。
 速歩の瞑想をすると、脳内環境が整う自覚が得られるだけで十分だ・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月23日
★屋外での速歩の瞑想は、意識に強く触れたものに六門開放型のサティを入れるのが原則である。
 全身の身体感覚を意識しないと、直立した1本の棒が直線上を移動するような正確な歩行は維持されない。
 視覚も聴覚も妄想も・・優勢な情報は逃さずサティを入れる。
 脳が活性化していく実感が迫る・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月21日
★専門家の目で歩き方を見れば、認知症になるか否かの予測がつくらしい。
 脳内ネットワークが劣化してくると、早歩きと大きな歩幅が困難になる。
 逆に、歩幅と速度を意識しながら歩くと認知症防止になることも知られている。
 体幹の直立と正確な歩幅にサティを入れて速歩の瞑想をする者が認知症になるだろうか・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月19日
★サティが入らないと、反応した瞬間に業が作られたことにも気づけない。
 やがてその業が現象化した瞬間、なぜこんな目に遭うのだと激怒し、その心がさらに新たな業を作る・・・。
 気づくことができさえすれば、業の支配と束縛から脱する道が開かれるのだ。
 「サティが入ってない」とサティが入り、立ち直った人もいる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月17日
★なぜ、物事がありのままに観えないのだろうか?
 サティを入れないと、好き嫌いや善悪、美醜、貴賤、良否・・等々、エゴの編集が認知を歪めていくからだ。
 仕方がない。
 そうなったからには、クセのある認知で反応した事実にサティを入れ、その瞬間の自分をありのままに観察する。
 愚かな反応をした自分に気づければ、修正していくことができる・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月15日
★16歳の少女、ジャンヌ・ダルクがフランス軍に奇跡的な勝利をもたらした力の源泉は、神の声を聞いた確信に由来する。
 だが、ジャンヌやマザー・テレサのエゴの限界を破ったのは、神の声と誤認した錯覚であり、幻聴に過ぎなかったかもしれない。
 本物でも幻聴でもよいのだ。
 一切の迷いがふっ切れた確信に貫かれた人の底力は量りしれない。
 エゴの殻の中で空しく費やされていく自滅のエネルギー・・・。
 その発端であるエゴ妄想の愚かさを自覚する無我の修行に着手する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月13日
★ごく普通の人が頭部強打などの突発事故をきっかけに、いきなり天才的能力が発揮される。
 「後天的サヴァン」という。
 新たな能力が獲得されたのではなく、ブロックしていた何かが外れたのだ。
 果てしない未知の力が、誰の中にも内在している・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月11日
★心の底から納得し、本気で願い求めたことは必ずそうなっていく。
 この世界は業の法則で展開しているからだ。
 考え方や生き方が変われば経験する事象も変わっていくが、幼少期の刷り込みや深層の心はどこまで変われるのだろうか。
 エゴが宰領する世界を根柢から覆すだけの何かが起きなければならない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月9日
★「瞑想中にOura RingとSleepOnを付けると昼寝のプロセスとして可視化されるが、睡眠計に特化した後者の方が正確だ」
 と書いたことがあったが、その後も検証をくり返した結果、SleepOnの精度には疑問が多く廃棄処分にした。
 Oura Ringの睡眠中のプロセスは正確に計測され、中途覚醒した時間や夢見のレム時間帯もきれいに合致する。
 短時間の昼寝や瞑想は計測されないのが残念だ。
 歩行瞑想は論外として、30分以下の座禅では計測されないことが多いが、グラフ化されたものを見ると、瞑想の経過が「覚醒」「浅い睡眠」「深い睡眠」などに可視化されて参考になる。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月7日
★ノンレム睡眠中に一切の知覚情報を遮断しているのは「視床」という部位である。
 対象と合一するサマーディが続く間も、眼耳鼻舌身意の情報は完全に止められている。
 両者に共通するのは、知覚情報がシャットアウトされていることだ。
 瞑想が睡眠の代替になる根拠の一つではないだろうか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月5日
★ブッダの直弟子たちには、横たわって眠ることがまったくないまま、座禅の姿勢で朝を迎える修行を何十年も続けた方が数多くいた。
 アヌルッダ尊者は、その「常坐不臥」の行を55年間続けたと述懐している。(テーラガーター904)
 虚無そのものを対象としたサマタ瞑想のサマーディに没入すると、明晰な意識を保った熟睡という印象になる。
 「常坐不臥」の行は、禅定を睡眠の代りとした「坐睡」だったのではないか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月3日
★瞑想が睡眠の代替えになるか否かは、サマーディの深さ次第である。
 集中力が乏しい瞑想でもサティの修行は進むが、睡眠の代用にはならないだろう。
 睡眠を2時間増やしたら、通常は眠気が来る時間帯でも意識が濁らず、座る瞑想ができた。
 充分な睡眠を摂らないと、睡眠の代替えになる良い瞑想ができない皮肉・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

7月1日
★瞑想中の眠気に対しては、サティを入れて見送るのが原則である。
 だが、低レベルの悪戦苦闘が続くようなら、そのまま倒れて短い午睡に入ると、再起動した瞑想は各段に良くなる。脳内ホルモンが一変するからだろう。
 しかるに睡眠を2時間増やしたところ、眠気そのものが全く襲来しなくなった・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月29日
★ディープな瞑想が続くと、集中も気づきも明晰な意識が続いているのに、睡眠計には深いノンレム睡眠のグラフが記録されている。
 何度も検証したので、瞑想は睡眠の代替になると解釈してきたが、マシュー・ウォーカー著「睡眠は最強の解決策」によると、いくら瞑想で補完しても4時間は少な過ぎるようだ。
 そこで睡眠を2時間増やしてみた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月27日
★だが、光合成の植物も日光を奪い合い、やがて「絞め殺しの木」やウツボカズラのような食虫植物まで出現した。
 暗澹たる思いになるが、それでも生存欲が諸悪の根源という絶望的な命の営みの中で、互恵的な共生関係を作った生物もいる。
 メンフクロウの雛たちが餌を分かち合うシステムも感動的だ。
 慈悲の瞑想に微かな希望を託す・・・。

 

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

6月25日
★光エネルギーを変換して命の営みをする光合成生物までは良かったのだ。
 他の生命を捕食したり、寄生しようと発想した生きものが、一切皆苦の泥沼を出現させた元凶である。
 いかに食われずに、他を食うか・・・。
 弱肉強食の論理が始まってしまった。
 他者に苦を与えながら(未来の自分が苦を受ける原因を作りながら)、苦のない日々を願うことの滑稽さと不可能性・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月21日
★「認知を変える人材開発手法−認識論の活用」の著者、加藤雄士氏はかつて関西瞑想会にも参加されていたことがある。
 ゼミの学生にヴィパッサナー瞑想を実践させ、自らも集中内観やNLP、認知行動療法、フラクタル心理学、コーチング等々を実践し、その体験的な知見が結実した素晴らしい学術書である。
 さらに多くの人に読まれることを願っている・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月19日
★苦を無くすヴィパッサナー瞑想は、業の結果を経験する瞬間の心と、その業を作る瞬間の心を正しく理解することが要となる。
 その「入力系」の心を認識論として学際的に比較考察し、認知を変え人生の流れを変える「反応系」の心を体系的に論証し、具体的な各種技法を紹介した画期的な本が上梓されて1年余・・・。
 アマゾンの書評を見ると星5つのレビューがズラリと並び、批判的レビューは皆無だった。

 

    
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月17日
★森林僧院の比丘の人間関係は、エゴ丸出しの男女や親子関係の濃密さがない清潔なものだ。
 同じ衣に托鉢食の全員が律を守り、隔絶したクーティに住み、互いに慈悲の瞑想をする距離感だが、その修行僧達に対しても「群れるな。独りになれ。樹下で、廃屋で、洞窟で、瞑想せよ!」とブッダは言い続けた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月15日
★人間関係を遠ざけ、誰とも付き合わなければ、自己中心的に偏っていくのに気づけない。
 人は自分を映す鏡である。
 同時に、人は自分を見失わせる。
 愛する人、敵対する人、甘えられる人、守ってあげなければならない人・・・、対面した人によって異なる自分が露わにされていく。
 人と共にいなければならないし、孤独にもならなければならない。
 妄想を止め、エゴモードを離れ、瞑想をしなければ、自分を見失っていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月13日
★富と愛と快楽こそが幸福の拠りどころだ、と悪魔が言う。
 否、それは憂いの拠りどころだ。人は所有するものに縛られる。快楽を求めてやまない渇愛こそが苦の根本原因だ、とブッダが言う。
 ブッダの悟りが世俗の幸福原理に反し、世の流れに逆らうものである所以だ。
 なぜ淡々と全てを見送ってサティの瞑想をするのか、その答えでもある。
 渇愛が全捨てされ、無執着の極みに達して解脱する・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月11日
★だが、グリーンヒルの瞑想合宿では、ヨーガも気功もストレッチも全て禁止にしている。
 1ヶ月以上の長期合宿ではOKだが、短期の合宿では何が起きてもひたすらサティで対応する覚悟を貫いた方がよい。
 テクニックで環境を意のままに整え、強引に集中を高めれば、エゴが強化されかねない。
 不快な現実もネガティブな状態も、平然とありのままに客観視するのが本義である。
 体調不全を不全と知り、妄想が多い心を多いと知って、淡々と見送っていく・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月7日
★帰宅直後の瞑想は雑念が多発する。
 入浴も効果的だが、倒立(シルシアーサナ)を10分やると血液が完全に天地入れ替わる。
 さらに屍のポーズを2分、起き上がって座禅を組むと心は鎮まり、禅定に入りやすい。
 心は意のままにならないが故に、体を整え、血流を整え、呼吸を整えると御しやすい・・・。

 

……………………………………………………………………………………………………………

 

6月5日
★「心」と「身体」と言った瞬間、心身一如の現実が区別され、別個の2つが存在するような気がしてくる。
 概念化とは、対象の本質を露わにするために、余計なものを切り捨てることだ。
 「エゴ」や「真我」の概念が、万物の連続性や相関性や一体性を切り裂き「諸法無我」の消息を不明にする・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月3日
★自分の力だけで生きていく・・などと幼稚なことを言ってはいけない。
 心も身体も外界の万物と相互に関連し合っている消息を、仏教では「諸法無我」と言う。
 救いを求めるのを恥じる感覚は、エゴの無明に起因する。
 傷ついた右手を左手が癒やすように、苦しい時には外側の力を使えばよい・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

6月1日
★もう思い出したくない。批判したくない。嫌なことは考えたくない・・といくら言い聞かせても、止められない。
 人の心は、自分の思いどおりにならないのだ。
 そんな時は・・、善き友に会う。
 ブッダの言葉を読む。
 敢えて善行をやる。
 愚かな、邪悪な、穢れた私を赦してください、と懺悔の瞑想をやる。 
 仏法僧の三宝に助けを求めて祈る・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月30日
★痛みから目を背けるよりも、痛みの正反対イメージに集中するサマタ瞑想のほうがさらに効果的かもしれない。
 脚がやわやわのマシュマロになっていく・・と観想すると、攣縮を起こした筋肉の痛みがたちまち消えていく。
 すると、何でも思いどおりにしたがるエゴは大喜びだ。
 『人生悪いもんじゃない。この調子で楽しく輪廻を続けよう!』と高笑いする・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月28日
★激痛に「痛み」とラベリングするとさらに痛くなることもある。
 次の注意が痛みを経験した事実に注がれ、より鮮明に痛覚が意識されることもあるからだ。
 痛みを消すことが目的なら、痛みから目を背けたほうが効果的だ。
 「痛いとこ、痛いとこ、飛んでけ・・・」
 痛みは消えるが、心は成長しない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月26日
★座禅中に脚がツリ、あまりの痛さにサティが入らなかったとレポートすると、森林僧院のサヤドウに「そのくらい入らないのか」と言われた。
 よし!と火が点き、次に脚がツった瞬間、見事に一発のサティで痛みが消えた。
 本気で腹を括れば達観できるが、とっさの激痛を冷静に客観視するのは容易ではない・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月24日
★花粉症の夫のくしゃみがうるさいので、一回ごとに百円徴収する罰金箱が設けられた。
 するとくしゃみがピタリと止まったという。
 強烈な中断の意志が働けば、脳内台本は凍結してしまう。
 東京大空襲の最中に喘息発作が皆無だったのも同じメカニズムだろう。
 罰金で止めるか、空襲で止めるか、サティで止めるか・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月22日
★空中の虫を捕獲する態勢に入った鳥は、途中で標的が消えても狩りの行為を最後まで完結させてしまう。
 パターン化した行為には、脳内台本が備わっている。
 綿密にサティを入れると一連の動作が分節化され、動画の流れが途中の画像でクサビを打ち込まれたような状態になる。
 感情的な衝動にもプロセスがある。
 愚行が実行されるまでにはさらに長いプロセスがある。
 蟻の行列のように、一連の行為には無数の生滅があり、どこからでも寸断可能であり、立ち消えになる構造・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月20日
★花粉症のくしゃみが成立していくプロセスに緻密なサティを入れると未然に防ぐことができる。
 ハックション!の予想イメージ→鼻腔のムズムズ感→鼻毛の振動感覚・・・と時系列でサティを入れると立ち消えになるだろう。
 現象の流れを一つにまとめず、構成因子とフェーズに分解して観察する仏教・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月18日
★感情をいくら爆発させても、情念のエネルギーが一時的に解放されるだけで、事の真相が腹に落ちなければ心は納得しない。
 妄想と事実を厳密に識別していくサティの瞑想は、エゴの歪曲を暴き出す。
 真相が露わになり、その本質を見抜く洞察の智慧は、疑と迷いにトドメを刺す。
 現在の瞬間をあるがままに観るサティの瞑想・・・。
 過去の事実を在ったがままに検証する内観も、清浄道を完成させるのに不可欠な反応系の修行だ。
 観と慧が、揺るぎない不動心をもたらす・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月16日
★この方の妻に対する激怒はサティの瞑想で止めることができる。
 だが、繰り返し襲来する衝動の根源を断ち切るには反応系の心の修行が不可欠だった。
 集中内観で露わになったのは、幼い頃、母親に暴力を振るった瞬間の父親に対する憤りだった。
 奥の院に潜む元凶が構造的に理解されたとき、決定的な回心が起きた・・・。
……………………………………………………………………………………………………………

 

5月14日
★4年前と瞑想修行後の心の変化が40もあったという。
 怒りが激減し、人の良い点が見えるようになり、判断が速くなり、人を傷つけなくなった。
 体と心が軽快になり、悪い結果もまた良しと思え、多くの人に助けられ守られてきた事実に気づいた・・等々。
 心を浄らかにする瞑想が、また実証された・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月12日
★瞑想して怒らなくなったと言う人の大半は一時的な現象に過ぎず、やがて元に戻ってしまう。
 だが、この方の妻に対する爆発的な怒りはただの一度も再現されなくなった。
 朝カル講座を何クールも受講し、集中内観に行き、1Day合宿には36回も参加した。
 徹底すれば、さしもの心も変っていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月10日
★怒りの制御が目的で、ヴィパッサナー瞑想を始めた方がいる。
 4年後、朝、喜びが湧くようになり、妻の笑い声が増え、娘達のダメ出しが始まり、近所の4歳児までなついてきた。
 ある日、指を怪我した瞬間、殺生戒の業の報いが真っ先に連想され、怒りが皆無だった。
 以前なら激怒していたのに・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月8日
★朝カル講座開始時によく見えなかったボードの字が、瞑想後には見えるようになったとレポートした人がいた。
 瞑想合宿の最中に嗅覚や聴覚がクリアーになったことに驚いた人もいる。
 人の心はいつでも妄想だらけなのだ。
 ヴィパッサナー瞑想をすると知覚が明敏になるのは、微細な妄想が減少する度合いに比例する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月6日
★不善業が帰結していく因縁の流れも、万物が無常に変滅していくのも熟知しており、懺悔と赦しの瞑想も重ねてきた。
 ネガティブな記憶を引きずることはないという自負もある。
 だが、一瞬の嫌悪と羞恥の反応が過るのだ。
 通常意識されることのない「随眠」の煩悩が垣間見られた一瞬だと考える。
 必ずトドメを刺す、と決意する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月4日
★無明の心が無知ゆえに愚行を犯した出来事だったのに、「愚かな悪をした私」という錯覚がまだ抜けないのか。
 もし我執が脱落していれば、たとえ微かでも悔い恥じる感覚は生じないだろう。
 1/100秒の反射の刹那にも、万物を等価に達観する「捨」の心が確立しなければならない。
 修行を続けるしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月2日
★1/100秒の速度感で、ネガティブな記憶が脳裏を過らない日はない。
 2/100秒目に微かな嫌悪系の反応があり、3/100秒目で見送られていくので、心に波風は立たない。
 被害をこうむっているわけではないのだが、終ったはずの過去の悪行や愚行に対し、いまだに嫌悪や恥の感覚が過る一瞬があるのだ。
 潜在意識の奥底に捨(ウペッカー)の心が定着していない証左だろう。
 捨(ウペッカー)の不完全さに比例して残る我執を滅尽させる覚悟・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月30日
★「他人に教えるとおりに、自分でも行なえ」
 仏教は知行合一だが、悟りを開いた方にしかその道を学べないとなれば、いったいどこに、何人おられるのか・・・と途方に暮れるだろう。
 たとえ自らは実践していなくても、正しいダンマの情報を正確に伝えてくれるならそれで結構。
 ありがたくうけたまわり、修行の実践はこちらがやる・・・と割り切ってきた。
 人を拠りどころとせず、法を拠りどころとすればよいではないか。
 たとえ7歳の童が誰かの受け売りをしている言葉であっても、法は法だ・・・と。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月28日
★悪業を新たな善業で浄化し、乗り超えていくのが仏教である。
 いかなる悪業も現象化すれば苦受が経験された瞬間に因果が帰結し、滅していく・・・。
 「行(サンカーラ)」によって形成された諸々の事象が無常に変滅していくので「諸行無常」と言われる。
 ブッダ以前に出現した仏達も「悪を避け、善をなし、(瞑想修行で)自らその心を浄めよ」と同じダンマを説いた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月26日
★長寿の者もいれば、短命の者もいる。
 命を数多く救ってきた者と殺生に殺生を重ねてきた者が、同じ寿命の業を荷って生まれてくるはずはない。
 殺す者は殺され、奪う者は奪われ、罵る者は罵られる、と仏は言う。
 背負ってきた業を相殺する生き方もあり、さらなる業を重ねて激化させていく者もいる。
 正しい理法に縁が結べた僥倖を心得ず、虚しく年老いていく者もいる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月24日
★東京大空襲が激化していくなか、「犬死にするな。生きるんだ。一緒に疎開しよう」と誘われた吉行淳之介は大学に留まり、当の学友は長崎で被爆して死んだ・・・。
 生死は宿業の結果であり必然だった、と仏教は考える。
 もし業論と輪廻転生論が否定されれば、やった者勝ち、逃げ切った者勝ちとなり、悪に歯止めのかからない不条理に立ち尽くすことだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月22日
★苦しみを克服して幸せを求めるのは自然なことだ。
 因果が帰結するのだから、悪を避け善をなしていけば必ず幸福になれる。
 幸福になれば、幸福の限界と永遠の不満足性が見えてくる。 
 一切の束縛から解放されるためには瞑想しかないと知り、苦の終滅した安らぎの境地に向かっていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月20日
★崇高なもの、無限なもの、超越的なものと融合するサマーディが続くかぎり、痺れるような至福感の中にエゴは完全に消滅している。
 しかるにサマーディの余韻が消えれば、何も変わらぬ日常とセットで我執も回帰してくる。
 残存する心の汚染に気づいて消去する清浄道の瞑想を続けるしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月18日
★妄想を排除し、直接知覚で検証された世界を拠りどころにせよ、と説いたブッダが膨大な「神々との対話」や「悪魔との対話」を残した。
 神通力を自在にしたブッダや目連にとっては現実でも、超感覚的知覚の世界は科学では扱えない。
 となれば、情報の正当性だけで是非を判断するしかない。
 外界からのメッセージであれ、脳の深層から浮かび上ったデータであれ、さらには顕幽両界が響き合って心のドミノが倒された結果の情報であれ、由来はどうでもよい。
 内容が正確か、正しいか否かである。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月16日
★耳元で囁くような霊示もあれば、情報の送受信が刹那に同期するテレパシーもあり、暗黙の事象によって示唆されるものもある。
 潜在意識の情報が勘違いされた疑いも常にある。
 正しい道に導く神示もあれば、煩悩世界に引きずり込もうとするものもある。
 感知したメッセージの是非は、神託を解釈する審神者のように、五戒や倫理を指標に常識で判断しなければならない。
 善悪は?利他性は?品格は?五戒に抵触しないか?清浄道に通じるか?・・・等々。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月14日
★仕事が上首尾に終わり意気揚々と家路についたとき、『お前の手柄ではない!』と厳かな声が響き、ドキリとしたことがあった。
 既存の脳内情報に由来する閃きとは別次元のもので、外界からインスパイアされたメッセージだと思われた。
 仏教は輪廻転生からの解脱の道であり、地獄・餓鬼・動物・修羅・人間・天(神霊)が実在する前提である。
 スピリチュアルな生類の干渉を知覚するセンサーの持主にとっては、顕幽両界は響き合っている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月12日
★『いかなる理由で、どのような事があろうとも、トラブルがあった時は、お前が悪いのだぞ!』
 と、ドスの利いた声で言われ、有無を言わさぬ土下座の修行が始まった・・・。
 どうしてもそう思えない時は、瞑想をして空っぽになると閃きを得た。
 私のような頑固で愚かな者には不可欠の荒行だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月10日
★知的に納得していないのに、行動が変容することはあり得ない。
 確かに納得し、わかっちゃいるけど、止められないことも多い。
 理解することと、腹に落ちることは別のことである。
 思考モードを超越するために、瞑想がある。
 思考が止まれば、エゴの意向に束縛されていた脳内情報が解放され、情報同士が独自のネットワークを形成し始める。
 度肝を抜く洞察の智慧が閃く瞬間は、思考モードとは別次元の内的体験だ。
 瞑想には、人を変える力がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月8日
★妄想も、思考も、熟考も、考えごとを司っているのは自分であり、エゴである。
 思考モードをいったん離れない限り、自己中心的な発想を超越する視座は生じにくい。
 自分を客観視するメタ認知も、次の瞬間、「メタ認知しているのは私だ」とエゴに乗っ取られる。
 思考モードが続くかぎり、「自分を見ているもう一人の自分」が新たなエゴになる・・・。
 「我、思う故に、我あり」とは、思考プロセスからエゴ感覚が生じてくる自我感の由来を表現している。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月6日
★嫌なことがあればまず、悪いのは誰だ・・と反射的に思ってしまうのが人間だ。
 最初に浮かぶのは自己中心的な発想だからだ。
 エゴの視座を瞬時に転換し、理不尽なことでも怒り返さず、怨みで報いないのが仏教なのだが、容易ではない。
 起きたことは全て正しい。
 悪いのは自分だ・・・と思えるだろうか?
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月4日
★どんな善業も現象化すれば、因果が帰結して消滅する。
 束の間の楽受は虚しく、永続する幸福はあり得ない。
 愛執を手放さないかぎり愛別離苦は何度でも襲来し、怨憎会苦を根絶やしにしたければ怒りをゼロにしなければならない。
 一切皆苦の構造世界に生きる限り、無常の苦は超えがたく、因果に縛られた苦から解放されることもない。
 苦しい輪廻の流れから解脱せよ、とブッダは説いた。
 妄想が駆けめぐる心には不浄なものが美しく見え、苦の泥沼にもがきながら永遠の幸せを夢見る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月2日
★慈悲の瞑想を実践し、悩み苦しみが解消すれば、煩悩世界を謳歌したくなるだろう。
 願いが叶えば欲が肥大し、貪るのを邪魔されれば激怒するのが人の常だ。
 いくら徳を積んでも、生老病死の壁が立ちはだかる。
 この世は「娑婆(耐え忍ぶ世界)」と呼ばれ、何度再生しても、苦の構造から解放されることはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月31日
★分離したものを和合させ、二つのものを一つにまとめる慈しみ本来のエネルギーも、エゴ妄想に目が眩んだ瞬間、内閉的なエロスや母性の盲愛に堕落する。
 自分の程度の低さ、卑しさ、愚かさを痛感した人のエゴ感覚は一時的に弱まり、優しさが慈悲に近づく・・・。
 崇高な宗教的理念や捨(ウペッカー)の視座が保持されている限り、優しさが慈悲へと昇華されていく。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月29日
★自分のことしか考えていない人の浅ましさは自覚されず、恥を知らない。
 家族を守り、同胞を守り、祖国を守ろうとする愛と愛が互いに激突する。
 神に全てをゆだね、宇宙の究極原理との一如を目指す人達の我執は、無限に拡大したエゴ妄想の究極に合一する。
 万物万象の相関性を洞察して無我を覚った人たちの優しさが慈悲と呼ばれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月27日
★身を捨てて幼子を守る母の愛は、エゴを超越したかのように見えるが、転写された自己を存続させる本能的なものだ。
 全てを公平に視る「捨(ウペッカー)」が体得されると、優しさが慈悲に昇華する。
 エゴを削ぎ落していく無我の修行が不可欠な所以だ。
 利他を旨とする善行から始めるとよい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月25日
★家族を愛し祖国を守ろうとする者同士が戦争で殺し合うのだ。
 わが身を犠牲にして仲間を思いやる優しい心が、自他を分別するエゴ意識によって同じ人間を殺戮する。
 心底から敵を愛し迫害する者のために祈れるのは、無我の修行を全うした者だ。
 エゴ意識は思考のプロセスから生じる妄執に過ぎないという検証が「捨」の心を確立する。
 世の中は泡沫の如く、陽炎の如く見よ、とブッダは言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月23日
★人生の流れが変わる時には、必ず人の流れも変わるものだ。
 水の中でも陸上でも空中でも、同じ波動のものが響き合い同調し、群れ集い、ともに進むのが法則だ。
 煩悩フレンドからダンマフレンドに切り換わる束の間、孤独に耐えなければならない。
 善き人は宝である。
 師でもあり友でもあるような存在(カラヤナミッタ)が得られたら清浄道はほぼ完成したも同然、とブッダも説かれている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月21日
★人の心は矛盾の塊だ。
 善にも悪にも、優しくも残酷にもなり、賢くも愚かにも、崇高にも下劣にもなる・・・。
 冷静な時も激昂している時も、瞑想している時も妄想に耽っている時も、どの瞬間も真実だったし、本気で反応した心が業を作ってきたのだ。
 人生には浮沈があり、土砂降りの日も青空の日も、助けられる時も阻まれる時も、至福の瞬間も絶望のどん底に叩き落される瞬間があるのも宜なるかなだ。
 無我夢中で反応しながら、自分の未来を無自覚に設計してきたことに気づかない無知・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月19日
★なぜ苦を受けるのかわからず腹を立て、憤り、恨む心がさらなる苦の原因を撒き散らす・・・。 
 負のスパイラルを脱するには、苦の構造を正しく理解しなければならない。
 一切皆苦を乗り超える仏教のダンマに触れることができたのは僥倖ではない。
 問われたら教え、正しい道を示し、相手のためになる情報を与えてきた必然の流れだ。
 情報系の徳を積む・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月17日
★男女の機微が知られた時、青春は終っている。
 天命を知り、どの瞬間にも完全燃焼できるようになった時、老境に差し掛かっている。
 どれほど恵まれていて幸福だったかと身悶えして嘆くのは、全てが失われた時だ。
 苦に叩きのめされ、どん底まで堕ちきった時、悟りを求める心が揺るぎなく生じてくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月15日
★誰に出会おうが、どんな環境に置かれようが、とどのつまり自分の心が引き寄せた結果なのだ。
 強く意識していることは、やがて現象化してくる。
 教師の期待通りになっていくピグマリオン効果も、見限られた者が脱落していくゴーレム効果も、無意識に自分が望んだ結果と心得る。
 幸福な未来の到来も、苦しい人生に堕ちていくのも、選ぶことができる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月11日
★なぜサティの瞑想をするのか?
 自らの現状を正確に客観視するためである。
 何のために?
 心に煩悩の汚染はないか、残存する黒い心を見つけるためだ。
 何のために?
 悪を避け善をなし続け、一切の苦から解脱するためである。
 どんな幸福も崩れていく。
 業の世界には、老いが、病が、別離が、死が、苦が満ちる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月9日
★削減経の構成は劇的だ。
 サマーディを究極まで極めても、そんなものは現世の楽住に過ぎない。
 真の煩悩削減とは、44の行為や煩悩を個別にシラミ潰しにすることであり、それこそが涅槃への道だ・・・。
 と説かれた最後に、さあ、樹下で、廃屋で、瞑想せよ。
 怠ってはならぬ。
 これが汝らへの教誡だ、と結ばれる。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月7日
★「群れるな。独りになれ。瞑想せよ」とブッダは言う。
 会話をすれば、意識は相手の表情に、言葉に、反射的な連想に、突き刺さる。
 孤独になっても、心は外界の情報に吸い寄せられる。
 意識が内面に向かえば、妄想に耽っている。
「は!」と我に返った瞬間、サティを入れ続けるしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月5日
★反応する瞬間の出力系の心が業を作っているのだが、縁に触れなければ現象化せずチャラになる。
 これを「既有業」と言うが、死ぬ瞬間まで蒔いた種は刈り取らされると覚悟すべきだ。
 不善業を作れば、苦受の現象を経験する。
 一瞬の心にもサティを入れ、よく気をつけておれ、とブッダは言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月3日
★なぜ人生には苦楽の浮き沈みが繰り返されるのだろう。
 誰でも必ず悪をやる瞬間があり、善をなす瞬間があるからだ。
 善悪の反応によって形成された業が、異熟(現象化)するタイミングを待っている。
 ミラーボールが反射するように、縁に触れた悪業・善業の断片が苦楽の輝きを照り返す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月1日
★心は、多面体だ。
 深く傷ついた心も、直視すれば崩壊しそうな心も、忘却の闇に沈めようとする心も、得体のしれない不安な心も、解放されたい心も、サティを入れる心も・・・、どれも真実だ。
 強い力で抑圧されている心は、ふとした瞬間に必ず浮上してくる。
 淡々と客観視するサティが持続すれば、その刹那を見逃さないだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月28日
★自覚できない盲点にこそ、苦の元凶が潜んでいる。
 その闇に気づくために、淡々と自己客観視していくのがヴィパッサナー瞑想だ。
 狙いを定めて探しにいけば、エゴは必ず隠蔽しようとするだろう。
 受け身に構えて、心に強く触れた現象は無差別にサティを入れる鉄則を貫いていけるか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月26日
★事実を変えるのは業のエネルギーだが、事実が一変しても、認識する心が変わらなければ幸・不幸の印象もそのままだ。
 心を浄らかにする。
 穢土を浄土と観想する。
 いや、穢土を経験することによって、心に浄土が開かれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月24日
★人生の苦しみを無くすのは、ネガティブなものを受け容れる能力である。
 痛恨の過ちも、死んだ人も、起きてしまったことは仕方がないのだ。
 視座を変え、認知を変え、経験の意味を変え、新たな価値に目覚めて受け容れていくとき、怒りの心が手放され、ドゥッカ(苦)が乗り超えられていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月22日
★本能を司る脳があり、抑止する脳がある。
 悪をやるし、善もやる。激怒するが、慈悲の瞑想もする。配慮する。ワガママになる。祖父母に優しくする。子供と遊ぶ。神に祈る。欲望に耽る・・・。
 矛盾する心ばかりだが、どの瞬間も本当だ。
 悪業が作られ、善業が作られ、苦を受け、楽を受ける無自覚な一瞬一瞬・・・。
 経験する瞬間に気づき、反応する一瞬を自覚する瞑想がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月20日
★30歳で修行を始めた時、輪廻転生の何たるかも知らぬままに、「人間に生まれてくるのは今回で終わりにしたい」と決意が込み上がってきた。
 20代の10年間、「苦の真理」に叩きのめされていたからだろうか。
 人に伝えようのない内的な印象だが、過去世の死に際の決意のような気がした・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月18日
★輪廻転生が否定されれば、老残の身に抱ける未来はなく、ただ萎びていくしかない。
 輪廻が無ければ、仏教は存在しないのだ。
 たとえ百歳でも、凛々と最期の一瞬まで瞑想修行をやり抜く覚悟だ。
 ブッダの時代、悟りを開いた息子の父親が120歳で出家し阿羅漢になった事例もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月16日
★無数の修行僧が、何十年修行しても悟れずに死んでいった。
 ブッダの時代には、7歳で最高位の阿羅漢果に達した少年僧も少なくなかった。
 森で遊んだ帰り道、偶然ブッダの説法を耳にして預流果を得た乙女もいた。
 愕然とするが、己の器量と因縁をわきまえて、なすべきをなしていくしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月14日
★悪を避け善をなし、怒らず貪らず妬まず、カルマを善くしていけば、楽受に満ちた幸せな人生の流れになる。
 だが、幸福の限界を悟った王子の創始した仏教は、そこから始まる。
 至福の瞬間は無常に変滅し、飽きの来ない快楽はない。
 無常の苦と因果の鎖に縛られた世界を楽と錯覚しながら果てしなく輪廻をくり返させる根本の無明・・・。
 苦諦(一切皆苦の真理)が解らなくなったとき、仏教の滅びが始まる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月12日
★人生の流れを変えるのは「決意」である。
 事象を生起させる業の力の根本は意志(チェータナー)だからである。
 正しい智慧の伴った決意は人生の流れを好転させる。
 悪意を放てば悪しき現象に襲われる。
 苦しみを乗り超えるのに何よりも大事なのは、因果法則を正しく理解する「正見」の確立だ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月10日
★倫理なき瞑想は凶器にもなりかねない。
 刃物が研ぎ澄まされるように、瞑想修行は集中力を高め、五感を鋭くし、知覚を明敏にする。
 反応する一瞬一瞬の出力が鋭くなれば、善業も悪業も強烈に作られていく。
 なぜ瞑想するのかと常に自問し、悪を避け善をなす戒の力で守られなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月8日
★人生は見事なまでに公平であり、自分にふさわしい人にしか出会わない。
 どんな人も、自分の姿を映す鏡なのだ。
 自らの不善業を消すために現れてくれた人に、この馬鹿野郎!とムカつくのはもっと愚か者だ。
 お前はこうなるな!というマイナスの手本が示されたことに感謝して心の中で合掌する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月6日
★そこで尊師は修行僧たちに告げた。
 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、
 【生起する一切の事象は、変滅し、崩壊していくものである。
 サティを失わずに、怠ることなく、修行を完成しなさい】」
 これが、修行を続けてきた方の最後の言葉であった。(涅槃経)
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月4日
★ヤンゴンの寺で修行していた頃、毎日夕暮れの同じ時間に、黙々と1時間余の瞑想をして帰っていく人がいた。
 痩せて背が高く、サラリーマン風だった。
 今日は集中が深いな、と静まりきった後姿が印象的な日に限って、サヤドウの指導を受けていたように思われる。
 小さな子供が狭い家の中を駆け回っているのだろうか。
 不遇な環境を自ら切り拓いて瞑想修行する意志・・・!
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月2日
★意志決定にはプロセスがあり、前提があり、劣等感も執着もプライドも悲願も、家族のしがらみも社会の要請も環境が強いる力も時代の流れの影響もある。
 自分の意志が自覚される0.5秒前に、脳内活動が開始されているのも当然のことだ。
 そうするのではなく、そうさせられているかのようだが、過去のカルマが押しやる土石流のような力に従うことも逆らう自由もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月31日
★偶然に出会った人や出来事や情報が、やがて人生の流れを大きく変えていく発端だったと判明する・・・。
 必然の力が展開し人は出会うべきものに出会い、回避すべきものから身をかわしてすれ違っていく。
 展開してくる事象には全てそうなるだけの原因エネルギーが働いており、苦受楽受を経験する一瞬は避けがたい必然だが、100分の1秒後に反応する意志には自由がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月29日
★なぜ、その苦が襲来したのか、業論を拠りどころに因果の流れを究明する。
 楽受を受けた瞬間に完結した因果があり、苦受を受けた瞬間に消えていった原因エネルギーがある。
 楽因楽果、苦因苦果の構造が腹落ちすれば、我が身に起きる一切の事柄を受け容れていく覚悟が定まるだろう。
 悪を避け善をなし、正しい反応を貫き通していけば、必ず道は開かれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月27日
★生育の環境が異なり、親子関係も、考え方も、生き方も、出力してきたエネルギーも、作られてきた業もまるっきり違うのだから、千差万別の事象を経験することになるのは当然のことである。
 苦しい人生であっても、必然の流れで我が身に起きたことは、その時の自分に最もふさわしいことが起きたのだと心得なければならない。
 苦を耐え忍びながらしか学べないものがある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月25日
★「手に満ちる」のは欲望の充足感ではない。
 執着が手放されたとき、すでに与えられているものだけで完璧に満足できる精神がある。
 渇愛の鎖に縛られていた奴隷状態からの解放・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月23日
★欲しくて欲しくてならない時には得られず、もうよいと諦めがついた時に、不思議に手に入るものだ。
「求不得苦」の不善業が尽きたタイミングなのだろうか、 執着の手を放すのを待っていたかのように「放てば、手に満てり・・・」。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月21日
★「自分と同じか自分より優れた者に出会えないなら、ただ独りで行け。愚か者を道連れにしてはならぬ」とブッダは言う。
 朱に交われば必ず赤くなる。
 だが、どうしても愚か者と離れられぬ因縁ならば、サティを忘れず、忍耐の修行をやり抜くしかない。
 法を憶念し、法のみを拠りどころとする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月19日
★人間なら、いつの世にも遺伝子と本能の指令は変わらず、悪因悪果・善因善果の法則性も変わらない。
 どんな恋愛も戦争も平和も、哀悼も感動も絶望も、さしたる違いはないし、世界中の料理を食べ尽くす必要もない。
 どのような境遇の人生ももう結構だ、という実感と深層意識とに齟齬はないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月17日
★欲望も怒りも嫉妬も高慢も、煩悩の強い人ほど激烈な苦に叩かれる。
 煩悩が引き算されるにつれ幸福の分量が増大するが、滅尽させて解脱する根性もない。
 ほどほどに削減し、幸福度を上げ、人生を楽しみたい、輪廻を続けたい本音。
 何度壊され崩されようが、永遠に止められない幸せの積み木崩し・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月15日
★たとえサマーディの究極を極めても、そんなものは現世の楽住に過ぎない。
 44個の煩悩を一つひとつシラミ潰しにして涅槃に至るのだ、とブッダは衝撃的な説法をする。(削減経) 
 全ての煩悩が滅尽される一瞬を狙っている向きには残念だが・・・。
 HPに、その「煩悩チェックリスト」を掲載した。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月13日
★なぜ、瞑想してから出勤すると、職場のトラブルに優れた対応ができるのだろう。
 サティの瞑想は、公平に、ありのままに客観視する練習だ。
 慈悲の瞑想も、無差別平等に優しさを発信する。
 たとえ一時的でも、エゴ感覚が弱まり、我執が抜けるのだから、問題解決には最良のアプローチとなる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月11日
★不幸な人には、不満がある。嫉妬がある。後悔がある。怒りがある。
 多くの人に愛され、守られ、大切にされてきた幸福の王子には純粋な優しさがある。慈しみがある。
 人の痛みに心から共感できる「悲(カルナー)」の達人は、仏の智慧に導かれ、苦しみのどん底から立ち上がってきた不幸な人達だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月9日
★苦を感じた瞬間、不善業が一つ現象化して消えたのだから、負債返しができたことを喜べ。
 楽受は快感を満喫して終る。
 苦の経験は内省と自己変革をうながし、敗者への共感と弱者への優しさを深める。
 同じ人格と能力の二人なら、挫折体験のある者を選べ。
 苦しい人生にこそ意味がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月7日
★瞑想修行に励む。心がきれいになる。苦しみが減る。一息つく。新たな苦が襲来する。必死で修行する。苦境を脱する。今度は浅ましい心に愕然とする・・・。
 心が浄らかになると、さらに微細な穢れが見えてくる。
 垢だらけの汚い心ほど鈍感になる。
 愚か者は傲慢になり、修行が進めば塵一粒ほどの汚染にも怖れ、自らを戒め、謙虚に、精進を深めていく。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月5日
★存在を調和させ和合させる慈悲と、対象を打ち消し破壊する怒りが激突しても、わずかに慈悲が勝利するだろう。
 世界はまだ辛うじて存在を保っているからだ。
 破壊の意志の総量が上回った瞬間、この世界は形を失い、終焉する。
 他者に向けた怒りも自己嫌悪の怒りも、爆発的なエネルギーは自他を分別せずに破壊し自滅していく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月3日
★我執の強い人の優しさは、一方的な偏った愛になる。
 全てを公平に見る「捨」の心と優しさがセットになると、慈悲が発露する。
 あるがままに観るサティの瞑想にも、「捨」が不可欠だ。
 サティと慈悲の共通因子である「捨」の心が揺るぎなく確立された人は、無我を体得していると言える・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月1日
★懺悔の瞑想をしてから「悲(カルナー)」の実践をすれば、身を低めての優しさが自然に発露するだろう。
 自分の愚かさや至らなさを痛切に意識した直後なら、眼前の弱者の立場に追いやられた方よりも自分の心の方が真っ黒だと思えるかもしれない。
 善意を受けてもらえるか許しを求め、敬意を込めて手を差し出す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月30日
★憐れみを受けて感動する時もあれば、屈辱を覚えることもある。
 優しさの中に強者の傲りや優越感の悪臭がすれば、傷つくだろう。
 弱者や苦しむ方々に「悲の瞑想」をする時は、身を低め、へりくだって、優越意識が微塵も入らないように心がける。
 畏れ多くも同情の手を差し伸べました・・・と。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月28日
★心に乱入してくる情報を止めなければ、内奥の声がかき消されていく。
 誤った方向に流れる群衆に抗い、五戒を守り切れるだろうか。
 人の心は、環境次第だ。
 自分より優れた善友・法友と接する。
 瞑想会に行く。
 疑念は、質問して晴らす。
 スマホを開く度に、待ち受けの仏像を凝視する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月26日
★傲慢な優しさが、弱者の心を傷つける。
 大人も子供も、愚かな優しさに蝕まれていく。
 打算的な善行は卑しく見える。
 優しさを一方的に押しつけてくる迷惑な利他もある。
 思わぬ善行が咄嗟になされて、当の本人が面食らう。  
 我執が完全に脱落すると、純粋な優しさが発露する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月24日
★たとえ虐待した毒親であっても、優しく抱っこしてくれた瞬間がゼロだったはずはない。
 ともかく生き残れたのだ・・・。
 幸せになるには、怒りを乗り超えなくてはならない。
 一番やさしかった時の母の顔を思い出しながら、慈悲の瞑想をする。
 怒りを手放すために、やりたくなくても、やる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月22日
★愛を求めて常に渇いているので、与えられているものに気づけない。
 愛が皆無だったら、死んでいたのだ。
 今、生きていることが、誰かに愛されてきた証拠だ。
 目を閉じて、体の感覚に耳を澄ませば、遠い日の温もりが甦ってくる・・・。
 優しさを発信できない人はいない。
 慈悲は内在する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月20日
★いかようにもがけども、来るべきものは必ず来るし、手にする因縁のないものが取得されることもない。
 「成せば成る」のは、宿業の因果の帰結を加速させた精進だともいえる。
 現象世界を司る因縁の流れに心底から納得がいけば、諦めがつくのではないか。
 諦観とは悟りの別名でもある。
 握り締めていた執着が手放され、心が軽くなり、力が脱け、安らかになり、苦が乗り超えられていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月18日
★虐待の連鎖があり、優しさの連鎖があり、愚かさの連鎖があり、智慧の連鎖がある。
 人は、過去世の宿業にふさわしい親の下に生まれてくる。
 業が定めた茨の道ならば、自らの意志で選んだかのように、まっすぐ前を向いて、光を求め、悪を避け善をなしながら、きれいに生きていくのだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月16日
★傲慢でゲスな言葉が自分の口から飛び出し、愕然とすることもあるだろう。
 自分の心なのに、突発的な反応も妄想の生滅もコントロールできないのだ。
 一瞬の意志決定は、膨大な情報と条件の不可思議な結晶である。
 よく気をつけて、常に見張らなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月14日
★今の瞬間に集中しようと必死になるのもよい。
 集中できないときは、集中できないと気づくほうがもっとよい。
 エゴが狙ったものを力わざでゲットするよりも、ありのままに自分の状態を客観視するほうがよいのだ。
 自分を縛っていたものが詳らかになれば、解放が起きるだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月12日
★なぜ、その苦が襲来したのか、業論を拠りどころに因果の流れを究明する。
 楽受を受けた瞬間に完結した因果があり、苦受を受けた瞬間に消えていった原因エネルギーがある。
 楽因楽果、苦因苦果の構造が腹落ちすれば、我が身に起きる一切の事柄を受け容れていく覚悟が定まるだろう。
 悪を避け善をなし、正しい反応を貫き通していけば、必ず道は開かれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月10日
★生育の環境も親子の関係性も異なり、考え方が違い、生き方が違い、出力してきたエネルギーがまるっきり違うのだから、千差万別の事象を経験することになるのは当然のことである。
 苦しい人生であっても、必然の力で我が身に起きたことは、その時の自分に最もふさわしいことが起きたのだと心得る。
 苦を耐え忍びながらしか学べないものがある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月8日
★ダンマトークを聞いて、善行を試した人がいる。
 初めての寄付をすると、思いのほか気持ちがよく、なぜか軽くなった感じがした。
 財物、労働力、情報・・価値あるものを無償で与えた瞬間、利己心や執着もセットで手放されるのだ。
 顔の見える相手から感謝をされれば、人のお役に立てた自分が肯定できる。
 自己否定感覚の強い人は、善行の修行をする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月6日
★昔、カトマンズのレストランで異常に親切にされたが、帰りしな「皆に宣伝してくれ」と露骨に言われた。
 利他的な行為ではあったが、その優しさは本心ではなかったようだ。
 自分の利益のために他人に善行をする「劣善」なら、やらない方が良いのだろうか?
 最低の善でも繰り返すうちにレベルアップする可能性があるが、何もしなければ善行が定着することはない。
 情けない善でも、善は善なのだからやるべきだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月4日
★約19万年間、狩猟採集で暮らした全世界のホモサピエンスには私有の概念がなく、公平な分配は普遍的だった。
 上下関係と役割分担が明確な群れを形成した狼とは異なり、祖先達は王も階層的な身分も作らず平等だったようだ。
 諸悪の根源は農業の開始だ。
 定住すれば領土争いが起き、部族と部族、国と国との戦争が始まる。
 穀物の備蓄は貧富の差を生み、差別意識はエゴを強化し、嫉妬も高慢も、あらゆる煩悩を噴出させた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月2日
★狩猟採集で暮らす先住民の驚くべき平等社会には、エゴ感覚もプライバシーも存在しない。
 だが、大都会や保留地で貨幣経済に組み込まれた先住民のエゴ意識は、アッという間に現代人と同じになる。
 環境因子に条件づけられて生じ滅するエゴには実体がない。
 無我の修行を完成すれば、必ずトドメが刺せる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月30日
★どうでもよい妄想は淡々と見送れるが、執着している妄想には巻き込まれてサティを忘れてしまう。
 愛する度合いが強まるにつれて慈悲の心は姿を消して、愛執の醜さと溺愛の愚かさが露わになってくる。
 慈悲の瞑想もサティの瞑想も、エゴを削り落としていく無我の修行なのだと心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月28日
★たとえ無自覚でも、反応する瞬間の意志(チェータナー)がやがて具現化していく業の世界である。
 起きたことはすべて受け容れて満足する「無願三昧」の修行は、愚かな欲をかなえてしまう引き寄せや願望実現とは次元が異なる。
 サティと慈悲に通底する「捨」の心を深めていくと無我が体得され、聖なる無関心が現成してくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月26日
★慈悲の瞑想をしながら接近するとゴキブリの捕獲率が格段に上がるのを検証してきたが、多くの瞑想者が同じレポートをしている。
 だが慈悲の念が強まると受容的になり、侵入を許す傾向もある。
 もとより共生する気はない。
 業の支配の及ばない領域を目指しているのに願望実現の業論を使うのは矛盾だが、百発百中の捕獲&放免は実に小気味がよい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月24日
★私のゴキブリ対策は、エサの徹底的排除と独自の捕獲術なのだが、業論にも則っている。
 『この道場にゴキブリは一匹たりとも存在させない!』と明確に、力強く、なんども繰り返し宣言するのだ。
 結果、侵入したゴキブリはすべて完璧に捕獲し、撤去できた。
 我ながら驚く絶妙のタイミングで生け捕りにし、戸外に放り出してきた。
 強烈な意志(チェータナー)を出力した因果の帰結ではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月22日
★その3日後に、瞑想は失速したという。
 仏教も瞑想も続けたいが、夏になれば殺すという予感・・・。
 その引き裂かれた心が統一されなければ、瞑想が進むことはない。
 小さな破戒も積もれば山となり、その結果が出るだろう。
 ホイホイは即死ではなく身動きが取れずに餓死するのだから、因果が帰結した暁には、瓦礫の生き埋め状態などで垂れ流しながら飢え死にするのだろうか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月20日
★問題は、煩悩まみれの情けない姿が目の当たりにされた次の瞬間だ。
 事実を受け容れることは、煩悩をそのまま容認して居直ることではない。
 真っ黒い自分に愕然としたら、必ず乗り超えていくと誓い、清浄道を目指すのがヴィパッサナー瞑想である。
 認める→決意する→乗り超える→解脱する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月18日
★人の心は矛盾の塊であり、常に葛藤が生じ、脳内バトルが展開している。
 本能vs理性、煩悩vs戒律、本音vs建前・・・。
 ゴキブリのお陰で隠蔽していた本心が暴き出され、はからずも、あるがままを観る良い瞑想ができた。
 怪我の功名だが、これからも仏教の瞑想をしながら殺生を続けるのだろうか・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月16日
★ゴキブリを殺生しないように必死でがんばっていた人がついにブチ切れた。
 「もうこんなん、やってられるか! 何が、慈悲の瞑想や!・・・かまわん、ホイホイ仕掛けたる」
 驚いたことに、その後の瞑想がとても良かったのだという。
 嘘も隠しもない己の本心を、ありのままに認めたからだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月14日
★悲観脳タイプが、訓練によって楽観脳に変わると英国の心理学者が証明していた。
 宿業によって初期設定された「有分心」が今世で変わることはないが、反応の仕方や人生の流れは変えられる。
 仏道を正しく歩めば必ず苦境を脱することができるが、預流果の悟りを得ないかぎり落ちるのは一瞬だ。
 よく気をつけてサティを入れ続けなければ、清浄道を歩み抜くことはできない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月12日
★未来が無限に続くかのように錯覚していた頃は、野望と不満と絶望がセットで足し算されていく日々だった。
 身の丈を知り数多が手放され、人生の幕引きを視野に収めてからは引き算が加速し、何事もこれが最後の覚悟が徹底し始めた。
 老いが諸々の解放と完全燃焼をもたらし、人生が輝き出した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月10日
★欲望と不満足と怒りと後悔と不安に怯え、迷い、愚かな不善業を重ねてきた。
 人生が輝き出したのは、最期の一瞬に全てが絞り込まれてからだ。
 人も世間も拠りどころとせず、法のみを拠りどころとし、黙々と歩み抜く覚悟・・。
 なすべきことをなしながら燃え尽きていく感覚が素晴らしい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月8日
★何事も体験で検証するのを旨としてきたが、今は死ぬのが楽しみでならない。
 人生を懸けてきた瞑想の集大成は死の瞬間だ。
 死と再生の刹那も、輪廻と解脱の構造も、ヴィパッサナー瞑想の神髄が我が身の体験で検証できる一発勝負だ。
 油断なく気をつけて、最高の意識状態で見届けたい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月6日
★この世では願望が瞬時にかなうことはなく、いかなる事象も因果と物理法則の支配を受けて展開する。
 何ごとも思いどおりにならないがゆえに複雑系の諸法無我を痛感し、万物の無常性を悟り、存在の苦性(ドゥッカ)を洞察するには格好の領域でもある。
 現象世界はもう耐えがたい、と意識だけの世界(無色界)へ逃げ出したくなることがしばしばだが、あちらではいったん妄想にハマれば足が痺れて無常を覚るチャンスもない・・・。
 残りわずかだ。
 最も悟りやすいというこの世で頑張るしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月4日
★8000メートルのヒマラヤ越えをするアネハヅルから深海のチョウチンアンコウまで、この世はごった煮の世界なので、聖者の影響が盗賊や下賤な者に及ぶこともある。
 極微の霊的生類は階層化されていて、餓鬼が神々に交じることはなく、執着の念は固着したままとなる。
 当初は何ものであれ、生きとし生けるものには慈悲の瞑想を・・・と思っていたが、「とんでもない。居座られてしまうから駆逐しなくてはならない」とスリランカの寺で言われた。
 説得を聞く耳を持たない縁なき衆生は度しがたし、とのことである。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月2日
★どんな甘美な世界も凄惨な事象も、知覚した瞬間にサティを入れて妄想に接続させなければ、欲望も恐怖も混乱も絶対に生じないと何度も検証してきた。
 精神的な危機管理マニュアルは幾重にも用意されているが、それが全滅しても、最後の切り札であるサティが破られることはないと断言したい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月31日
★物理的にも精神的にも完全に孤立無援な異国の森の独房で、雨の降る闇夜に異界の生類の襲撃が連日繰り返されていた。
 「恐怖」とラベリングしなかったのは何故だろう?
 @いつ死んでもよいと思っていた。
 Aもはやこの世で失うものは何もなかった。
 B三宝に我が身を捧げ全てを託していた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月29日
★思考が鎮まり瞑想モードに入った瞬間、あるいは眠りに落ちていく直前、霊的な憑依が起きやすい。
 その対策は諸々習得したが、熟睡中の襲来には手を焼いた。
 前線の兵士や戦国時代の武士のように、飛び起きた刹那に抜刀する感覚で寝た。
 睡眠中もマインドフルでいよ!という修行か、熟睡から目覚めた瞬間に集中瞑想に入れ!という修行か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月27日
★恐怖心を持たない者には魔もつけ入ることができないように、悪霊の憑依も神霊の啓示も、同じ心の波動が共鳴する現象かもしれない。
 調教師やトレーナーの役割を果たす因縁もある。
 修行時代も成道後も、涅槃に入る直前までブッダに干渉した悪魔もいた。
 刹那刹那に響き合い共生する万物・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月25日
★菩薩が悪魔に化けているのか、邪悪な霊の憑依なのか、異常な知覚過敏のラベリングなのか・・・。
 いずれにせよ、頭痛や重圧や締めつけなど身体的にも心理的にも苦受を受けながら瞑想が妨害されているのだ。
 己の不善業が実を結んで苦をもたらしている自業自得の状態に過ぎない。
 悪戦苦闘しながら苦を乗り超え、最悪の事態から最高の学びを得ていくのがヴィパッサナー瞑想者と心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月23日
★悪魔は菩薩が化けた姿であって、衆生を成熟させるために魔事を行ない、苦を与えている・・・という言葉に眼を射抜かれて私の仏道修行は始まった。
 日夜、激烈に襲撃してきた悪霊は、愚か者が渾身の力で修行せざる得ない土壇場に追い込んでくれた調教師だったか・・・。
 自分に苦しみを与えてくる者は菩薩と心得て、苦界を乗り超えていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月21日
★頭部の差し込みと締めつけ、全身の圧迫と痺れ、押し寄せる苦受に対し、力を抜き、争わず、戦わず、ありのままに受け容れていく・・・。
 脱力のプロセスは、一切を等価に観ていくサティの身体的表現だ。
 素晴らしいウペッカー(捨)の修行を与えてくれた存在に感謝を捧げると、慈しみの心が湧いた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月19日
★憑依された瞬間の知覚に「悪覚」とラベリングしていたが、「頭痛」に換えてみた。
 すると経験内容が、霊的襲撃の現実から物理的現実に推移した。
 エクソシスト状態の圧迫感や体動や霊視が、同じ現実のまま眼耳鼻舌身意の認識で括られた。
 超感覚的知覚の世界と、この世の知覚世界を分かつ分水嶺だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月17日
★だが光と合一する瞑想も身体の存在を無化していく瞑想も、相手の存在を嫌って排除しようとする発想に端を発している。
 相手を敵視して存在を認めているのだから、逆に憑依の手がかりとなり、闇と光のバトルに発展しかねない。
 起きたとおり、感じたとおり、抗わず、意識に触れたままに客観視を続ければ、完全に無視された状態となり拠りどころを失っていく・・・。
 淡々とサティを入れ続けること以上に優れた除霊の方法はない。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月15日
★同じ波動が響き合い、同調するのが現象世界だ。
 海亀や鯨に付着するコバンザメも、空中を飛翔する鷹には憑依できない。
 暗く淀んだ想念に固着した存在に対しては、燦然と輝いて、眩い光になりきってしまえばよい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月13日
★飛行機が着陸態勢に入ると、耳鳴りが響いて痛みが走る。
 急激な気圧変化が生じるからだ。
 ふと閃いて、眩い光と合一する瞑想に集中すると、同じ耳鳴り音を立てながら即座に憑依霊が退散していくことに気づいた。
 光との合一は、脱力を深めていくやり方よりも即効性があり、対策の引き出しがひとつ増えた。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月11日
★野菜と果物を全廃すると、52時間の断食後もわずかな粥と味噌汁と乳児用粉ミルクで飢餓と戦いながら瞑想する日が続いた。
 のど元に刃を突きつけられた思いで全身の力を抜き物質的な身体感覚を消していくと、激烈な霊的襲来が拠りどころを失うことに気づき、脱力を極限まで深めて肉体が無になる感覚に没入した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月9日
★「空無辺」→「識無辺」→・・・とサマタ瞑想が極められていくと死後、無色界に再生するとも説かれる。
 物性が失われた意識だけの存在と化すが、涅槃を三度体験して得られる不還果の悟りに到達した訳ではない。
 無色界の天に留まる業が尽きれば、神々も無常の法則に抗えず、下落し、輪廻転生はエンドレスに続く・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月7日
★手指足指から顔面、耳たぶ、内臓に至るまで全身の力を抜いて、やわらかく、しなやかに脱力を極めていくと、体の組織が崩壊して融け、水になったかのような錯覚が生じてくる・・・。
 水になりきってたゆたいながら静まっていくと、やがて全身の水分子が蒸発し、気体となって空気と融合し、酸素原子の一粒に至るまで力を完全に脱いて心をも費やさず、一切の力がことごとく終息すると、質量を持たない光子となって光り輝き出す眩い幻想・・・。
 そして・・・、光となった存在から力が抜けていった果てには、何もかも滅し尽くした空っぽの虚無の意識だけになっている・・・。
 無色界までもう一歩・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月5日
★絶好調の意識状態が崩れていくとき、身体現象の無常性に対する厭離の念が極まっていく。
 たとえ解脱が完成しなくても、せめて無色界には行かねばならぬ。
 身体がなければ、食欲も性欲も、それを奪い合う闘争も、低血糖ボケで瞑想が崩れていくことからも解放される。
 人も動物も食べて、寝て、生殖をして、生きることのほぼ全ては身体の維持に費やされていく。
 だが、苦の根源である身体を捨て去れば無常の真理が見えづらくなり、いわば妄想だけの世界で生きていくことになる。
 不還果となり無色界に転生することにも、さしたる魅力は感じられない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月3日
★瞑想が本格化したのは、52時間の苦しい断食を解いてからだった。
 意識が澄み渡るとサティが高速化し、1秒間に10数個の対象が鮮明に気づかれて滅していく。
 滋養豊富な食で腹を満たせば睡魔と戦い、身体の物質性を削ぎ落とすには飢餓と戦わなければならない・・・。
 瞑想は身体との戦いである。
 「世の流れ」に逆らいながら、その究極を目指す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月1日
★真相が正しく読み解かれたのか定かではないが、複雑系の宇宙網目のなかで因果が帰結していったことは確かだろう。
 因果応報の業論が腹に落ちれば、嫌悪や怒りの反応が起動しそうな苦しい経験を甘んじて受け容れることができる。
 結果的に悪しき反応が抑えられ、新たな不善業を作らないですむ。
 何よりも、ネガティブな因果の帰結を平然と、淡々と見送ることができれば、人生苦が激減しているではないか。
 ともあれ、昨夏のリトリートでは宿痾とも言うべき長年の苦しみが現れなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月29日
★陰陽のバランスの崩れた食事が引き金を引いた形だが、執拗に瞑想修行が妨害され苦受を受け続けたのだから、相応の不善業が働いていたのではないかとも考えられる。
 対症法に膨大な時間と労力を空費し、醜い水疱を見咎められれば恥辱を覚えてきたのだ。
 不善業を逆縁で読み解くならば、苦受の瞬間がポイントだ。
 苦を感じた最大のポイントは瞑想修行に専念しきれない無念さ、口惜しさだったのだから、他人の瞑想修行を妨害した原因が浮かび上がる。
 醜い患部を見咎められて恥ずかしく感じることがあったからには、過去世の誰かの修行を邪魔した上に屈辱を覚えさせたのだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月27日
★すると、初めて水疱が発症しなかった。
 瞑想のリトリートに入ると、極端な少食に加えて断食をくり返し、複雑な消化過程の蛋白質をひかえ、カリウムの多い野菜や果物が過剰になるのが常だった。
 陰性・虚証に傾き過ぎるのが一因ではないか検証したのだ。
 果たして近因は食事だったと判明したが、しかし不善業が遠因だったとする解釈も捨てきれない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月25日
★1年前の夏、タイの森林僧院の独房に籠もり、30年間悩まされ続けたリトリート中の水疱に今回こそ決着をつけようと意気込んだ。
 原因はカルマなのか、食物なのか。
 検証するにあたり、「より単純な原理で説明できるならば、より複雑な原理で説明してはならない」というモーガンの公準に従った。
 カルマ論は後まわしにし、まず栄養の影響を検証するのが順番だろう。
 食べる物がなくなる覚悟で1ヶ月間、野菜と果物を全廃してみたのだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月23日
★外国で本格的な瞑想修行に入ると、タイ、ミャンマー、スリランカ、いずれの寺でも必ず皮膚病になり悩まされてきた。
 火傷の跡のような水疱が発症し、痒みがともない、掻けば水疱が破けて拡がるのだ。
 鬱陶しいことはなはだしく、対症法にも時間を奪われてきた。
 瞑想に専念する妨げになっているのだから、修行系の不善業があったものと思われる。
 不善業の帰結だけなのか、栄養が関連しているのか不明だが、ただの一度の例外もなく必ず発症し脳害されてきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月20日
★なぜ、そのようなことが我が身に起きたのか。
 ・・・その原因を推し量れば、過去の所業が見えてくる。
 殺す者は殺され、奪う者は奪われ、罵る者は罵られ、愛する者は愛される法則だ。
 多くの瞑想者を励まし、支え、助ける仕事がライフワークとなった生涯だったが、過去世では人の修行を邪魔する数々の悪業を重ねてきたのも確かなことに思われる。
 多くの方々から奇跡的に修行を支えられてきたが、同時に、破壊的な妨害を何度も受けてきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月18日
★1ヶ月の修行が終わり、帰国の便に搭乗してからも、スマホがなければ瞑想以外にやることがなかった。
 バンコクの空港で乗り継ぎ便を待つ3時間、寺以上に濃密な歩行瞑想に没頭できたのは新鮮な驚きだった。
 修行が終わり、アチャンや日本人比丘と会話し、帰国準備の雑用等々で完全に日常モードに戻っていたのに、騒がしい空港でこれほどの修行感覚が甦ることに感銘を受けた。
 瞑想者として、最高の帰国だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月15日
★寺との連絡も、検索も、スマートウオッチの時差修正すらできず困却したが、情報断食の効果は劇的だった。
 ネットの情報が無ければ煩悩世界は生きられないだろうが、人生苦の根本を乗り超えるのに必要な情報は全て己の中に格納されている・・・。
 煩悩世界への渇きと執着から解放されていく道・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月13日
★致命的な忘れ物をしてタイに旅立った1年前の夏・・・。
 出国手続きを済ませ、飛行機の搭乗ゲートに近づいた時、スマホを羽田空港のトイレに置き忘れたことに気がついた。
 出発時間ギリギリとなり、あらゆる情報が格納されているスマホ無しに外国に出立するのか、中止するのか・・・。乗務員に問われ、「行きます」と即答した。
 電話なし、寺の住所も不明で、果たしてたどり着けるのか、どうやって帰国するのかも覚束ないが、土壇場になると肝が据わるのは若かりし修行時代と変わらない。
 修行系の波羅蜜を信じて、スマホ無しの丸腰での離陸となった。
 タイに飛ぶ機内の数時間、バンコクで乗り継ぐ空港フロアーで丸2時間、修行時代は常にそうしていたように移動のほぼ全ての時間、密度の濃い瞑想ができたことに襟を正す思いがした・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月11日
★タイの森林僧院で瞑想修行をした昨年の夏が懐かしい。
 1ヶ月間ツイッターを休載した解放感も忘れがたい。(笑)
 広大な寺に常住していたのはわずか4名の比丘に足の悪い老婆と犬が一匹。
 独房に座し、独占状態の大きな伽藍や堂の回廊で存分に歩く瞑想をした・・・。
 法話も面接もゼロ、孤独の極まった苛酷なリトリートだったが、最高に幸せな一瞬一瞬だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月9日
★森林僧院に入山する前には、寺に布施する品目をチェンマイで買い揃えるのが習わしになった。
 昨年も草刈り機や電動工具など、貧しいカレン族の在家には手が出ない高価なお布施をした。
 在家の特権は、寺には比較にならない善行のチャンスが多いことだ。
 どれほど力を尽くしても、自由意志でやれる瞑想修行には限界がある。
 修行を進ませる真の推進力は、善業の集積エネルギーである波羅蜜であると心得なければならない。
 徳のない者は、徳を積みながら修行するしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月7日
★修行に入れば一切の音信を絶ち、ツイッターも中止できるのが嬉しかった。
 言語脳を酷使する執筆は瞑想修行の邪魔になる。
 ラベリングの上達と智慧の修練には利するものの、瞑想中の言葉の妄想が誘発されやすく、諸刃の剣だ・・・。
 言語脳を静かにさせなければならない。
 静かになりすぎると、智慧の発現が鈍くなる。
 ヴィパッサナー瞑想は矛盾の統合・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月5日
★1年前の夏は、タイの森林僧院で孤独な瞑想修行に入っていた。
 熱帯の雨季では毎日スコールがあり、黒雲が一面に拡がり薄暗くなると突然、冷たい風が立ち、豪雨が落ちてくる。
 バンコク周辺のスコールは凄まじく、バケツを引っくり返したような激しい俄か雨だ。
 タイ北部の森林僧院でも、雨季にはほぼ毎日雨が降るが、春雨のような優しい降り方が印象的だった。
 雨が落ちれば涼しく、夜のシャワーは肌寒いくらいだ。
 猛暑と湿度でベタつく日本の夏の不快指数は、タイの森林僧院をはるかに圧倒している・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月3日
★人生の終りがはっきりと視野におさまり、情報発信の仕事は半減させて、最後の修行中心の生活に切り換えた。
 音信も途絶えて久しかったが、インターネットで調べると、ニャーニャナンダ長老は数年前に逝去していた・・・。
 懇切丁寧な瞑想指導をしてくださった祖師方もすでに亡くなり、晩年を託そうとしていたスリランカの寺は事実上崩壊していた。
 ミャンマーの深山も懐かしかったが、今や内戦状態の修羅場と化し、スリランカの瞑想技法は、タイ北部の森林僧院で孤独に全うしていく他はない流れになろうとは予想だにしなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月1日
★数年に及ぶミャンマーでの修行に区切りをつけてスリランカを再訪すると、ニャーニャナンダ長老は本山を離れ、末寺の森林僧院の岩窟に住していた。
 マハーシ・システムの壁を突破する画期的な技法を授かったが、修行に入れるのは雨安居の一時期だけとなり、やがて瞑想指導が多忙になるにつれ修行時間は激減し、外国での長期リトリートに入ることも途絶え、道半ばのまま歳月が流れていった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月30日
★切に願えば遂げられる業の世界なのに、出家に至らなかったのは、心底から望んでいなかったのだろうか。
 ヨーガも断食も非時食も慎む出家の修行環境は、瞑想と体調の因果性を重視する私には馴染まなかった。
 タイの寺で出家を願い出たこともあったが、「比丘には比丘の諸々の義務があり、おまえのように瞑想だけやりたい者は在家で修行した方がよい」と断られた。
 また、寺に住しながら積善を重ねて徳を積むのも至難の業である。
 瞑想の最高の瞬間を何度も破壊された経験から、必要不可欠な波羅蜜を満たすべく、俗世でさらなる徳を積む必要も痛感していた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月28日
★すぐにも出家して修行三昧の生活に入りたかったが、それまでニートのように引きこもり修行に明け暮れていた時代を支えてくれた方々に何の恩返しもせず、熱帯の密林に消えてしまうのは虫が良すぎるのではないかと心が痛んだ。
 私を頼る人達に瞑想を教え、瞑想のマニュアルを執筆して、いくばくかの恩返しをしながら時期の到来を待つことにした。
 最後は必ずあのスリランカの深山と決めていたが、その後ミャンマーの寺で修行したのは、高齢のサヤドウ達がまだ存命中に指導を受けておきたかったからだった。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月26日
★どこの国でも修行者のクーティは隣接する寺が多いが、この本山のクーティは密林の中に孤立し、周囲に人の気配がまったくなかった。
 比丘衆が互いに顔を合わせるのは、禅堂で毎日1時間の瞑想をする時だけだった。
 ブッダの時代さながら、群れず、喋らず、ひたすら孤独に修行する厳しさは群を抜いていた。
 いずれ出家するならここしかないと思い、長老に伺いを立てると、二つ返事で認可してくれたのは意外だった。
 恩返しをしたら必ず、と思いながら下山したが、この寺ほど「出離」の意味を厳しく突きつけてくるところはなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月24日
★その夜、クーティで瞑想していると、かなりの至近距離で野獣の吠え声が轟いた。
 怖ろしい咆哮は一晩中続き、なんらの情報も知識もない得体の知れなさに妄想が止まらなかった。
 翌朝、戸外に出ると頭上でまたも咆哮がした。
 大樹を見上げると、ネコ科大型野獣ならぬ、真っ黒い顔の咆え猿がこちらを見下ろしていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月22日
★まず瞑想中の意識の張り方、特に受動性に徹するサティと一点に絞り込む集中の案配を質問した。
 長老は、若い比丘の面接を差し置いて、特別扱いで連日何時間も面談して下さった。
 世俗では無能な泥凡夫に過ぎなかったが、寺関係になると、なぜかこのように厚遇されることが多い不思議な人生だった。
 宿業の故だろうか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月20日
★この森林僧院の本山は、上座仏教の比丘といえども再受戒しなければ入山が許されない。
 のみならず、解脱するまで二度と山を下りないと誓約しなければならないという。
 もとより在家など足を踏み入れることもできず、私も門前払いを食らった。
 だが、日本を出国する前に受け取った次期後継者ニャーニャナンダ長老の手紙を懐中から取り出して見せると入山が許され、3日間止宿して長老の指導を仰ぐ光栄に浴することができた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月18日
★清浄な聖域を保つために日夜、厳しく結界を作る修法がなされていた。
 晩課に集合した比丘達が、経堂の仏前にペットボトルの水を供え、一本のタコ糸を全員で廻し持ちながら朗々と読経する。
 翌朝、作務の僧がそのタコ糸を寺の周囲に張り巡らせ、経の響きの籠った聖水を撒き、凶々しきスピリチュアルな存在の侵入を阻む結界を作っていた・・・。
 なるほど、聖地は自然発生するものではなく、朝に夕に、清浄な波動を更新しての賜物だったか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月16日
★この山上の境内の一角で初めて座禅をした感動は忘れがたい。
 こちらの実力とは関係なく、瞑想の高みに引き上げられていくようなエネルギーに圧倒された。
 浄らかな土地の気の流れを感じた。
 色街にも、霊場にも、流刑地にも、玉砕の戦場にも、独自の波動が残る。
 瞑想にも聖地がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月14日
★雨上がりの翌朝の山道では、血に飢えた蛭が獲物の到来を待ち構えている。
 爪楊枝ぐらいの蛭が托鉢に向かう比丘の裸足を襲い、赤黒く太った芋虫のような姿となって逃げていく。
 よし、それなら、と体表面に全神経を集中させて歩き、蛭が喰いついた瞬間、間髪を入れずに払い除ける独自の技を編み出して対抗した・・・。
 深山に籠もって瞑想に専念していると動物的な直感が鋭くなっていく。
 だが、睡眠中に襲撃され、翌朝、白い行衣が血だらけになっていたこともある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月12日
★10人余の比丘が山上の僧院で修行し、早朝の作務が終わると山道を麓まで下りて托鉢をする。
 白い行衣をまとって比丘列の最後尾に付き、深山を下る足の感覚、鮮明に耳を打つ鳥の囀り、木洩れ陽に燦めきながら揺らぐ葉群、光速で駆け抜けて行くイメージと思念の連鎖・・・。
 全ての対象との「触」の瞬間にサティを入れる新たな技法に、それまで超えられなかった壁がやすやすと突破されていく感動・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月10日
★若いドイツ人の兄弟が出家していた。
 その両親がスリランカを訪れ、森林僧院で真剣に修行しながら苛酷な一夏を過ごしていた。
 食事の供養を受けた兄弟の比丘が、その両親に説法する光景は美しい聖家族のようにも見えた。
 二人しかいない子供達が異教徒の国に出家する自由を尊重し、さらに不可思議な瞑想世界を共有しようと分け入る姿に愛の深さも感じた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月8日
★どの国のどの寺よりも、この森林僧院の比丘は修行に専念していた。
 個室もプライバシーも無きに等しく、僧堂で、樹下で、経堂の軒下で、夜は小さなアルコールランプの灯下に坐り、思い思いに明方まで修行しては、疲れるとその場に崩折れて寝ていた。
 指導者はもちろんスリランカ人だったが、ドイツやオーストリアなど、西欧の若い比丘が多いのも印象的だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月6日
★電気も水道もないスリランカの山寺では、釣瓶井戸の水を薪火で沸かし、川の流れで体を洗い、夜はアルコールランプで瞑想をした。
 過酷だったが、修行法のシステムに感動し至福の日々となった。
 帰国が迫ると、ドブ泥の下界に舞い戻る愚かさを自嘲した。
 人は、自らの業に押し流されていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月4日
★最後の修行はスリランカの森林僧院と決めていたが、祖師方が相次いで亡くなり崩壊していた。
 タイの森林僧院も、アチャンが不在となれば訪れることはない。
 良き師と環境が時勢に阻まれ3年余が過ぎた。
 気力も体力も時間も金もサポートも全てが揃う奇跡・・・。
 何事もこれが最後の覚悟・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月2日
★コロナが鎮静化し、タイへの出入国が緩和された一年前の夏。
 森林僧院で修行すると決めた途端に、日常生活のサティが何倍も鋭く入り始めたことに愕然とした。
 日本の独居生活も森林僧院の独房も同じ筈なのに、期間限定の修行体制を整えないと、いつの間にか甘くなっていくのを恥じ入った・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月31日
★「まさか、先生に再会できるとは思っていませんでした!」と感激されていた。
 「死の瞬間までサティを入れ続け、来世に繋ぎ、修行を続けてください」
 直球で、言うべきことを伝えた。
 思えば、一期一会の多い仕事だった。
 「もう瞑想会に来るのはこれが最期だろう・・・」
 と直感しながら、私よりはるかに歳上の瞑想者の後姿を何人も見送ってもきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月29日
★80代半ばの方が瞑想会に来られた。
 22年ぶりの再会だった。
 瞑想が跡絶えずに継続していたとは嬉しい驚きだった。
 幼少期から一貫して死の不安がテーマだったが、心がシーンと静かになる瞑想なくして、生きてこられなかったという。
 四聖諦の原点、苦の真実を視る能力が瞑想を持続させる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月27日
★人に自由意志はあるか?
 意識の多層構造を一元化した愚問だろう。
 感情や本能を司る心、その指令を抑制する心、トラウマを抑圧する心、煩悩に向かって、真理に向かって、心のドミノを倒すマナシカーラ・・。
 瞑想は人生全体の総力戦と心得て貫き通す意志が、いつの日か矛盾を統合していく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月25日
★揺るぎない確信や決意も、所詮エゴが宰領する表層の意識に過ぎないのではないか。
 抑圧された心の闇から、ネガティブな意志決定が反射的に下されるかもしれない。
 万物一如の無我感覚に浸っていても、遺伝子レベルでは機械的な冷酷さで非自己を排除しているではないか。
 土壇場の最期の刹那に、揺るぎない決意と信じていたものが裏切られることはないのか・・・?
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月23日
★どの寺に行っても、お前はカルマが良いと言われ、在家ながら存分に修行ができる恵まれた人生だった。
 自らの愚かさの故に、破滅的な自業自得の苦を吐き気が止まらなくなるほど検証もした。
 束の間の幸福の日々も、一瞬の快感も、永続しないサマーディも・・・、逃げ場のない無常の苦を突きつける。
 現象世界の因果応報の構造も、苦楽がエンドレスに滅していく構造も、もう充分だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月21日
★人間の底知れぬ醜悪さを暴き出す戦争が無くなることはないだろう。
 野生動物が殺し合う弱肉強食の世界が構造的に変わることもあり得ない。
 永遠に続くかのように錯覚した幸福な楽受の日々も、過ぎ去ってしまえば一瞬の夢のようだ・・・。
 自業自得なのだから何事も引き受けてはいくが、業に縛られ、無常に変滅するこの世へ舞い戻ってしまうことを想えばゾッとする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月19日
★世の中がバブル時代と呼ばれていることを全く知らずに、帰属する場所も拠りどころも何もない孤独な修行を何年も続けていた。
 社会との関係がゼロになり、修行が進まなかったら生きている意味がゼロになる背水の陣だった。
 命懸けではあったが、何事もこれが最後!の覚悟が果たしてどこまで本気だったか・・・。
 人生の最期が視野におさまった今が最高・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月17日
★ああ、またか・・と嫌な事は毎日のように襲来する。
 愚かさゆえに諸々の不善業を作ってきたのだから、当然の因果の帰結である。
 何が起きてもそれで良い、とネガティブな事象を受け容れていく発想の転換が楽しい。
 サティの奥義は、受容する覚悟だ。
 ただ意識に触れたものを淡々と見送っていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月15日
★苦の原因は渇愛であると説かれ、渇愛の正体は妄想する力だと知られる。
 手に入れた瞬間、望み、願い、欲しがり、恋焦がれた情熱と妄想は霧消する。
 苦に打ちのめされ、因果が帰結するこの世の構造を如実に知る時、苦界に誘った甘美な妄想が蹴り捨てられる。
 渇愛が減衰していく老いは楽しい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月13日
★死と再生のメカニズムを心得て以来、サティを入れながら死んでいくのが楽しみとなった。
 だが、生存への盲目的な意志にトドメが刺せなければ、業の法則に貫かれた世界に転生しなければならない。
 一瞬の間断もなく六門から乱入してくる刺激が否応なく意識を惹起させる世界に踏み止まって希求する涅槃の寂けさ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月11日
★若い頃は不安に押し潰されそうだったのに、家族も金も何の保証もなく黄昏た今、将来不安がゼロなのは何故か。
 我が身に経験される苦楽の事象は、業の法則性に即して因果が帰結していくプロセスに過ぎない。
 そう腹に落ちて以来、戒を守り、諸々の善行を重ねてきた。
 憂いのあろう筈はない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月9日
★老いが快適である第一の要因は、健康だ。
 良い瞑想には意識の透明度が決定的、透明な意識は体調次第、体調は食事と運動と摂生に因る。
 ひたすら良い瞑想のために長年、ヨーガ、断食、栄養管理、歩行瞑想などで厳しく律してきた結果、極めて健康なのだ。
 苦の種を撒き散らす過剰な力が衰えてしかも健康、というバランスの妙・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月7日
★生命力が旺盛だった若い頃は、欲望も不満も傲慢さも自己嫌悪も絶望も・・・激烈だった。
 人生の黄昏を迎え、熾烈な火勢が衰えてくると、全てが余裕で達観されてくる。
 ・・・老いが快適とは意外だった。
 見るべきものは視たのでこの世に未練は無いが、未完の修行を完成する時間は残されているか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月5日
★目的と熱意が吸い寄せた情報を徹底的に組み合わせたら、手放して脳内発酵するのを待つ・・・。
 新しい発見や発明も、自縄自縛の鎖から解放される認知の転換も、同様のプロセスを経る。
 愚かな目的だったことに気づかず、やがて苦の泥沼に陥ることもある。
 真の安らぎに導かれる智慧もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月3日
★あらゆる情報が遮断され、サティを入れ続けるリトリートが何ヶ月にも及ぶと、ただの一度も思い出されたことのない記憶が次々と浮上してくるのに衝撃を受けた。
 忘却とは記憶の再生がままならない状態だ。
 過去に経験した全印象が断片化されて保存され、智慧の素材として結晶するのを待っている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月1日
★細心の注意を払う手作業にも、正確で緻密な思考にも、座して微動だにしない方がよい。
 一方、何をどうすべきか大きなアイデアを得たり、全体の構想を練るにはウオーキングがよい、と古代ギリシアの哲学者達は直感していた。
 私も着想に窮すると、早足の歩行瞑想中に必ず閃きが得られた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月29日
★だがその智慧も、この世の幸福度を上げる世俗諦の真理に過ぎない。
 どれほど幸福になっても、迫り来る老いや死や無常の苦は如何ともしがたく、とどのつまり一切皆苦の現象世界から解脱するしかないのではないか、とブッダは言う。
 生存苦の根本に触れるまで輪廻しなければ歩み出せない悟りへの道・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月27日
★タンは必要な資料を全て読み込むと「私はこの問題の解答を得る!」と命じて眠りに就く。
 すると翌朝、見事な答えを得て目覚めるという。
 タンの睡眠法と瞑想に共通するのは、@必要十分なデータを仕込む。
 A意図的な思考の干渉を遮断する。
 Bインプットされた情報同士が有機的に結合するのを待つ。
 智慧が閃く構造の一つだ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月25日
★思考が止められ、エゴが沈黙した瞑想中に智慧が閃くのは脳の使い方の問題だろう。
 集中力や気づく力、客観視の能力などをいくら養っても、情報の仕込みがなければ智慧は閃かない。
 しかるに、欲望やプライドに執着しているエゴが情報を扱えば、客観性が失われて真実からかけ離れていく。
 台湾の若きデジタル閣僚となったオードリー・タンは瞑想をしているのだろうか。
 瞑想と同じ構造の智慧が得られる方法を仄めかしていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月23日
★「我思う故に我あり」というデカルトの名言は、「エゴ妄想は、思考のプロセスから生まれてくる」と解釈される。
 思考モードが続く限り、思考の産物である自我意識やエゴ感覚が超越されることは無い。
 エゴも神も永遠も・・・妄想されないものは何もないのだ。
 自我の終焉は、瞑想でしか体験されないだろう。 
 明晰な無思考状態に止まって、洞察の智慧が閃く一瞬を待つ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月21日
★ネットで偶然目にした画像だが、戦没米兵の墓前に打ち伏す女性の全身からどうしようもない悲しみが漂っていた。
 文脈が杳として知られぬが故に、純粋な悲嘆が伝わってきて思わず胸が熱くなった。
 打ちのめされた女性に寄り添う上官らしき軍人の「悲(カルナー)」の心にさらなる感動を覚えた。
 全身で人の悲しみに同期する崇高さと静かさが印象深く、たとえこの瞬間だけであっても、カルナーの人が存在する尊さを感じた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月19日
★見ず知らずの赤の他人に対しては、純粋な優しさや悲(カルナー)の心が発信されやすい。
 人間に組み込まれている利他的本能が素直に起動するのだ。
 愛憎が並立する家族との関係はネガティブな記憶も多く、愛も激烈になって慈悲の純度を汚してしまう。
 自己嫌悪も自己愛も制御しがたく、自分への慈悲の瞑想が最も難しい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月17日
★怒りを爆発させる者もいれば、慈悲の瞑想をする者もいる。
 引力と斥力がしのぎを削り、壊す力が創造する力の母胎となって生滅変化していくのは、素粒子も銀河も人も生命も変らない。
 不滅のエネルギーが、死と再生のプロセスを無限に繰り返している・・・。
 森羅万象は生々流転し、命あるものが輪廻転生するのは自明の理ではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月15日
★人の心から暴力性が無くなれば、蛋白質をゲットする狩りが不可能になっただろう。
 また、強い遺伝子を残すためにオス同士が命がけで激突するのは有性生殖の宿命だ。
 一方、哺乳類の母子関係と家族や集団の形成には優しさが不可欠となった。
 残酷な生命世界で、優しさが暴力と闘争に圧倒されないように、慈悲の瞑想を続けるしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月13日
★「ウクライナの平和をマジ祈ってるが、独裁者プーチンの願うことが叶えられますように・・・とは祈れない」と言われた。
 プーチンの悲劇は、我が身を滅ぼす愚かな願望を抱いていることに気づけないことだろう。
 自らに真の幸福をもたらす正しい願望を持つことができ、その願いが成就しますように・・・と慈悲の瞑想をする。
 プーチンが真実に幸せになるとき、必ずウクライナに平和が訪れている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月11日
★願っても願わなくても、来るべきものは来るし、来ないものは来ない。
 どんな宝を得ても必ず飽きるし、劣化するし、不満足性のドゥッカ(苦)に至るのが人の心だ。
 身の丈をわきまえ、貪り求める妄想を手放してよく見渡せば、既に与えられているものだけで、十分生きていけるのではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月9日
★優しさが臭くなるのは、強者が弱者に救いの手を差しのべる構造に起因するのかもしれない。
 たとえ無意識でも上から目線の傲慢さが感じられた瞬間、優しさを受ける側は傷つき、屈辱を覚えるだろう。
 自己陶酔の臭いがすれば、手を払いのけられるかもしれない。
 優しさからエゴを引き算しなければ、慈悲にはならない。
 身を低めての優しさを心がける・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月7日
★健常者の優しさが届かない悲の世界もある。
 地雷で両足を失った患者に、カブールの外科医がズボンを引き上げて義足を見せると、絶望した男の顔に笑みが浮かぶ。
 同じ苦を経験した者にしか共有されない悲しみがあるなら、打ちのめされて傷ついた数だけ人は優しくなれる。
 悲の瞑想の達人になる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月5日
★執拗に自分を責め苛むのは、プライドと怒りが交じり合った自己愛に由来する。
 自虐の愚を覚り、無知が犯した罪業を懺悔し、同じ過ちを繰り返さぬ決意が定まったなら、自分を赦す瞑想で締めくくる。
 愚かで穢れた自分を受け容れることができたなら、自分と同じ最低の人に対する優しさが溢れ出すだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月3日
★懺悔の瞑想が深まれば、心底から非を認めることができ、引き裂かれていた自分自身と和解できる。
 否応のない業の力で起きたことだと得心がいけば、復讐に燃ゆる眼で眺めた人を赦す瞑想が佳境に入る。
 あるがままに物が観えた瞬間、目から鱗が落ちる。
 執着が手放され、鎖から解放される・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月1日
★慢性的な痛みに苦しむ人が、心底から優しい気持ちを発信するのは難しい。
 慈悲の瞑想を深めるためには、身体を整え、健康でなければならない。
 心をやさしい気持ちで溢れさせるためには、自己否定感覚を手放し、あるがままの自分を受け容れなければならない。
 他者をやさしく受け容れることができれば、自他を分別する境界線が失われていく。
 慈悲喜捨の「捨」は、無我を体得するための修行と心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月30日
★座禅中に頭重感を覚えるようになり、やがて四六時中ジンジン痺れたような違和感に悩まされるようになった方がいる。
 CTスキャンなどで検査した結果、スマホ首のストレートネックと判明するや、症状がほぼ消えてしまった。
 正確な現状認識は、不安妄想を一掃する。
 あるがままに観る瞑想の真骨頂・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月28日
★一瞬にして何十人もの死傷者を出す自爆テロの犯人は、「殉教者は死後天国に行ける」と盲信している。
 完全武装した兵士が丸腰の民間人を虐殺し「浄化」とラベリングする。
 毎日凶悪な業が作られ、その結果が現れるのを知らずに待つ人達・・。
 この世界から苦しみが無くなることはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月26日
★感動の瞬間は、事実ではなく脳内の意味付けと印象操作しだいである。
 命が輝くのに、真実などはどうでもよいのだ。
 命の根幹をなす遺伝子は、生存欲(利己的な自己複製)しか考えていない。
 愛欲の記憶はすぐに色褪せて、性懲りもなく繰り返させようとする。
 一切皆苦の人生になんとしてでも執着させるべく、苦の経験は抑圧され、変哲もない記憶は美化され、感動の一瞬に誘う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月24日
★よく晴れた日だったのに、中館観音堂の満開の桜を観に来ていた人は私以外に誰もいなかった。
 幼稚園の遠足で訪れた山門も、境内も、五行川の水の流れも、眼下に拡がる田園風景も・・・、70年前の面影をとどめているのが驚きだった。
 幼稚園の制服、保母さんと道すがら歌った園歌、母が縫ってくれた弁当袋、毎朝必ず園内に流れていた「おもちゃの交響曲」、青い目のエバンス神父・・・脳内に速写されていく記憶が現実と重なり、懐旧の情が溢れた・・・。
 共有すべき同じ時代を生きた人は今や皆無に近く、私以外の誰にも意味のない印象の去来に、存在の無意味さを確認していた。
 この世に何らの未練も残さず、消えていくことができそうだ・・・。

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

5月22日
★ブッダならどうするのだろう・・・?と自問する人の心の中で、ブッダは生き続けている。
 意志決定がなされていく一瞬に先人の教えが関与し、感受性や発想のパターンに両親や敬慕した故人の量り知れない影響がある。
 死者は残された者の心の中で生き続ける・・・。
 しかるに、執着が深ければ愛する人の死が受け容れられず、死者は悲嘆の中に凍結される・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月20日
★夜の境内で、満開の桜の老樹が人知れず散りゆくのを眺めていた。
 無風状態で散っていく花の静かさが印象的で、穏やかに天寿を全うしていった故人が想い出された・・・。
 それも束の間、対照的な暗い連想も心を掠めた。
 残虐な意志の遂行によって突然、灰燼に帰していった異国の街と虐殺された市民の累々たる屍・・・。
 春の夜に散る花の静けさと、爆裂するミサイルの破壊性・・・。

 


………………………………………………………………………………………………………………

 

5月18日
★目にピンク色の情報が入った刹那も、「桜」と認識された瞬間にも、まだ「美しい」という感動は生じていない。
 連想のドミノが倒れていくどこかで心に迫るものがあり、無自覚なまま美しさに圧倒され、いつの間にか感動に浸っている・・・。
 膨大な数のどの花びらも全て満開→散る寸前の今がピーク→老母が最期に見ていた桜→夕闇に色褪せていく満開の枝垂桜・・・と妄想が続くかぎり感動も続いていく・・・。

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

5月16日
★戦場で敵を虐殺する瞬間の兵士も、官邸からその命令を発した者も、殺意が業を作る構造上、同罪となる。
 殺す者は殺され、欺く者は欺かれ、必ず因果の帰結を見る日が来ることを知らない無知・・・。
 因果論が無視され輪廻転生が否定されれば、この世でなされない悪はない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月14日
★何事も、我を張れば破綻し、エゴが抜ければ首尾よく成就する。
 万物万象が相互に関連し合った縁起の消息に調和しているからだ。
 無我を悟るのは至難の業だが、我執を一時的に抜く技術として、天に則るのも、神仏やタオや梵に全てを委ねきるのもよい。
 エゴの残滓にトドメが刺されるまで・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月12日
★「因縁の流れに従う」とはいえ、実際にネガティブな事象を受け容れるのは難しい。
 巧妙な論理と言い訳で、エゴは常に利己的な道を選ぼうとするからだ。
 だが、瞑想が深まり、雑念や妄想が完全に沈黙すれば、正しい道が直観される瞬間も訪れる。
 エゴを離れた意志決定がなされると、あたかも天意に従うかのような感覚が生じるだろう。
 「則天去私」と古人は言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月10日
★誰でも凡夫だったのだから、必ず善業も作ったし悪業も作ってきただろう。
 その悪業が縁に触れれば、殺しや盗みや邪淫などに巻き込まれるかもしれない。
 悪しき因縁の流れを断ち切るのは、戒を守り抜く覚悟である。
 悪を避け善をなす原則が貫かれる限り、必ずカルマが良くなり、人生の流れは善い方向に変わっていく。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月8日
★エゴの猿知恵で願ったことが成就しても、幸福になれる保証はない。
 賢明な願望であっても、宿業に組み込まれていなければ叶うことはない。
 いかようにもがけども、成るようにしか成らないのだ。
 苦を受ける瞬間、不善業が消えて負債返しになると心得ておけば、何が起きてもよいではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月6日
★連戦連勝の勝者が謙虚に身を低め、弱者の痛みに共感するのは難しいだろう。
 もし敗者が屈辱と挫折から学ぶべきを学んだなら、傲慢な勝者よりも、人生終盤の幸福度は高いかもしれない。
 となれば、勝敗も、事の成否も、成功も失敗も等価に眺め、心を汚さず、宿業がもたらす因縁の流れに悠々と従い切っていけばよいのではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月4日
★宿業を含めた膨大な善業や不善業が、否応のない力で日々現象化してくる世界である。
 逃げようがないのだからジタバタせず、来るべきものは粛々と受け切って、新たに悪いカルマを作らないことだ。
 身近な義務をひとつ果たせば、次の義務が自ずから露わになってくる・・・。
 ダンマを見失わなければ、流されるままにどこへでも流されていけばよい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月2日
★小賢しく何を、どう計らったところで、しょせん何事も塞翁が馬、真の正解は不明なのだ。
 それ故に何も願わず、求めず、ただ必然の力に従いきって、我が身に起きたことを受け容れていく生き方もある。
 悪を避け善をなす原則さえ貫けば、あとは成り行きに任せ、流されていけばよい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月30日
★願望実現の技法は、ATMで紙幣を引き出すようなものだ。
 暗証番号を打ち込んでも、徳の残高がなければ何も出てこない。
 何事も、成就するには成就するだけのエネルギーが組み込まれていなければならない。
 愚かな願望を実現させて身を滅ぼす人達が多いのだから、無ければ無いようにやっていけばよい。
 何も願わず、ただ与えられたものを受け容れていく「無願三昧」という道もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月28日
★「求めよ、さらば与えられん」
 「祈り求めることは、既に叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるだろう」
 イエスは見事に願望実現の極意を教えている。
 「意志(チェータナー)が業を作る」因果論のセオリー通りだ。
 誰もが願望を持つが、願いが成就する者と成就しない者が生じるのは徳の差であり、業の結果である。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月26日
★自分も相手も不幸にしていく愚かな優しさは、慈悲には「智慧」が不可欠なことを暗示している。
 家族や同胞への愛を司っているのは、「優しさホルモン」と呼ばれるオキシトシンだ。
 だが、オキシトシンが強くはたらく優しい人ほど、仲間以外の他者を排除する傾向も強くなる。
 同胞への愛と同胞への愛とが激突し、戦争をしてきた人類の歴史。
 慈悲を完成させるのは智慧と、エゴの引き算である・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月24日
★狼と交流できる英国のセンターに、生まれて14年間、一言も喋らず、感情も示さず、全く無反応だった車椅子の少年が父親に連れられてきた。
 重度の身体障害者で誰とも心を通わせることのなかった息子が、狼と触れ合えば何かが起きるかもしれない・・・。
 一縷の望みを託して、父親は800kmも離れたスコットランドから車でやって来たのだ。
 車椅子の前に子どもの狼が座り、少年と見つめ合った。
 やがて狼が少年の顔を舐め始めるや、少年の目から一条の涙があふれて頬を伝った・・・。
 物言わぬ息子の心を一瞬にしてとらえ、共感の絆が作られていく光景を前に、父親の頬にも涙が流れ落ちていった・・・。

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

4月22日
★狼が、獲物の群れの中から弱者を一瞬にして見抜く能力は生存に直結している。
 同じ能力が、傷ついた群れの仲間に発揮されると、限りない優しさで寄り添っていく。
 狼の癒しの力は、時に種を超えて、人間に対しても信じがたい奇跡を起こす。
 狼の圧倒的な共感能力と洞察力に感銘を受けた・・・。

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

4月20日
★愚かな優しさは、やがて相手を不幸にする。
 正確に現状を把握する一瞬の洞察がなければ、真の共感には至らない。
 何が真の幸せかを正しく知る智慧に導かれ、慈悲のエネルギーが実を結ぶ。
 自己中心的な視座を打破するエゴレスの修行が、捨の心を確立し、慈悲の瞑想を深めていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月18日
★完全な受け身になる手術中は、サティの瞑想に徹するのが自然な流れである。
 眩いライト、目に注がれる溶液、水晶体を切り裂くレーザーの感覚、飛び交う専門用語、クリック音などが意識に触れるままにラベリングされていく。
 圧倒的に多いのは無数の思念や連想へのサティだ。
 レーザーが喚起するSF映画のシーン、執刀医を中心にしたチームワークの良さへの驚き、メスを執ると俄然カッコ良くなった先生への賛嘆、手術の成功を三宝に祈る一瞬、カルマ通りのことしか起きないという達観・・・。
 体や手足に力が入ると積極的に脱力を意識し、指示通り微動だにしないことに心がけているうちに終了した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月16日
★手術が始まればサティの瞑想をするが、抗生剤の点滴を打ちながら待機している間は慈悲の瞑想の絶好の機会だ。
 医師も看護師も患者も職員も、この医院に縁のあるすべての人々が安らかであれ、安穏であれ、健やかであれ、幸多かれ、と祈った。
 これから施術を受ける者として痛切な実感がこもり、全身の細胞が微細なバイブレーションを放つかのように高揚し、心身の秩序と環境全体とが調和し、万物万象と和合していく幻の感覚に浸った・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月14日
★数年前の健康診断で、左眼に緑内障の危険性があると言われた。
 無事だったが以来、経過観察を続けてきた。
 私の左眼は構造的に緑内障になりやすいらしく、白内障手術をするとその危険性を激減させることができるのだという。
 よく見えている目に人口レンズを入れることに違和感があったが、信頼して選んだ医者が言うのだから仕方があるまい。
 白内障は70代で80〜90%、80歳以上でほぼ100%が発症するらしいので、予防医学ということか。
 孤独な在家行者は末期の一瞬まで自立を心がけなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月12日
★白内障の手術を受け水晶体に人工レンズが入ったのは1年前だった。
 白内障になると水晶体が濁り、視界がぼやけ、霞んだり二重に見えたり視力低下が進行するという。
 私は元来、視力が良く、いまだに裸眼で1.2と1.0は見えている。
 それなのになぜ眼科医は白内障手術を勧めるのか・・・?
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月10日
★他者の視座をどれほど脳内シミュレーションしても、一人称世界での発想はエゴの範疇を出ないだろう。
 思いも寄らない発想や卓抜な視点の驚きは、対話の醍醐味であり、孤独な脳が揺さぶられ、撹乱される感動の瞬間だ。
 切磋琢磨と智慧の共有こそ、法友(カラヤナミッタ)が不可欠な所以だ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月8日
★サマーディを極めていく集中型の瞑想は、独りでも修行できるだろう。
 だが、ヴィパッサナー瞑想を孤独に深めていくのは容易ではない。
 どれほど正確に自己客観視をしても、当人には自覚されない盲点が存在する。
 一人称世界の全容を客観視するには、第三者の視点の導入と、双方向のコミュニケーションが不可欠だ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月6日
★慈悲と怒りのエネルギーが激突し合っても、今はまだかろうじて慈悲が勝つだろう。
 破壊するエネルギーが、存在をまとめる力を圧倒した瞬間、世界は崩壊する・・・。
 地上でも水の中でも、生きとし生けるものが幸せでありますように、と実現するはずのない絶望的な祈りを続けなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月4日
★生態系の頂点に立った狼の死因は、狼同士の争いが最も多い。
 放浪雄ライオンが群れを乗っ取れば、前王の幼い仔は皆殺しにされる。
 戦争やジェノサイドなど、人間ほど同類間で大規模に殺し合う者はいない。
 弱者は餌食にされ、強者は互いに滅ぼし合う。
 慈悲の瞑想が不可欠となったのには理由がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月2日
★狼ほど群れの仲間を大事にする動物はいないだろう。
 犬など及びもつかないほど、狼の愛は激烈だ。
 群れの一員を失った狼たちは、肺腑をえぐるような悲しみの遠吠えを5日ほど続けるが、帰還する望みがないと覚るやピタリと咆哮を止める。
 残された者たちで群れの再構築をするしかないのだ。
 悲嘆を引きずらないのは、無常の真理が骨身に沁みているからなのか。
 妄想を手放す潔さに鮮烈な印象を受ける・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月31日
★いつでも、どこでも、必ず自分が一番だった女性が未婚の母になる決心をした。
 その理由に、感銘を受けた。
 自分が2番になりたかった・・・。
 自分以上に愛する存在が欲しくなったのだという。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月29日
★慈悲の瞑想が終わり、最後にもう一度「私が幸せでありますように」のフレーズをやりたくなった人がいる。
 仲睦まじいパセーナディ王とマリーカ妃だったが、二人とも「自分よりもさらに愛しい他の人はいない」と告白する。
 自己嫌悪は自己愛の裏返しなのだから、もう、赦してやりなさい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月27日
★自分を嫌っている人の心から真の優しさが発露することはない。
 嫌悪も否定も、怒りの心だからだ。
 怒りは、エゴ感覚と間違った物の見方に起因する。
 我が身に起きた一切を、ありのままに承認するためにサティの瞑想がある。
 過ちを犯した自分を赦し受け容れるために懺悔の瞑想があり、赦しの瞑想がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月25日
★・・過去にどれほどのことをしてしまった者でも、心底から懺悔の瞑想をし、償いをし、ダンマを拠りどころに正しく生きることを開始すれば、やり直すことができない者などいないのだ、とアングリマーラ尊者は静かに語りかけてくる・・・。
(「月刊サティ!」2022年1月号より)
http://shingekkansati.com
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月23日
★時間と労力を捧げたのだから当然の見返りを期待し、常に対価を求め、価値あるものを手に入れようとすると、不満が多くなり、人生が苦しくなる。
 死にゆく家族を介護し、赤ちゃんに乳を飲ませ、物言わぬ植木に水をやり、コロナ禍の森林僧院に必需品を郵送する。
 ただ与えるだけの喜びがある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月21日
★人は必ず過ちを犯すものであり、ミスを皆無にすることはできない。
 ミスが発生した瞬間、冷静に事態が掌握できれば最善手が打てるし、言い訳をしないのも潔い。
 イザという時に動じないのは、自己客観視ができているからであり、物事を達観しているからだ。
 サティの瞑想がその最良の訓練・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月19日
★集中し過ぎれば周辺情報が無視され、思い込みはエスカレートし、熟達者のやり方は定番化していく。
 諸々のミスを無くすには、一瞬一瞬の経験を対象化する気づきの瞑想が不可欠だ。
 集中が破れた瞬間も、恐怖や焦りの反応の瞬間も、後続の心が客観視していく訓練・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月17日
★なぜ、瞑想をするとミスがなくなるのだろう。
 どんな瞑想にも、乱れる心を集中させていく要素が含まれている。
 一心不乱にタスクに没頭できればミスはなくなるが、上司に呼ばれても気づけないほど集中力が強すぎて悩んでいた人もいる。
 過集中は全容を見失う。
 鹿を追う猟師は山を見ず・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月15日
★殺せば殺され、盗めば盗まれ、欺けばダマされ、不倫をすれば不倫をされ、酩酊すれば全ての戒を破ってしまう。
 五戒は束縛ではない。
 五戒を守ることが、幸せへの道なのだ。
 戒を破れば心が乱れ、守戒が瞑想に不可欠な心の静寂をもたらす。
 「戒→定→慧→解脱」の流れこそ究極の自己実現・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月13日
★余計な妄想をしないで、ありのままに対象を認知し、正確に情況が把握できれば、最良の対応ができるだろう。
 誰でも、マインドフルネス瞑想を活用したくなる所以だ。
 万引きする時にも、生き物を殺害する時にも、冷静な心で仕事をしたい人は瞑想に興味を持つだろう。
 正しい気づきを「正念」、邪悪な気づきを「邪念」と言う。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月11日
★ヴィパッサナー瞑想が安全な理由は「戒→定→慧」のシステムにある。
 人は必ず過ちを犯すし、知らず知らずに罪業感や自責の念が心に降り積もる。
 それ故に、懴悔の瞑想で過去の過ちに終止符を打ち、戒を守り悪を離れた自信が心の闇を一掃する。
 倫理なきマインドフルネスは破綻するだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月9日
★ヴィパッサナー瞑想が正しく実践されている限り、危険性はない。
 ネガティブ妄想に呑み込まれた瞬間、恐怖で凍りつきパニックを起こすかもしれない。
 だが、どんな恐怖の妄想もサティが入れば対象化され、現実感覚が回帰してくるだろう。
 その瞬間、パニックが過去形になる。
 もしサティが入らなければ、「サティが入らない」とサティを入れて現実に踏みとどまるのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月7日
★睡魔や妄想と必死で戦っている瞑想に危険要素はない。
 瞑想が時に危うくなるのは、集中が異様に高まり、変性意識状態に入った時だ。
 鮮明な妄想と現実の区別が曖昧になり、心の闇に抑圧されていたものがコントロールできなくなることもあり得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月5日
★今やチベット語の読み書きができる人は3割、「脱貧困村」に移住したチベット遊牧民は、仏画の替わりに最高権力者の肖像を拝まされ、愛国者教育と共産党への忠誠心を教え込まれるという。
 世界中の無数の先住民が、言語も宗教も文化も民族性も滅ぼされ、強者に抹消されてきた。
 人類の遺産とも言うべきチベット仏教は守られなければならない・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

3月3日
★欲望も怒りも限りなく引き算し、人生苦の根本原因である渇愛(執着)を根絶しようとする仏教・・・。
 真っ向から対立する思想の中国共産党が、その仏教とチベット民族を殲滅しようとしている。
 僧院を破壊され居場所を失った不幸が一転、解脱の悲願を成就させる機縁となるように祈るしかない・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

3月1日
★原始仏教に信が定まって久しいが、かつて多くを学んだチベット密教が抹殺されるドキュメンタリーを観て慄然とした。
 中国共産党が美しい聖地ラルンガル寺を破壊し、五千人の比丘を追放、ホテルや展望台を建設した。
 なす術の無い僧侶が沈痛な面持ちで「諸行無常から理解するしかない」と呟く・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

2月27日
★英米を中心に、エゴイズムと貪欲を刺激する下品な経済原理が人心を荒廃させてきた40年だった。
 共同幻想を信仰する旧来の宗教から科学技術やインターネットに拠りどころを求めようとする人が増大したのも時代の趨勢かもしれない。
 だが、宗教よりもSNSやネットの影響が大きくなるにつれ倫理を育む場が衰退し、ネットの無法地帯では邪悪な発想が過激化していく。
 今こそ倫理や慈悲心が強調されなければならない。
 幻の神が定めた律法ではなく、悪因悪果・善因善果の因果律に基づく五戒が指針とされるべきだ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月25日
★入院中の日々を、瞑想リトリートに入ったつもりで修行に専念された方がいた。
 襲来する痛みに脂汗を流しながらサティ入れていたが、やがて撃沈。
 それでも1Day合宿で何度も修行した喫茶や食事の瞑想だけはできることに驚いた。
 脳回路の形成が感じられ、進まない瞑想への疑惑が晴れたという・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月23日
★仏法僧への三帰依は、信仰心の発露であり、瞑想中の安心感の拠りどころでもあり、我執と傲慢さを手放す修行でもある。
 瞑想が深まった変性意識状態になると、抑制系の心も自我感覚も弱まってくる。
 潜在意識のネガティブな情報が浮上しやすくもなるので、瞑想中は常に守られている感覚が重要となる。
 自宅の聖なる一角にブッダの写真や絵葉書を飾り、線香の1本も立て、三帰依をして瞑想するのも良いだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月21日
★なぜ瞑想しようとしたのか? その切っ掛けは? と問われると、人生の諸々の苦に遭遇したからと答える人が多い。
 幸せなら遊びに行き、苦しいと瞑想会に行きたくなるらしい。
 悩ましい問題に一定の解決を与えないと、瞑想にならない。
 どうしたらよいかの仏教的解決の特徴は、心の清浄道と完全に合致する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月19日
★人生の晩年を迎えて意外だったのは、死ぬのが楽しみになったことだ。
 輪廻転生の仏教的メカニズムが、いよいよ自身の経験で検証できるのだ。
 何よりも体験を重視する者が、死の瞬間、再生の構造、瞑想や解脱との関係性など、知識だけで語ってきたのは不本意極まりなかった。
 本当はどうなのか・・、冷静に、ありのままに、見届けたい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月17日
★昔、戒律を「virtue(徳)」と英訳している本を読み感銘を受けた。
 戒は禁止事項の寄せ集めなどではなく、人格全体を整える修行と理解すべきなのだ。
 劣等感はエゴに執着しているからであり、ネガティブな固定観念は怒りを持続させている無明に起因する。
 心の反応パターンを全面的に浄化していくことが、戒の修行と心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………
2月15日
★暗算中に劣等感が刺激されると、計算を司る頭頂葉と前頭葉の活動量が増え、さらに感情をコントロールしている領域も活性化する。
 余計な仕事が増え、問題を解くのにより多くの努力が必要になるという。
 良い瞑想をするためには、まずネガティブな固定観念や劣等感を手放しておかなければならない。
 シーンと心が澄みきっていくのを妨害するのは、意識下で暗躍する黒いエネルギー・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月13日
★「人々は因縁があって天界の善趣におもむき、因縁があって地獄や餓鬼の悪趣におもむき、因縁があって涅槃に入る。何事も因縁に基づいている」
 とブッダは言う。
 過去世で織り成された因縁によりおおむね勝負はついているが、今世での努力精進はどの程度の影響を及ぼすのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月11日
★見るべきほどのことは見たので、もはやこの世の事に未練はない。
 瞑想指導とダンマトークへのこだわりが最後まで残ったが、今はそれも手放すことができた。
 与えられたタスクには全力で取り組むが、捨(ウペッカー)の心で流れに身を任せているだけである。
 エゴを天に明け渡し、空っぽになりきって事に臨むことができれば、結果に一喜一憂することはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月9日
★若い頃から、今、この一瞬に完全燃焼できる日々を切望してきた。
 毎回、これが最後の執筆、最後のダンマトークと思えるようになったのは、人生の第4コーナーを過ぎてからだった。
 余力を残さず、全てを出し尽くすと、今が人生最高!の眩い感覚が訪れる。
 そのように瞑想修行にも取り組んではいるが、クオリティは毎回微妙に異なり、諸々の因縁の然らしむ展開に従いきっていくしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月7日
★見事な腕前の理髪師に出会い、散髪も掛けがえのない人生の瞬間だと感じ入った。
 自信に満ちた明朗な接客態度、判断の早さ、迷いの無さ、絶妙なカットの丁寧さと速度感、流れるような優美な手さばき・・・。
 田舎町の場末の理髪店で、行きずりの客に最高の自分を出し切っている姿に感銘を受けた。
 完全燃焼している潔い仕事人の客になった僥倖を感じながら慈悲の瞑想をしていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月5日
★誰もが必死で努力するが、夢が叶う人もいれば、叶わない人もいる。
 あらゆる事象が諸々の因縁により生滅する世界である。
 突発的な出来事や時代の流れに不思議に助けられる人もいれば、ことごとく阻まれる人もいる。
 個人の努力精進だけではいかんともし難いのであれば、成否は天が与えたものとしてありのままに受け容れる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月3日
★夢が叶い、欲が満たされると、ワクワクしながら快感を求めていたドーパミン(渇愛ホルモン)の仕事は終わる。
 繰り返してもつまらなくなり、不満足性という名のドゥッカ(苦)が始まる。
 欲望の奴隷状態から解放され、固執していた怒りや恨みを手放していくことが真の幸福ではないかと示唆する仏教・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月1日
★瞑想中に閃いたアイデアのメモを取ってよいか、と多くの人に質問されてきた。
 雑念が消え心が静まると仕事のアイデアが閃く→メモを取る→また閃く→メモ→・・・。
 この世の実利性に結びつく閃きに執着している限り、仕事に成功しても、苦から解放されないだろう。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月30日
★邪悪な言動で害毒を垂れ流している者には罰を与え、排除すべきだろうか。
 苦を与えれば必ず同じ苦を受ける因果法則を理解できない無知の悲しさ・・・。
 弱い者をいじめ、邪悪なことをしたくなる心はどのような経緯で育まれ、その要因はいかばかりだったろうか。
 悪しき宿業の展開に否応なく暗転していった流れに「悲」の瞑想を・・・!
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月28日
★狐もライオンも単細胞の粘菌にすら記憶能力がある。
 だが、過ぎ去ったことをくよくよ思い出し、明日を思い煩って苦しむのは人類だけだ。
 どんな生命も余計な妄想をしないで、一瞬一瞬の今を生きている。
 必死で妄想を止め、いちいち今の瞬間に気づく、そんな瞑想をしなければ苦の泥沼に堕ちていく万物の霊長・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月26日
★人は過ぎ去ったことで苦しみ、思い通りにならないことで苦しむ。
 恨みに、後悔に、劣等感に、自己嫌悪に、腹を立て、否定し、新たな怒り系の不善業を作り続けてしまう。
 一切の苦を乗り超えるために、ネガティブなものを受け容れる行法として、「懺悔と赦しの瞑想」がある。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月24日
★他の生命を貪り食って、自分の命を長らえる。
 生きていくだけでカルマが悪くなる。
 ・・・そんな弱肉強食の世界を誰が作ったのだ。
 笑う者がいれば必ず泣く者がいる一切皆苦の構造。
 笑う勝者も老いの苦に襲われ、死が迫れば恐怖する。
 解脱しないかぎり、死ねば必ず再生し、果てしなく苦海を、忍土を、輪廻転生し続けるドゥッカ(苦)・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月22日
★太陽系もいずれ終焉するし、世の終わりが到来するのは確定的だ。
 追いつめられた独裁者が「死ねば諸共!」と核のボタンを押せば、来週にも人類滅亡の日が訪れる・・・。
 仏国土がこの世に現れることも構造的にあり得ない。
 善・不善の業に押しやられ、一切皆苦の世界を浮き沈みしながら輪廻していくのが人類だ。
 苦と苦から解脱する道しかないと心得る人はわずか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月20日
★時間と労力を失った原因は、人の時間と労力を奪ってきたからだ。
 テープ起こしなどのボランティアをしてくれた方々の労作が、法施(情報系の善行)の仕事として完結することなくお蔵入りになっているケースが多々ある。
 膨大な時間と労力が虚しく費消された状態になっている責任を感じている。
 まあ、原因はこの辺だろう・・・と見当をつけている。
 全力投球でした一日分の仕事が水泡に帰す苦(ドゥッカ)は相当なものだが、怒りや嫌悪は微塵も起きない。
 奪う者は奪われる法則を熟知しているからである。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月18日
★合宿の面接記録を保存しようとフォルダーにポインターが触れた瞬間、誤作動があり、全てのファイルが消失した。
 自動バックアップされないテキスト・ファイルで仕事をしていた。
 終了直前にPCがフリーズして、執筆した一日分の原稿が一瞬にして水泡に帰したこともある。
 数えきれないほど、何度もあった。
 なぜ、そんなに・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月16日
★仏教の業論の理解が深まれば、日々経験される出来事がなぜ起きたのか、原因を読み解くこともできる。
 殺す者は殺され、愛する者は愛され、罵る者は罵られ、賞賛する者は賞賛される。
 金品も労働も情報も、奪う者は奪われ、与える者は与えられる法則性・・・。
 苦の現象が襲来しても、その原因が推定できれば、淡々と受け容れやすくなるだろう。
 さらに、今日どんな善をなしたか、悪をなしたかによって、未来に経験される苦楽が予想できる。
 いかなる事象に対しても平然と、ありのままに、「捨(ウペッカー)」の心で見送っていく瞑想の礎になる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………
1月14日
★「時は過ぎ去り、昼夜は移り行く。
 青春の美しさは、次第に我らを捨てて行く。
 死についてのこの恐ろしさを注視して、安楽をもたらす善行をなせ」
 と、欲界の神が言う。
 幸福は虚しく変滅するではないか。
 安楽ではなく「世間の利欲を捨てて、静けさを目指せ」と、ブッダは涅槃に導く・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月12日
★ブッダが悟った真理は、「世の流れに逆らうものであり、貪りと瞋りに悩まされた人々には見ることができない」。
 それ故に「誰にも理解されない教えを説くのは虚しい」とブッダは沈黙する決意をしていた。
 煩悩を否定する反自然・反生命の教えが、よくぞ現代にまで命脈を保ち得たものだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月10日
★見下された!侮られた!と激怒するのは、エゴ意識が強く、人と比べる妄想に囚われているからだ。
 因縁を正しく把握している者は、我が身に起きる一切を業の結果と心得ているので怒らない。
 運が良くても悪くても、何が起きようが起きまいが、我執と慢を手放す瞑想をすれば、人生は苦しくない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月8日
★一般論的な法話を聞法しても、瞑想修行や人生の現場に直結するか定かではない。
 才能も資質もメンタルな情況も妨害要因も千差万別だからだ。
 瞑想修行には個人指導の面談が不可欠であり、ブッダが対機説法をされた所以でもある。
 「悟りが開けるか否かは、聞法の態度と修行レポートの仕方によって見破れる・・・」と言ったミャンマーのサヤドウもいる。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月6日
★翳りのない、素直で、聡明な若者に出会うと、ダンマの情報を吸収していく柔軟さと瑞々しさが眩いばかりに輝いている。
 同年代だった頃の私は、己の過去に憤りを覚え、破滅的な頽廃の美学を追求していた。
 暗く、悲惨な経験が集積され、苦の真理に打ちのめされた泥だらけの青春だった。
 遥かな回り道をしてしまったが、今は、それが宝となって輝きを放っている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月4日
★初めて取り組んだ瞑想がヴィパッサナーだった若者もいる。
 さまざまな宗教や行法を遍歴した挙句の果てに、やっと原始仏教にたどり着く者もいる。
 私の修行時代は、禊の水垢離と祝詞で一日が始まり、朝は仏典を読み、夜は荘子を熟読、ヨーガ・スートラを典拠にサマーディの完成を目指すサマタ瞑想に没頭していた。
 なんとなく出会った教えや修行法のようだが、実は大いなる因縁の流れに然らしめられているのだ。
 偶然とは、複雑系の必然である・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月2日
★一瞬一瞬、心に生滅する感情と思考がその人そのものであり、当然表情にも現れる。
 瞑想修行によってネガティブな思考が一掃されれば、凶悪な人相が白面の貴公子に変貌するのも当然だろう。
 己の心を観察し洞察智が閃くヴィパッサナー瞑想の実践は、心を根本から変えていくことができる。
 対象と合一し煩悩を一時的に遮断するサマタ瞑想では、禅定(サマーディ)を解けば元の木阿弥・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月31日
★雨安居が明けぬ前に帰国する私は、寺を去る前日、男のクーティを訪ねた。
 着替えを持たないらしい男の服装やサンダルが日増しにみすぼらしくなっていくのが気の毒だった。
 差し出がましかったが、敢えて申し出た。
 「私は明日、帰国します。大変失礼だが、自分の日用品や衣類、サンダルなどを受け取って頂けないだろうか」
 「喜んで」と答えた男の眼があまりにも澄み切っているのに驚嘆し、瞑想はこれほどまでに人の顔を変えるのかと心が震えた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月29日
★雨安居の3ヶ月間、修行者は全員同じ瞑想堂で歩く瞑想と座る瞑想を繰り返す。
 その男はぎこちなく修行を始めたが、型通りに黙々と歩き、愚直に座る姿が思いのほかだった。
 着の身着のままのTシャツとロンジーが日増しに薄汚れていくのに反し、男の凶悪な印象は霧消し、黒かった顔が白くなり、どんよりした眼が澄み始めた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月27日
★ヴィパッサナー瞑想のリトリートでは、どこの僧院でも沈黙行が布かれている。
 瞑想者は互いに挨拶も会話も目線も合わさず、終日ひたすらサティを入れ続ける。
 ある日、ラテン系の顔立ちをした西洋人が瞑想堂に現れ、修行者の一員に加わった。
 暗く、凶悪な人相が印象的だった。
 ミャンマーの僧院に逃げ込んで来た犯罪者が連想された・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月25日
★知的理解だけで満足し、修行の実践を軽んじてはならない、と分かっちゃいるけど変われないのは、本当には解っていないからだ。
 痛い目に遭わない限り、人は惰性に流されていく。
 苦の真理を目の当たりにするまで、苦の原因の真理も、苦の終滅の真理も、苦を乗り超える八つの正しい道も、知るべくもない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月23日
★丸ごとの自分を無条件に受け容れてくれる絶対的存在が想定された安心感と畏怖が、いかなる民族も独自の神を作り出してきた所以ではないか。
 その神仏に全てを委ね、加護を願い、無条件に従っていく信仰の構造は、三宝帰依とは似て非なるものだ。
 人間ブッダが説き示した理法を人生の指針とする表明・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月21日
★不善業が怒涛のように溢れ出て、やることなすこと全て破綻し、完膚なきまでに打ちのめされ、失意のどん底に叩き落されることもある。
 自信もプライドも矜持も何もかもへし折られた絶望の果てに、至高の存在にエゴが明け渡されていく定めの人達。
 三宝に帰依し、神にひれ伏す回心の瞬間・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月19日
★1Day合宿にいきなりハイレベルな初心者が現れ、古参のリピーター達が顔色を失うことも珍しくない。
 芸術もスポーツも瞑想も、天賦の才能とは、修行時間と密度が集積された修練の賜物であり、偶発的な遺伝子の悪戯などではない。
 誕生時の身体的条件や才能が千差万別なのも、遠大な輪廻転生の流れから理解される・・・。
 あまりにも不平等な人生のスタートは、巨視的に眺めれば、公平である。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月17日
★最初の食事が遅くなったので、その夜は何も食べずに早めに寝る予定でいた。
 頭が冴えている限り瞑想や執筆を続けるが、枯渇したので入浴し、就寝前の瞑想をした。
 なぜか眠気は訪れず、意識が透明になり、思いがけず瞑想が深まった。
 食事→体調→意識の透明度→瞑想の深化・・・という法則性。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月15日
★約7万年前に言語野が追加されたホモ・サピエンスの知性は爆発的に飛躍したが、邪悪な妄想をする能力もセットだった。
 1万2千年前に農業が始まるや、収穫の保存→富の蓄積→貧富の差→欲望の肥大化→エゴ意識の強化→邪悪さの露呈と激化→と、人類は悪化の一途をたどり始めた・・・。
 文明化と軌を一にして、中国に、インドに、ユダヤに、世界各地に、暴れ回る煩悩を抑止する戒律と道徳を説く宗教が勃興したのは必然の流れだった。
 少数派だったが、煩悩が生まれる母胎の思考プロセスを止め、煩悩そのものを滅尽させる瞑想修行に着手する者たちも現れた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月13日
★20万年前に妄想する能力を得たホモ・サピエンスは、どんな民族も独自の神を作った。
 神に絶対的な万能性が付与されるのは、弱く卑小な人類にとって理想だったからだろう。
 エゴ妄想が限りなく肥大した究極の神を装置として集団をまとめ、戦争をしてきた人類の歴史・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月11日
★神や仏と一体になった感覚は素晴らしい。
 宇宙の無限性や絶対的な梵との合一は、さらに深い崇高な感覚をもたらすだろう。
 涅槃のイメージと融合するサマーディなら、さらに究極の印象が得られるかもしれない。
 至高の存在と一つになれば、エゴが限りなく弱められていく。
 問題は、どんなサマーディも必ず破れて、日常意識が回帰してくることだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月9日
★もし初心者が外国で瞑想修行に入る機会を得たら、全員が瞑想堂で修行する形式の寺が望ましい。
 独居型のクーティではいくらでも怠けられるし、自分を律するのが難しい。
 大勢の中から実力のある上級者を見つけ、その真剣さ、立ち居振る舞い、瞑想に没入している姿を手本にするとよい。
 また、人の目は精進のエネルギーを高めてくれる。
 「見られる力」が己に恥じない修行の原動力になる。
 だが、ライバル心やプライド、慢の問題が浮上すれば諸刃の剣となる。
 常によく気をつけて、無常に変化し推移する現状の一瞬を捉えていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月7日
★善であれ不善であれ、何事もエスカレートしながら、人は同類の業を無数に作ってしまうものだ。
 嫌な人や不快な出来事に遭遇した瞬間、苦受を覚えるのは不善業の結果だが、同じ強さの刺激では慣れの現象が生じて不感症になってくる。
 前よりも激烈でないと、苦を受ける意味が失われてしまう。
 厳しい「教師」が現れ、いちだんと苛酷な修行が課されていく所以だろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月5日
★相手のレベルに降りていき、言葉でやり込めたくなってしまったのは何故か・・・。
 口の悪かったかつての自分を罰したい衝動だったのかもしれない。
 自己嫌悪が投影された眼前の毒舌家を言葉で叩きのめし、責め裁きたい衝動・・・。
 絶対に毒舌は止める!必ず乗り超える!と改めて誓う。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月3日
★昔から口が悪く、言葉の不善業を重ねてきたが、原始仏教に出会い、慎もうと固く決意した。
 懸命に正語を心がけてきたが、私に輪をかけて口の悪い人に遭遇したとき、抑えてきた悪舌のスイッチが入ってしまった。
 ハードルを一つ超えると、さらに厳しい「教師」が現れ、修行の苛酷さが増す法則・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月1日
★瞑想を止めてしまうと、どうなるだろう。
 思考モードを離れて、あるがままに観る訓練時間が消えてしまう。
 四六時中、事実を解釈した脳内世界、概念ワールドに浸り続ける。
 エゴ妄想から煩悩が垂れ流され、不善業が集積されていくのに無自覚になる。
 痛い目に遭っても逆恨みする自滅の危険性が増す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月29日
★床に就くと必ず1分以内に入眠するが、まれに眠気が到来しない夜もある。
 これ幸いと、仰臥したままオーソドックスな瞑想をする。
 全身の筋肉の力を抜いていく「脱力」に集中することもある。
 手足の指から目蓋や耳たぶに至る身体各部を意識しながら「脱力・・、だつりょく・・、ダツリョク・・・」と力を抜いていくうちに眠りに落ちる。
 瞑想も、全身の脱力を意識した瞬間から深まっていく傾向が睡眠計の数値に示されている。
 唯一の違いは、明晰な意識が保持されているか否か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月27日
★この世的な執着を手放していくテーラワーダの寺では、ヨーガは健康志向と見なされ、苦行である断食は禁止扱いされている印象を受けた。
 だが、3ヶ月に及ぶ雨安居のようなリトリートになれば、身を調え、息を調え、心を調える流れが理にかなっているのではないか。
 その信条を貫いて修行してきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月25日
★短期の瞑想合宿では、ヨーガやストレッチなど体操系の健康法は原則禁止にしている。
 体を整えずして、良い瞑想はできない。
 正論である。
 だがそれ以上に、心身のどんなネガティブな状態にもサティを入れ、苦受を苦受、不快を不快と、ありのままに観じきっていく精神の体得を優先すべきである。
 業の結果として襲来したドゥッカ(苦)は耐え忍ぶしかない。
 いかなる苦境に陥っても心を乱さず、悠然と受け切ってドゥッカ(苦)を寄せつけない境地の練習と心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月23日
★ユーチューブの朗読シリーズは、2021年8月21日にアップした【瞑想のことば5 慈悲の波動】以降、以下のURLにチャネルを独立させた。→
https://youtube.com/watch?v=PfBNUytRp5M
 現在、【瞑想のことば11 瞑想に対する執着と渇愛】まで視聴できる。
 スタッフの録音環境が復旧したら、新作をアップロードしていきたい。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月21日
★瞑想中にエネルギーが切れたので、祈りと慈悲の瞑想で終了した。
 その間、睡眠計の記録は「レム睡眠(急速眼球運動)」だった。
 ヘミシンクを使った特殊な瞑想をしている人が、私と同じ睡眠計で30分計測してみた。
 最初から最後まで「覚醒」だったという。
 解明するには、脳波計も必要か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月19日
★ブッダの時代には、禅定に入って睡眠の替わりにしていた仏弟子達が数多くいる。
 「坐睡」と言う。
 私もかつて無相三昧に没入すると「明晰な意識が保持された完全な熟睡」だと感じたことがあった。
 アヌルッダ尊者は55年間も横臥せず、その坐睡を続けたという。
 度肝を抜かれた。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月17日
★座る瞑想中に眠気を感じたので、仰臥して10分間眠り、再び座る瞑想を続けてみた。
 質の悪い瞑想→午睡→瞑想再開までの睡眠計は一貫して浅い睡眠N1を示していた。
 その後、瞑想が深まるとN3→N4のノンレム睡眠が示された。
 同じパターンが繰り返されるのを何度も検証し、瞑想が睡眠の代替えになる確信を深めた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月15日
★阿羅漢果を得て解脱しない限り、人は必ず再生してしまう。
 死に際にさしたる業が作られず、生涯に多用した反応系の心も出現しなければ、死に往く人の脳裏に浮かんだイメージ(趣相)が再生を決めることもある。
 死の瞬間まで、よく気をつけて、一瞬の妄想も見張らなければならない所以だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月13日
★死のレッスンは、まず死の恐怖を除去しなければならない。
 得体の知れない不安が、妄想を化け物のように肥大させるからだ。
 仏教では、死ぬ瞬間の心が浄か不浄かによって、再生の最初の瞬間が決定すると考えられている。
 最期の一瞬まで、心を汚さぬよう、明晰なサティを維持すべき所以だ。
 冷静に、マインドフルに死んでいくための瞑想修行・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月11日
★朝カルのオンライン講座に85歳♂の方が登場し、久方ぶりの再会に胸を打たれた。
 瞑想を教え始めた最初期の修行者で、20数年来、グリーンヒルの瞑想合宿で真剣に悟りを求めてきた方だった。
 今や歩行が困難になり、瞑想が全くできなくなったという。
 人生最期の修行は、解脱が無理なら、いかに浄らかな心で再生するかに絞られる。
 死のレッスンをしていこうと伝えた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月9日
★長年歩き慣れた地下道なのに、なぜこの日に限って集中が深まったのか・・・。
 @Offの日だったので、朝カル講座の前後に多発する妄想が皆無だった。
 APC店の見事な神対応に感謝と慈悲の祈りを捧げたばかりで、心が爽やかだった。
 B体調が良く、透明なエネルギーに満ちた絶妙の時間帯だった。
 CMBT靴には最適のフラットな路面が長く一直線に続いていた。
 D何よりも、思わず瞑想をしたくなる自発的な意欲が湧き上がってきていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月7日
★夜の田舎の裏道で人に会うことはない。
 室内と同じ密度の歩きの瞑想が可能だが、東京の特に新宿ではそうはいかない。
 しかるに、新宿駅西口地下の雑踏で歩く瞑想が異様に深まったのは意外だった。
 黙々と足早に流れる人流を心に侵入させることなく、六門を見張る意識だけが地上170cmの高度を保って真っ直ぐに進んでいた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月5日
★【Sleepon】の睡眠計がバージョンアップされ、肝心の睡眠段階グラフがひどく改悪されてしまった。
 幸い私は、自動更新されない設定だったので難を免れた。
 ところが先日、お知らせ情報をミスタッチした瞬間、バージョンアップされてしまった!
 瞑想中の意識状態をモニターすることが不可能になった。
 無常を感じ、業の結果を感じた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月3日
★通常の睡眠で最も深いN4がほとんど得られなかった日でも、瞑想開始後すぐにN4に突入したこともある。
 集中が破れてくるとN1やN2の浅眠になり、持ち直せばN3〜N4の深眠に戻る。
 瞑想がどう展開したかを後日スマホで確認する指標にもなり得るし、瞑想が睡眠を補完している確信にも繋がった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月1日
★驚いたのは、瞑想中の心身の状態が完全に睡眠として記録されることだ。
 例えば、最初の三帰依の祈りは「覚醒」、その後の瞑想の展開は「浅眠N1&N2〜深眠N3&N4」として計測されていく。
 体感、妄想の有無、瞑想の深まりが明晰に自覚されているのに、質的には睡眠としてグラフ化されているのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月30日
★この睡眠計で17日間計測してみたが、午睡と本睡眠に質的な差異は何もなかった。
 例えば、20分午睡したとすると、その75%が最も深いN4のノンレム睡眠だったことが何度もある。
 これまで感じてきた午睡後の爽快感と充実感の根拠が数値化されて確かめられたように思われる。
 本睡眠が短くても、瞑想と午睡の足し算で補えるのではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月28日
★私の関心事は、@瞑想は睡眠の代替になるか、A午睡と本睡眠は質的に異なるか、の2点だった。
 リング型睡眠計(Sleepon)を使うと、REM睡眠・浅眠・深眠・心拍・呼吸・体動の強弱などが分刻みで計測できる。
 短い午睡と瞑想中に必ず睡眠計を付けてモニターした結果、思わぬ事実が分ってきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月26日
★どこの寺でも、なぜ瞑想の深い人は睡眠時間が短いのか、昔から謎だった。
 私の睡眠は4時間半弱だが、必ず10〜20分前後の短い午睡を摂る。
 それがいかに強力か、科学的に解明したいのだが、スマートウォッチや睡眠アプリは精度が不均質で当てにならない。
 だが最近、やっと謎が解け始めた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月24日
★暴発する妄想に気づいて正確に撃ち落としていくエネルギーは枯渇していても、単純な数のカウントぐらい難なくできる。
 その結果、妄想に巻き込まれていく心に水が差され、歩行感覚を実感する余裕が生まれるのだ。
 数のカウントを自覚することは、微弱な妄想が簡単に見送られていくのと変わらない。
 こうして、ギブアップしていたサティが甦ってきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月22日
★歩行瞑想の帰途、低血糖気味になると、途端にサティが乱れてくる。
 瞑想にならないので、数を数えながら歩数計アプリの精度を検証した。
 すると、数のカウントが妄想の出現を激減させ、全身の感覚にきれいにサティが入り始めた。
 感覚に概念を重ねる数息観を否定してきたが、満更でもない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月20日
★一所懸命、淡々と、成すべきことをなしながら、因縁の流れに従いきっていくしかないと心得ているつもりだった。
 だがある日、久しぶりに修行が進んだと感じられた瞬間、喜びが湧き上がり、身も心も軽くなった。
 それで逆に、自分に重圧をかけながら修行に執着していたのではないかと気づかれた。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月18日
★何をもって、瞑想が進んだと判断すればよいだろうか。
 集中力が増し、サティが長く持続されるようになれば、技術面での進歩があったと言える。
 さらに重要なのは、煩悩に汚染された認識世界が以前よりも浄らかになったと自覚され、またそのような他者評価が得られることだ。
 他人の視座や先達の観点を学ばずに孤独な修行を続けていると、主観的な印象に終始しがちである。
 瞑想会で切磋琢磨し、新たな知見を得ていく意義もそこにある。
 次回のオンライン講座は、10/24(月)19時〜20時30分。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月16日
★閑散とした夜道では、速歩でも、超スローの歩行と遜色のない修行になる。
 一本の棒のように体幹を固定し、踵から着地した体重が親指へ移動するのを意識し、左右の足を正確に前方に送り出す。
 正しい正確な歩行を心がけると、全身の筋肉の動きがマインドフルに意識される。
 満月の夜更けの川沿いを歩行マシーンのように進んでいくと、禅定感が深まり、喜(ピィティ)が生じてきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月14日
★外歩きの瞑想は、環境要因に大きく左右される。
 車の走行量が多い道路では、いくらガードレールで防護されていても、危険回避の意識が自動的に優先されてしまう。
 猥雑な喧噪にさらされている時には、大雑把な現状把握ができれば良しとする。
 常に「今、私は、何をしているか?」と自問する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月12日
★毎夜1時間、速歩で歩きの瞑想をする。
 頭部がブレないように遠方の一点に視線を固定し、背筋をピンと直立させ、着地の瞬間、一直線に伸ばした膝の真上に体重を載せていく。
 歩行感覚への集中が続けば「体感」とラベリングしていくが、中心対象を定めない六門開放型のサティを採用している・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月10日
★衣食住の全て、生活の一切を生涯に渡って施与されるだけの徳がない者には出家はできない。
 修行に専念できさえすれば、供養されるよりも供養する側で波羅蜜を積んでいく方が不徳の身には似つかわしい。
 断食もヨーガも脳科学も、誰に憚ることもなく自由に試み研究できる道を選んで久しいのは、それが本心から望んでいた形だったのだろう・・・。
 自覚しようがしまいが、人は強く望んだ意志を具現化しながら業の世界を生きていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月8日
★出家の諸々の制約に抵抗を感じてもいた。
 瞑想を進ませる秘訣は体調を整えることだが、消化能力の弱い私に不可欠だった断食もヨーガも禁止、午後食不可の戒律では超小食も難しい。
 乞食の日々となれば、サプリメントや栄養学での調整もままならぬだろう。
 経文の暗記も、チャンティング(読誦)も、僧侶の儀礼的な一切に興味がなく、エッセンスの洞察と修行の実践にしか情熱が持てなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月6日
★タイの僧院で、雨安居だけの出家を願い出たこともあった。
 「比丘には諸々の務めがある。お前のように瞑想だけをやりたい者は在家の方がよい」と断られた。
 そのはるか以前にも、同じことを大乗仏教の住職に言われた。
 「修行に専念するなら、在家の方が存分にやれるのではないか・・・」
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月4日
★一般の比丘もこの僧院に入山するには、より厳しい戒律で再出家し、解脱するまで叢林を離れない誓約をするのだという。
 将来の出家の是非を打診すると、「私はあなたを既に受け容れている」との、かたじけない長老の返答だった。
 気がはやったが、支えてくれた方々への恩返しも老親の介護も無視できぬまま、歳月が流れてしまった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月2日
★長年の瞑想上の疑問を長老に質問すると、その夜はあてがわれたクーティで瞑想をして寝た。
 夜半、凄まじい獣の吠え声で目を覚ました。
 すぐ近くの暗闇で、複数の獣が大音量の吠え声を轟かせるのに慄然とした。
 翌朝外に出ると、真っ黒い顔の吠え猿が高木の茂みから再び威嚇の咆哮を上げた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月30日
★スリランカの森林僧院ほど、この世から隔絶した寺はなかった。
 在家者は立入禁止、当然私も門前払いされたが、懐中からニャーニャナンダ長老の私信を取り出すと、入山を許された。
 出家するならここ、と決めていたが、その長老も、縁のあった先生も既に遷化されていたことを知り、感慨を覚えた。
 人生には、潮時がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月28日
★ヴィパッサナー瞑想で劇的に変わっても、決意が弱まれば、深層の心が露わになるだろう。
 元の木阿弥か・・・と訝る所以だ。
 過去世から持ち越した「有分心」が今世で変わることはない。
 遺伝子に組み込まれた情報も、環境要因などによって読み出しが妨げられたり促進されたりする。
 「DNAメチル化」という。
 揺るぎない決意を来世に繋いでいく遠大で巨視的な修行プログラム・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月26日
★現状を否定し、劇的な自己変革を目指しても、遺伝情報や宿業の力を削除したり初期化することはできない。
 万物万象は無常ゆえに、心も人生の流れも必ず変わっていくが、形成するのに要したのと同量のエネルギーを逆向きに放たなければならない原則。
 変身願望に駆り立てた要因を分析し、自己嫌悪に気づき、自己否定感覚を自覚することから始める・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月24日
★美点も欠点も、白も黒も、善業も罪業も、等価に観ていくのがヴィパッサナー瞑想である。
 だが、自分の失敗や愚かさ、至らなさ、ネガティブな側面にばかり目が行ってしまうのが修行現場だ。
 暗転していく瞬間にもサティを入れながら、心の便所掃除を持続していく「忍耐」の修行・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月22日
★仏教の業論に眼を叩かれるまで、この世の不条理に憤っていた。
 愚か者に出遭ってしまうのは己の不善業の結果、などと微塵も思わなかった。
 謎が解けてみれば、この世は因果が正確に帰結していく公平な世界だった。
 苦しい人生だったのも当然である。
 一瞬の幸福を貪り、苦を受ける度に逆ギレし、因果の鎖に自ら縛られていたのだから・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月20日
★幼い頃は世界が暗闇になる夜が怖く、人情にも男女の機微にも疎い青春時代も苦しく、己の宿業と身の丈が分からぬ壮年期も苦しかった。
 人生の終わりが見えてくると、苦の原因が渇愛であり、その執着の根本が無明であることも明らかになる。
 死と輪廻転生の構造も視野に収まった今が、最高・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月18日
★少年の頃、男が「愛してるよ」と言い、女が「嘘でも、嬉しいわ」と答える洋画を観て、訳が分からなかった。
 後年、仏教の瞑想修行をし、人の認知システムは、法としての真実が見られない構造だと覚った。
 愛の告白も誹謗中傷も絶賛も、エゴの脳内妄想なのだから、何でも言わせておけばよい。
 法のみを拠りどころとし、この世のことは達観する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月16日
★拙著「瞑想のフシギな力」(王様文庫)紙版の書店在庫が売り切れた時点で「品切れ重版未定商品」扱いになると通告された。
 1年経ったが、ネットで検索する限り中古は入手可能のようだ。
 「ブッダの瞑想法」で書き足りなかった<反応系の心の修行>を中心に執筆した重要な本だった。
 電子書籍版は継続販売されている。
 私自身メールも電子書籍も諸々の原稿も聴読が中心だが、本気で読む時には紙版が不可欠だ。
 眼光紙背に徹する読み込む深さは、どんなツールも「本」には及ばない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月14日
★ICUに搬送され、吐き気と激痛で悶々としていたが、サティを入れて凌いでいた・・とメールが来た。
 数年前、人生最大の不幸に襲われ、さしもの彼も半狂乱になるのではないかと案じたことがあった。
 しかるに、淡々と受け切っていく姿に接し、彼の瞑想修行と仏教の学びは本物だったと感嘆したのを思い出した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月10日
★スタッフを襲った病魔は大動脈解離と判明した。
 2本の大動脈の壁に亀裂が入り、腹部まで大きく裂けていたという。
 生きていてくれ!助かってくれ・・と祈り続けたが、命を長らえることができたのは、ひとえに当人の善業の故である。
 土壇場で自分を救ってくれるのは、自分が蒔いた善業の種だけである。
 もし誰かが救済の手を差し伸べてくれたなら、それは、かつて人に救いの手を差し伸べた業が異熟(因果の帰結)したからだと心得る。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月8日
★業論も、輪廻転生も、死ぬ瞬間の心構えも、熟知している方だった。
 もし助からなくても、戒を守り徳を積みきれいに生きてキたのだから、必ず善き再生をするはずだ。
 訃報があれば直ちに心を切り換えると覚悟を定めていたが、幸い一命を取り止め、深く安堵した。
 死なないで良かった。本当に良かった、とあの時ほど深く三宝に感謝の祈りを捧げたことはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月6日
★グリーンヒル・スタッフの大黒柱が突然倒れて1年が経った。
 入浴直後、胸部にただならぬ問題が生じたのを感じ、自ら救急車を呼び、集中治療室で絶対安静となった。
 HPも出版もYouTubeも、グリーンヒルのマネージメント一切を荷ってくれていた方だった。
 まだ何も恩返しをしていないではないか。
 死なないでくれ、助かってくれ・・と、痛切な祈りを捧げ続けたのを思い出す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月4日
★修行時代の昔のことだが、「外国人なんかに、ダンマ(法)など解るわけがない・・」と当てつけるように呟いたタイ人修行者がいた。
 いや、『口惜しいことに、私にはダンマが解らない』と言い換えるべきではないかと思ったが、黙っていた。
 真実は見られないのだ。・・悟っていない者には。
 凡夫が何を言おうが、捨ておけばよい。 
 断固としてサティを入れ続け、己のなかに顕わになるダンマが視られれば、自己完結するだろう。
 「他人を拠りどころとせず、(ダンマが顕わになった)自らを拠りどころとせよ・・」とブッダは言う。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月2日
★他者の判断が、神のように真実を見抜き、こちらの実状や実態に公正な評価を下しているならば、気にかけるのもよいだろう。
 だが、妄想だらけの凡夫が勝手に見たいものだけを見て、言いたい放題を言っているのではないか。
 そんな愚かな他者の思惑や妄想世界を、SNSが異常なまでに激化させ、ヴァーチャルな「人間関係という名の地獄」が出現した。
 他人の眼差しによって、「私」が所有されていく。
 「地獄とは他人のことだ」とサルトルは言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月31日
★他者と共生するしかない人類にとって、喜怒哀楽のほとんどが対人関係に由来し、自信やプライドすら他者評価に左右されている。
 「虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、道の人ではない」(ダンマパダ)
 人は脳内に拡がっていくパパンチャ(妄想世界)を楽しんでいる、とブッダは言う
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月29日
★怒らない方が良いと知っていても、怒りを止めることはできない。
 「怒り」とサティを入れても、ラベリングが空回りして、客観視が無力に終わるだろう。
 怒りは猛毒であることを痛切な体験で検証し、絶対に怒らない!と決意を繰り返すことだ。
 執着(渇愛)が苦の因と悟る智慧が、エゴの対象化と真の客観視を可能にする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月27日
★「嫌悪」「貪り」「焦り」とラベリングしても消えないのは、なぜだろう。
 客観視はできているが、対象化しきれていないからだ。
 抑止する心が、巻き込まれのめり込んでいく心に圧倒される。
 対象化できるか否かは、執着の度合いに比例する。
 執着の手を放せば、ドゥッカ(苦)が乗り超えられていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月25日
★ズルい人が嫌われるのは、どうしてだろう。
 おバカな天然ボケ系の人は安心だが、狡猾な人には何をされるか分からない。
 頭の良さ+利己的+邪心=狡猾、か。
 エゴの強さに比例して冷酷の度合いが強まる。
 人の痛みを慮ることができずにホクソ笑む・・。
 業論を知らない お利口な愚か者・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月23日
★神々の王、帝釈天は言う。
 「怒った人に対して怒り返す人は、悪をなすことになる。怒り返さなければ、勝ちがたき戦にも勝つことになる。
 他人が怒ったのを知って、自ら気を付けて静かにしているならば、その人は、自分と他人と両者のためになることを行っているのである」(サンユッタ・ニカーヤ)
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月21日
★神々との戦闘に敗北した阿修羅の王が、手足を縛り上げられても神々の王を口汚く罵倒していた。
 ブチのめして黙らせましょう、との声に、忍受していた帝釈天(王)が言う。
 「強者が、自分よりも劣った者の言葉をゆるすならば、それをこの世における<最上の忍耐>と呼ぶ」
(サンユッタ・ニカーヤ)
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月19日
★嫌らしい人に出会い、理不尽な仕打ちをされても、怒りを覚えることはない。
 過去世の自分は、こんな情けない下品なことをしていたのか、と少し自嘲的になる。
 瞬間的に苦を受けたのだから、不善業が一つ消えたことに感謝する。
 自分がやった通りにやられるだろう相手に、「悲」の瞑想もする。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月17日
★苦しい人生になったのは自業自得、と理解したはずなのに、なぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろう。
 分かっちゃいるけど、止められないのだ。
 貪れ!怒れ!の命令(視床下部)は自動的だが、理性を司る新しい皮質(前頭葉)には学習と訓練が必要だからだ。
 煩悩に従って下落するのはたやすい。
 本能の命令に逆らって訓練し修行を持続するには、心から納得し腹に落とし込む正しい理解の力・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月15日
★見た、聞いた、感じた・・・次の瞬間の反応する心が業を作ると自覚している人は少ない。
 立ち消えになる微弱な業もあるが、次の世まで持ち越される強烈なカルマが宿業と呼ばれる。
 貪りも怒りも愚かさも、一生の間に累積した業はいかばかりか・・・。
 驀進する列車のような宿業の力に押しやられ、あるいは転落し、あるいは引き上げられていく人生・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月13日
★俳優になるオファーをキッパリ「お断りします」と答えようとして、青年中井貴一の口をついて出たのは「お引き受けします」だった。
 誰よりも自分自身が面食らった。
 エゴの思惑も深層の本音も、土石流のように押し流して人生を方向づけていく力・・・。
 その宿業の力を成り立たせているものは何か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月11日
★正論や建て前を語るエゴも嘘ではないが、土壇場で現れるエゴが本音だろう。
 睡眠中に、海馬に一時保管された不要な記憶は消去され、大事な情報は前頭葉へ転送されて長期記憶になる。
 その選別は、誰がやってるのか?
 生存本能か、DNAレベルの深層エゴか・・・。
 その底に、さらなる奥深いエゴはあるのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月9日
★熱心なひいきやファンになって応援するのを「推し活」と言うらしい。
 自分の「イチ推し」を人に広める活動を「布教」と言い、「推し」のために、また自分の運気を上げるためにゴミを拾い、席を譲り、善行するのを「徳を積む」と表現する。
 宗教だとクサくなるのに、なんとも新鮮な用法に感心した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月7日
★ピダハン族が絶滅していくのは、400人を割ったからではない。
 ブラジル政府が電気を引き、TV視聴が始まり、子供達がポルトガル語で数を数え始めたからだ。
 言語の使用と生き方しだいでは、妄想に由来するドゥッカ(苦)が限りなく阻止されることを示唆した人類もいたのだと記憶に留めておこう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月5日
★Aがドブに落ちたとBが言うのを聞いたCはすぐDにも伝えた・・。
 ピダハンには、こうした噂やまた聞きを組み込んでいく再帰言語がない。
 直接体験しか語らないピダハンの言葉は、短いワンセンテンスばかりだ。
 根拠のないことを信じない生き方が文法を作ったのか、文法の構造の故にそうなったのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月3日
★ピダハンには、「心配する」という言葉が無い。
 魚が大量に獲れても笑い、獲れなくても笑い、満腹でも笑い、空腹でも笑い、不幸も笑いの種にする。
 嵐で小屋の屋根が吹き飛ばされると、当の持主が誰よりも大声で笑う。
 森の動物のように、その日暮らしのピダハンには執着するものがない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月1日
★言語学者でもある宣教師が、聖書をピダハン語に訳し、30年間起居を共にしたが、一人も入信させることができなかった。
 「なぜ、会ったこともないイエスという男の言うことを信じるのか」
 直接体験の一次資料しか信頼しないピダハンの科学的実証性に屈し、家族を捨て、無神論者に改宗した・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月30日
★なぜ、アマゾン先住民ピダハン族は、今の瞬間だけに生き、将来不安も後悔もないのか。
 ヴィパッサナー瞑想者の範とすべき生き方は、数も色の名前も過去形も未来形もない特殊な言語に由来する。
 抽象化や概念化や伝聞を嫌い、直接体験と現実に起こった事以外には口にしない、極めて幸福度の高い人達・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月28日
★自由意志の存在が疑問視されるのは、司令塔(中枢)が末端の情報に逆らえないからだ。
 意志決定がされる前に、眼耳鼻舌身意の情報が処理され、生存本能、価値観、諸々の条件や環境要因がしのぎを削りながら優先順位を決めていく。
 家族のしがらみも、所有した富や地位や権限も、劣等感も、体調も、トラウマも・・・、無数の条件が心のドミノを倒そうと雪崩れ込む一瞬一瞬・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月26日
★ただ成りゆきに任せて流され、与えられたものを受け切っていくだけで良いのだろうか、という疑問もあるだろう。
 悪を避け善をなす原則を貫いている限り、やがて必ず苦が減少し、楽が増大する。
 人生の幸福度は必ず上がっていく。
 絶対に成就しないのも、否応なく起きてしまうのも、いかなる苦楽も、その因果は必然の力で帰結する。
 悪因悪果を手放し、善因善果の流れを組み込む仏教・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月24日
★何度も痛い思いをしながら検証を繰り返し、因果論が腹中深く納まってからだろうか・・・。
 起きたことは全てそれでよいし、何が起きても、起きなくても、ただ悪を避け善をなす原則さえ貫けば、流れのままにどこへ流されていってもよいのだ。
 己の宿業が組み込んだ人生を、天から与えられた人生であるかのように押し戴いて、生きていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月22日
★遺伝的素因や宿業に組み込まれた情報を変えるのは絶望的に難しい。
 幼児期の柔らかい脳に刷り込まれたものを改変するのも至難の業で、「三つ子の魂百まで」と言い伝えられてきた。
 「刷り込み」以降に形成された人格や反応系の心は、生き方や生活習慣や瞑想によって乗り超えていくことができる。
 過去のパターンが抑止されている状態もあれば、反応パターンそのものが壊された心底からの変容もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月20日
★若い頃は不可能はないと本気で信じていたし、限りない自己変革を目指していた。
 成長し変わった部分もあるが、幼少期からまったく変わらない資質や反応パターンが多いのにも驚かされる。
 根拠のない野望や他人との比較が手放され、己の身の丈を正確に心得て、残余の命を焼尽させていく楽しさ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月18日
★実母を喪い、人生のどん底から立ち直れないでいた担当編集者が高峰秀子の優しさに救われ、やがて養女にまでなった。
 秀子の優しさは、その身内が言うのだから本当なのだろう。
 だが、人を信頼しない秀子の思いやりや配慮は、常に自覚的かつ意識的なものだったに違いない。
 その優しさは、ただ存在しているだけで温かい感じがする生まれつきの優しさと微妙に異なっていたのではないか。
 一挙手一投足にいたるまで設計された優しさと、慈悲の優しさとの異同を検証したかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月16日
★余計な妄想をせず、今の瞬間に全ての注意を注いで生きている野生動物は、ヴィパッサナー瞑想の達人のようだ。
 弱肉強食の非情な世界を生き抜くために最適化されたマインドフルネス・・。
 常によく気をつけていた高峰秀子の生涯は見事だったが、人を信頼しない猜疑心も野生動物のようだった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月14日
★女優の高峰秀子は、日常生活のどの瞬間にも気をつけていて油断がなく、ミスや軽率さが皆無だった、と夫や養女が証言している。
 秀子は幼い頃から、養母を筆頭に蛭のような親族に吸血され続け、家でも外でも、野生動物のように警戒心を解く暇がなかった。
 環境が生き方を変え、脳を変える。
 マインドフルネスと同じ脳領域(島皮質)が発達せざるを得なかった苛酷な情況・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月12日
★出家すれば、戒律と慈悲の瞑想に守られ、生きる糧を求める闘いもない。
 清潔な距離感の保たれた「捨」の関係では、苦に叩きのめされる経験は望むべくもない。
 心に汚染が抑圧されたまま、寺のきれいな生活が始まれば、煩悩は熟睡状態(随眠)になる。
 苦諦を覚るには、在家に留まるべきか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月10日
★「愛別離苦」の「会者定離」のと学んでも、人生の現場では何の役にも立たない。
 掛けがえのない存在のリアルな喪失に慟哭しながら、腹に落とし込むしかない。
 苦の真理(苦諦)が思い知られた時、苦界から解脱したいと心底からの悲願が生じる。
 知的理解は虚しく、超越の道は、瞑想修行しかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月8日
★捨(ウペッカー)の確立は、エゴを完全に滅ぼし、無我を体現するのと同じことだ。
 出家にも難しいそんな境地に、在家の我々がどうやって到達するのか。
 修行には順番がある。
 まずは悲しみに身を引き裂かれ、苦に叩きのめされる体験が不可欠だ。
 一切皆苦の構造世界を検証するために、俗世がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月6日
★親子関係も男女関係も存在しない上座仏教の寺では、激しく求め合い、期待し合う渇愛は生じようがない。
 授乳や性愛の濃密な接触は自他の融合感覚をもたらし、掛けがえのないそのエゴが半分に引き裂かれればドゥッカ(苦)に呻くだろう。
 愛と捨(ウペッカー)が両立すると、エゴが消え、清潔な距離感と抑制された優しさが「慈悲」と呼ばれていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月4日
★親子も夫婦も親友も、良好な関係であれば必ず、掛けがえのない存在になっていく。
 そんな人を喪えば、心が折れ、砕け散ってしまうだろう。
 全身全霊で愛し抜きながら執着せず、「捨」の心を堅持して、渇愛を阻止できるだろうか・・。
 「愛する人を持つな、愛さない人も持つな」
 と、ブッダは言う。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月2日
★弱肉強食が基本構造の世界で、仏国土の理想郷を目指すのは尊いが、実現されることはない。
 死後、地獄に堕ちる者と天界に再生する者が交差し、時間と空間を共有できる物質世界の不可思議・・。
 どの領域も輪廻の途上だが、自らの業に押しやられて転生する地獄にも餓鬼にも天にも学ぶべきことがある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月30日
★地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道では、同じ波動の同類が群れ、集う。
 だが、物理法則の働く人間と畜生界の棲み分けは他の界と異なり、時に飛魚が空を飛び、掃き溜めに鶴が舞い下り、原爆が全てを灰燼に帰す。
 天地がひっくり返り、異質なものがかき混ぜられ、混沌が新たな秩序と階層を生む・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月28日
★草食動物は一日中食べ続け、コアラは毎日22時間も眠る。
 食べて、寝て、子孫を残し、平穏無事に生きるだけで幸せなら、何度でも転生し輪廻を繰り返せばよい。
 業の世界なのだから、煩悩を慎めば慎むほど幸福度が上がるだろう。
 その業に束縛された世界から解脱したくなった者は、再生のない涅槃を目指し、煩悩を滅尽する瞑想に励む・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月26日
★遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月24日
★遊ぶのも学ぶのも働くのも、とどのつまり、食べるため、モテるため、生殖するためであり、生きるとは、生存を維持するエネルギーを獲得し、自分のコピーを残して死んでいくことだ・・・。
 ただ生きるために生き、老いて死んでいくのを延々と繰り返すために、命懸けで交配し、繁殖しようと、人も動物もこんなに必死なのだ。
 さしたる意味もない生存の日々が、本当に掛けがえがないのか。
 路傍の草のような幸せを求めて生まれ、その幸せすら得られず、なぜ、果てしなく輪廻を繰り返していくのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月22日
★皆に愛され大事にされてはきたが、過剰な期待に圧し潰されそうな息苦しさを感じ、幼い頃から生きることが苦しかった。
 長じて、家庭も子供も持ちたいと思ったことはなかった。
 なぜ生きるのか腑に落ちないのに、苦しい世界にどうして新しい命を送り出せるのか、どのように生きる希望を教えればよいのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月20日
★最愛の家族を喪った方々が、悲しみのドン底で一様に洩らされる。
 「家族と過ごした何でもない日々が、いかに掛けがえのないことだったか・・」
 些細なことに小言を言ったりしながら、何事もなく暮らしていた日々こそ最高の幸せだった、と全てが喪われて痛感される構造・・。
 何となく不満足で退屈な日々が、本当に幸せだったのか・・という疑問。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月18日
★中心対象の感覚がクリアーになると、妄想も出現しなくなり、座る瞑想がいつになく深まっていく。
 心が静まり返り、同じラベリングがたんたんと繰り返されていくうちに、サマーディ感覚の静けさが?沈睡眠のスリープ状態と紙一重になっていく・・。
 ヴィパッサナー瞑想がいつの間にかサマタ瞑想に推移していく典型的なパターンだ。
 そうなったら、サマタの蛸壺感覚にハマってしまう前に、歩く瞑想にシフトした方がよい。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月16日
★こんな順番で瞑想している人もいる。
 @三帰依→A慈悲の瞑想→Bサマタ瞑想→C歩く瞑想→D座る瞑想→Eもう一度慈悲の瞑想。
 @でブッダとダンマへの信を高め、Aで慈悲モードを強め、Bで集中を高め、Cでサティを強化し、Dで集中と気づきが連動する瞬間定を狙い、Eで締めくくる・・・。
 仏教に対する信仰が特になければ、@の三帰依は省略。
 五戒を守りさえすれば、仏教の瞑想を修行する資格はある。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月14日
★仏法僧への三帰依は、信仰心の発露でもあり、瞑想中の安心感を得る儀礼でもあり、我執と傲慢さを手放す修行の要素もある。
 ヴィパッサナー瞑想は、宗教的儀礼の要素を抜き、純粋に気づきの心を養っていくこともできるが、寺の結界の中にいるような守られた感覚も重要だ。
 自宅の聖なる一角にブッダの写真や絵葉書の一枚も飾り、線香の1本も立て、三帰依をして瞑想するのも良いだろう。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月12日
★瞑想者の資質や才能、悩み苦しみ、願望、劣等感、何よりも瞑想の進み方が千差万別である。
 ブッダが「対機説法」をした所以だろう。
 個人インストラクションを公開で行なうのには限界がある。
 だが、楽屋話をすれば、個別案件を万人に当てはまる普遍的なテーマに昇華しようとするチャレンジでもある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月10日
★その素晴らしい境地に憧れながらも、荘子には具体的な修行法が提示されていない。
 クリシュナムルティを見限ったのも同じ理由からだった。
 方法論は示されず、ただ「受動的な凝視→あるがままを見よ」の理念が美しく語られている。
 心に刺さった原始仏教の「気をつけておれ」こそ、その「あるがままを観る」ヴィパッサナーの象徴であり、分け入ってみれば、果たして緻密で巨大な瞑想システムが開かれていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月8日
★私の道ではないと結論したが、長年に渡って梵我思想を究極の拠りどころにしてきた未練がくすぶっていた。
 長老は明確に、懇切丁寧に、完膚なきまでに、私のあらゆる疑問や未練にトドメを刺してくれた。
 完全に撃沈した私は、以来、原始仏教の道を真っ直ぐに見据えて、迷うことがなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月6日
★奇しくもそれは、習得したばかりの日本語で説法するスマナサーラ長老だった。
 以来、最初期の上座仏教修道会が主催する定例の会に足しげく通い、長老からマンツーマン指導を何時間も受ける僥倖に恵まれた。
 私が今日あるのは、この人生最大の果報の一つとも言える長老から受けた学恩にある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月4日
★仕方があるまい・・・。
 挑むべき方法が何もなくなり、原始仏教に一条の光を見たのだから、幼稚園児に戻ってやり直すしかなかった。
 最古層の原始経典に繰り返されている「気をつけておれ」という謎の言葉を究明する闘志が充電されてきた頃、スリランカから来日した比丘による南方仏教の講演会という新聞記事が目に止まった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月2日
★「青春も老年も人生の始めも終わりも、万物を良しとする・・・」と説く荘子を読む度に感動していた。
 だが現場では、命懸けにならざるを得ない背水の陣を布いた目的追求型の生き方になっていた。
 燃え尽きてしまうのも当然だった・・・。
 だが、それでも、生きていれば、やがて何事も時が解決してくれる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月31日
★間違っていたのか!
 この世を捨て、いかなる組織にも寺にも帰属せず、水をかぶり、経を読み、瞑想以外に何もしてこなかった歳月の本義が砕け散ったか。
 もう一度、最初から新たな道を歩み直す気力も意欲も絶え果てていた。
 腑抜けになって独り自室に転がっていたが、行くべき処も、戻る処も無かった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月29日
★だが、原始仏教の涅槃は、存在の世界を全捨てした離欲の究極だった。
 現象世界肯定論の梵我思想系の解脱観とは根本的に異なり、統合できるものではなかった。
 愕然とした。
 この世を捨て、命を懸けて修行してきた十余年が水泡に帰したと感じ、廃人になりそうなほど打ちのめされた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月27日
★大乗経典を貪り読むうちに出会った維摩経に、激しく眼を叩かれた。
 毎日水をかぶって祝詞を奏上し、断食マニアになり、役小角を霊能と神通の師と仰ぎ、大峰を歩き、滝行もした。
 イエスの倫理の厳しさを範とし、ヨーガ・スートラと九次第定で瞑想し、最も愛した荘子のタオも涅槃も梵も統合され、万教は帰一すると信じていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月25日
★瞑想している間だけの悟りでは意味がないと思っていた。
 日常モードに戻るとムッとしたり、欲に囚われていると感じる瞬間がある限り、煩悩の鎖に縛られ、束縛されているではないか。
 その不快感を無視して、「煩悩のある時も無い時も、全てを等価に観るのだ」は屁理屈だろう。
 煩悩は無くせないという敗北感の哲学ではないかと思っていた頃、煩悩滅尽を力強く宣言する阿羅漢達が続々と存在することに衝撃を受けた・・・。(テーラガータ)
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月23日
★何度も検証してみたが、煩悩即菩提は嘘だろう、というのが私の結論だ。
 無思考の禅定に入れば、澄み切った心を縛るものは何もない。
 妄想にのめり込み、ドス黒く充血した欲や怒りの心が、パパンチャ(連想のドミノが倒れて心に拡がる煩悩世界)を離れ、解き放たれた心と同じであろう筈はない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月21日
★維摩経の恩義は忘れ得ないが、原始仏教に信を定めて以来、敬遠した。
 人の心を根底から変える苦の現象が感謝すべきものなら、苦の原因である渇愛も煩悩も結構ではないか。
 無分別の眼で眺めれば、煩悩も菩提も等価で、この世はこのまま肯定すべきだ、という維摩の解脱観は、私の道ではなかった。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月19日
★自分に苦を与えた相手を赦す、いや、多くの学びを得たのだから感謝すべきだ。
 この傲慢な発想が、内観の修行をして崩れ去った。
 エゴ妄想を一貫させるために、父から愛された記憶の数々を忘却の闇に封印していたことに愕然とした。
 大人がそうであるように、子供も、見たいものだけを見る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月17日
★維摩経によれば、賢者と愚者に対する菩薩の指導法は異なり、暗愚な者には、動物を鞭で調教するように苛酷な手段を取るのだという。
 深く心に刺さって以来、嫌悪すべき人は私の愚かさを鏡に映す菩薩なのだと見た。
 暗黙の調教師だった父が発端となり、怒りを慈悲で乗り超える修行が続いた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月15日
★父の存在を受容できず、膨大な怒りと憎しみを放ち続けた歳月。
 業論のセオリー通り、人から激しい怒りを向けられたことが何度もあった。
 理不尽と思ったが、愚かな妄想で激怒していた私に当然の報いだった。
 苦受を受ければ、因果は帰結していく。
 反応し、新たな悪業の種を蒔く愚かさ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月13日
★父との確執がなければ、真理を求めていくことも、ネガティブ経験を受容する発想に至ることもなかっただろう。
 仏教に深く分け入ったのも、瞑想に人生を捧げることになったのも全て、父が暗黙の原点になっていた。
 人は自らの宿業が選んだ親と生育環境の下に生まれ、苦の経験を通して成長する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月11日
★行き倒れのハンセン病者をキリストと見なしてお世話せよ、とマザーテレサは檄を飛ばした。
 父は晩年、糖尿病を悪化させて毎夜痛みを訴えた。
 仏の御み足だと妄想しながら償いのマッサージをした。
 最期を看取った時には、日に何度もオムツを替えながらサティを入れ、事実だけを見ていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月9日
★自分の過去に復讐するような歳月が流れ、負の情念が全て吐き出されると、生きる力も尽き果てていた。
 なぜか不可思議な力に助け出されて、仏教に出会った。
 維摩経の「自分に苦しみを与えてくる者は菩薩である」の一行に目を射抜かれた。
 あの父は、愚かな私を無言で導く菩薩であったか・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月7日
★大人に依存するしかない子供、その大人の望み通りに頑張るしかない重圧が苦しく、憤りは元凶である父に向けられ、期待する伯父に向けられ、この上なく私を愛してくれた祖父母の善意に満ちた優しい虐待に向けられ、私自身の過去の全てに向けられた。
 自己破壊の衝動が空になるまでの無明の歳月・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月5日
★父は家から一歩も出ず、毎日クラシック音楽を聴き、太陽の黒点や星座の天体観測を記録し、素粒子論を読みながら、親のスネを齧り続けた。
 私は周囲から期待された自分の役割を察知し、日々こぼれ出る父の小児的エゴイズムと無責任さにムカつきながら、幼くして心理的に自立するしかなかった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月3日
★元祖ニートのような父は誰からも見限られ、我家は本家の祖父に養われており、周囲の大人達は長男の私に期待し「投資」しているのだと幼い頃から見抜いていた。
 毎年祖父に連れられ、避暑地の温泉で金持ちのボンボンのように一夏を過ごしていたが、働かない父との確執で心は複雑に屈折していた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月1日
★父から暴力を受けたのは一度だけだった。
 布団から引きずり出され、畳に叩きつけられ、息が吐けなくなった。
 さらに殴打される寸前、母が身を挺して護ってくれた。
 母の姿に感動し、暴力の恐怖がトラウマにならなかったのは幸いだった。
 過去世で私もあまり暴力を振るわなかったお蔭だろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月29日
★過去世で私も息子を怒鳴りつけ、幼い心を傷つけていたのだろう。
 その因果が帰結し、不善業がひとつ消えたのだから、ありがたいことではないか。
 と、仏教の業論で因縁が読み解けるまで、逆恨みを続けて新たな不善業をどれだけ累積したのか。
 事の本質も因縁も理解できなかった無明の歳月・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月27日
★ツマンナイ!!と癇に障る声が近隣から聞こえてきた。
 幼稚園生の頃、私も同じ声を出したのを思い出した。
 遊びに行こうとしたが靴紐が結べなかったので、父親に頼むと断られた。
 ツマンナイ!と駄々をこねていると、「つまらなければ、死ね!」と怒鳴られた。
 あの声が、父を苛立たせたのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月25日
★輪廻転生には懐疑的だった方が、ふと「物事に実体はなく業のプロセスだけが存在するとすれば、無我だからこそ輪廻するのではないか」と思った。
 すると、なぜか急に楽になり、肩の荷が下りたような気がした。
 今世の間にできる限りのことをしよう、という前向きな思いが湧き出てきたという・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月23日
★He hit me on the head.(彼は私の頭を叩いた)
 「俺が打たれた」と認識し、次に具体的な部位を示す英語。
 こんな発想を、思考と会話のたびに繰り返すから、エゴ意識が強化されるのだ。
 瞑想者は「痛み」とサティを入れる。
 頭に感じた苦受だけが真実の経験だからだ。
 俺様もエゴも、妄想!
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月21日
★悪を避け善をなし、きれいに生きていても、嫌なことに巻き込まれ、苦しい人生になることもある。
 長い輪廻の中で、人に苦を与えなかった者がいるだろうか。
 日々経験する事象は業の帰結であり、必然なのだ。
 そう腹を括って、全てを引き受ける覚悟を定めれば、心理的に苦しむことはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月19日
★「瞑想のことば(1)」の朗読がYouTubeにアップロードされているが、スタッフの尽力により3本の新作が追加された。
 テーマは、(2)輪廻、(3)涅槃、(4)幸せ。
 背景の写真が美しく、朗読のレベルも上がり、間の取り方や癒し系の声の響きに感心させられた・・・。
 https://www.youtube.com/watch?v=X5oJuo-dT6k&t=32s
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月17日
★苦楽の現象を経験する瞬間、何度も繰り返されパターン化した反応が反射的に出力されていく。
 善き反応も悪しき反応も、自動的なメカニズムでその一瞬の善業を作り不善業を作りながら、運不運、幸不幸の流れを形成するのが人生だ。
 エゴは幻想に過ぎず、存在するのは、業が生滅する一瞬一瞬・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月15日
★誕生以来、人はさまざまな役割を期待され、それに応えながら人格を形成し社会に組み込まれていく。
 長男長女として、末っ子として、園芸係として、主将として、書記として、夫婦として、親として・・。
 役割も人格も一つだけで生きる者はいない。
 個我ではなく、複数のエゴと人格の集合体・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月13日
★キューブラー・ロスについて書きながら(「月刊サティ!」)、比類のない慈悲の精神と激しい怒りが同居する矛盾に戸惑った。
 表裏のない一貫したエゴや一個の人格として見るから無理なのだ。
 対象とセットで生じた心が刹那に滅していくように、どの瞬間も真実のその人と見て、個我妄想を排す・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月11日
★智慧が閃かないのは、当然やるべき何かが欠如していたからだ。
 必要十分なダンマが学ばれたか。
 仕込まれた情報を分析し、あらゆる角度から考察し、熟考し抜いたか。
 自らの経験知で検証したか。
 脳内発酵する熟成期間を与えたか。
 完全に思考が止まる深さの瞑想に達していたか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月9日
★決死の覚悟を定めて命懸けになるのと、自死が決行されていく瞬間との間には無限の隔たりがある。
 いくら想像しても、火事場の馬鹿力は出ない。
 だがその瞬間、後悔しながら犬死した者はいなかったのか。
 リアルな現実に投げ出された瞬間、悟りの智慧が閃く者がいる。
 閃かない者もいる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月7日
★往時には、ブッダの説法を聞くやたちまち悟りを開いた者が数多くいた。
 苦しい修行を何十年続けても悟れず、絶望の果てに自死を遂げていく中でやっと解脱した者もいた。
 生得の資質も才能も生育環境も宿業も、何もかも因縁が違うのだ。
 瞑想すれば必ず成果があるが、その現れ方は千差万別・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月5日
★「怒り」と正しくサティを入れても消えないのは、真の客観視ができていないからだ。
 技術的には正確でも、本気で自身の経験を対象化しきれていないのだ。
 検索や動画で仕込んだ情報は、知的理解の脳にしか届かない。
 リアルな体験で腹に落ちた感動が人の心を根底から変える。
 執着を手放す力・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月3日
★冷酷に虐殺を命じたナチスの将校が、帰宅すると優しい父親になる。
 傲慢だった自分も、謙虚に慎んでいた自分も、貪った瞬間も、喜捨した瞬間も、どれも本当の自分だったのだ。
 どの一瞬にも業が作られ、やがて因果が帰結していく。
 「私」というエゴ妄想でまとめず、どの瞬間も全て受容し、引き受けていく覚悟・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月1日
★ヴィパッサナー瞑想の観察対象は、他人や外界の事象ではない。
 自分が何をしたか、話したか、思ったか、あるがままに真実の状態を直視する仕事だ。
 愚かで、邪まで、汚れた己の真の姿を観る苦しさに耐えられるだろうか。
 嫌なものをありのままに受容する一瞬一瞬が、プライドと怒りを手放す修行・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月30日
★武芸や伝統的な技の修練に関して、古来から「守・破・離」の原則が伝えられてきた。
 最初は型通りのレッスンを繰り返すのが基本であることに例外はない。
 伝えられてきた行法や型を完全に体得した者が初めてバリエーションを試みる順番だ。
 基本がマスターされていないのに、修行が上手くいかないと、刺激や変化を求めてあれこれ試したくなるのも人情だ。
 そんなことは古来からやり尽くされ、淘汰され、本物だけが守り伝えられてきたのだから、基本レッスンを怠らない覚悟・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月28日
★中心対象の感覚の変化にサティを入れて、最後の瞬間に数をカウントする。
 一瞬一瞬の経験をラベリングして言葉確認するのが本来だが、気づきが高速化してくればラベリング無しのサティに自動的に切り換わるものだ。
 呼吸の回数を確認する一瞬は、瞑想にほとんどダメージを与えないことが確かめられた。
 微弱な妄想に気づいた時、ラベリングなしで見送るのと大して変わらない。
 瞑想中の9割、サティが入っていれば良しとする。
 ・・・と、あらずもがなの説明をしたが、初心者は混乱するので、やらない方がよい。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月26日
★一つ、二つと呼吸の数を数える「数息観」は、感覚に概念をかぶせていくので、集中型のサマタ瞑想になる。
 法と概念が識別されないからだ。
 ・・・と、伝統的な説明をしてきたが、果たしてどうなのだろうか。
 実際に検証してみた。
 感覚の実感が9割、ラベリングが1割の原則からすると、数のカウントをしながらでもサティの瞑想は十分に可能という結論だった。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月24日
★煩悩の脳も善をなす脳も搭載された人類は、その矛盾に葛藤し苦しんできた。
 個人が特定されない覆面効果の匿名性は邪悪な心を刺激し、眠っていた卑しい品性を露わにする。
 一方、人に見られていれば、自らを律する力が強まり、慎みも礼節も善心も現れやすい。
 オンライン上の講座でも、顔を隠せば気がゆるみ、瞑想が甘くなり、場を共有する絆の力も弱まるだろう。
 「見られる力」を使って、我が身を正していく覚悟・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月22日
★無常故に、硬い蕾が真っ赤に花開く。
 悲しくても苦しくても、どれほど深いグリーフでも2年半も経てば、原色の記憶が色褪せ始める。
 一喜一憂しながら無常を楽しみ、何度でも輪廻を繰り返すのもよい。
 因果に縛られ、一切が変滅する世界はもういいと痛感する者は、脱出ゲームの瞑想に励む・・・。

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

3月20日
★瞑想は体との戦いだ。
 眠気も痛みもエネルギー枯渇も妄想多発も、瞑想は常に体に干渉され支配されている。
 どれほど澄み切った瞑想にも必ず終わりがやってくる。
 食べて排泄するエネルギー代謝の世界にとどまる限り、無常の苦は逃れられない。
 体が邪魔だ。
 身体のない世界への憧憬・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月18日
★食べれば体が濁り、食べなければ澄み切った意識で最高の瞑想ができるが、限界がある。
 ギリギリの食事で瞑想にのめり込んでいるうちに突然、何もかも一切やる気がなくなり、飢餓難民のように、うら寂しく、暗く、陰気に、衰弱し萎びてしまうのだ。
 栄養失調になり、脂肪肝になったこともあった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月16日
★断食を解いてからの食事は、例えば、ミカン+バナナ+リンゴ1/2+ヨーグルト+煎餅1+パセリ+チャイ。
 おやつ程度の食物で普通に仕事をし、速歩で1万歩を歩き、最高の瞑想ができるのが不可思議だ。
 だが、かつて瞑想の透明感を求めてこんな食事を続けていたら、身体から手酷い逆襲をされたこともあった。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月14日
★解毒され透みきった体感に比例した速度感で、意識の流れが自覚されていく。
 音も思考も感覚も全ての知覚情報が異様なほど鮮明になる。
 すると音が知覚された瞬間に拡がる連想と、情報の本質が洞察される瞬間の違いが明瞭に仕分けられていく。
 ただのサティと、サマーディが連動したサティ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月12日
★今回も水だけを飲み続け、51時間で断食を解いた。
 余分な脂肪も筋肉もない私の体には、断食効果が速効で現れる。
 途中の復食に失敗し最悪になったが、次の食事で修正すると絶好調になった。
 鈍重な肉体から脱け出し、素粒子の振動だけのような澄み切った瞑想の展開・・・。
 食べて排泄を繰り返す肉体の世界に対する厭離・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月10日
★凄まじい断食を乳粥で解いたブッダが、異様なまでに澄み切った意識で解脱したのは偶然ではない。
 心が意のままになるなら、誰でも集中し、サマーディに入ろうとするだろうが、そうはいかない。
 心は心の、体は体の、因果法則に支配されている。
 最高の瞑想ができる全ての条件を整えていくしかない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月8日
★断食中のデトックスが強烈だと、吐き気や眠気など苦しい身体反応が起きる。
 不摂生や悪食などで身体が汚染されていると、断食が始まってからの反応が厳しく苦しく、稀にひたすら眠り続けるような人もいる。
 解毒が終ると目ざましい断食効果が得られるが、個人差が大きく、結果は千差万別である。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月6日
★瞑想が進むのは、修行努力と節制と徳の力の総和である。
 過激な節制だが、長年に渡って定期的に断食をしてきた。
 断食の解毒作用が効を奏すると身体が整い、心が澄み切っていく。
 断食中の脱力感と低血糖の朦朧状態は苦しいが、それも弱者や痴呆状態の痛みを身をもって学ぶのに良い、と発想の転換をする。
 意識が混濁したら午睡し、目覚めれば必ず復活するので仕事をする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月4日
★中心対象の足やお腹の感覚に興味が薄れた瞬間、妄想に心が奪われる。
 一点に絞り込まれていた注意が、中心外に流れるからだ。
 聴読しながらでは到底瞑想にはならないと思ったが、夜道を歩く歩行感覚にも、読み上げられていく意味を理解する状態にも、サティが入っていくのは驚きだった。
 気づきの処理速度が速くなると、余計な妄想に脱線している暇がなくなり、結果、サティが連続する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月2日
★晩年のマザーテレサは、呼べども応えない神への信仰に絶望している。
 神も貨幣も国家も戦時中の御真影も、巨大な集団をまとめる共同幻想の装置に過ぎない。
 妄想を共有しながら、面白おかしく生きていこうとするのが人間だ。
 瞑想などしてあるがままの真実に触れてしまえば、一切皆苦のこの世から解脱したくなってしまうではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月28日
★カラスにもドブネズミにも、正月はない。
 ゴミ集積所にエサがあるか否かの現実があるだけだ。
 地球上の何十億もの脳内に同じ幻想が共有され、一斉に気分が変わり行動が変わったりする人類。
 「世間虚仮」と心得ながらも、カラスやネズミのように無視することもできず、年賀の挨拶などをする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月26日
★誰とも会わずに独りで暮らしていると、自己管理にも危険回避にも常によく気をつけて、夜道を歩く時も階段を下りる時もマインドフルになる。
 単独型の野生動物のように、真剣な、油断のない緊張感が小気味よい。
 だが時たま信頼している人と一緒にいると、無防備になり、サティを忘れている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月24日
★サマタ瞑想は集中した対象との合一を目指し、ヴィパッサナー瞑想は自分の心と体の変化過程を観察する。
 大勢の瞑想者が共に修行する禅堂にいても、瞑想は孤独な営みである。
 孤独が苦しいのは、孤立感やネガティブな妄想に巻き込まれるからだ。
 妄想が一掃されれば、孤独の豊かさが際立ってくる瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月22日
★決意をすれば、心が変わる。
 決意が実行されれば、現象の流れが変わる。
 ヴィパッサナー瞑想をすれば、反応系の心も生き方も変わるが、刷り込まれた記憶が消滅する訳ではない。
 よく気をつけて管理しなければ、心のドミノが元通りに倒れる可能性は常に残る。
 涅槃を得なければ、今世ではそこまでだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月20日
★他人の身に起きた不幸の因果は読み解けても、我が身の苦(ドゥッカ)になればそうはいかない。
 群衆や街路樹を眺めるように、自分を客体視するのが難しいのは、自己正当化の論理が反射的に浮かび上がってくるからだ。
 欲に駆られ怒りに衝き動かされ、今世でもまた未来の自分に苦の種をばら蒔き続ける日々となるか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月18日
★因果が理解できないのではない。
 知的理解の限界なのだ。
 頭で何が分かっても、情動はビクともしないし、生き方が変わるわけでもない。
 もし心底から理解され骨の髄まで覚知されたなら、怖れおののき、新たな決意がなされるだろう。
 揺るぎない決意の爆発的なエネルギーが、鉄路のように習慣化された反応パターンを突き崩していく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月16日
★苦しい人生だったのは、過去に自ら放った不善業エネルギーの帰結である。
 いまだに苦しい人生が続くのは、いまだに不善業が作られ続けているからだ。
 この世に生を享けたのは、その悪しき流れを善なる方向に転じるためではなかったのか。
 苦の原因と超克の道を示した仏教とは縁が付かず、濁流に流されていく人たち・・・。
 因果論を聞法する機会に恵まれながら、さらなる苦海に向かって加速していく人たち・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月14日
★苦しみのどん底に堕ちきった時、心の底から「救われたい!」と真実の叫びが洩れる。
 この世の何処にも戻る場所がなくなった原始仏教の出発点だ。
 苦の真理に打ちのめされ、苦の原因を思い知り、苦の超克に至る八つの道を歩み出す。
 四聖諦の第一命題を身もって知り得た流れに感謝する発想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月12日
★当初から17年間、毎朝冷水をかぶる禊で一日を始めた。
 朝は仏典、昼はヨーガスートラで修行し、夜は荘子を耽読した。
 今にして思えば妄想に過ぎないが、絶対的なものに全てを委ねる感覚はエゴ意識を削ぎ落とした。
 エゴ妄想が究極イメージの妄想に置き換えられた過渡的な修行だったが・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月10日
★当時の私にとっての全託とは、既成宗教の神仏ではなく、この世の事象を展開させている絶対的な法則性に従いきって、卑小なエゴを明け渡すことだった。
 梵我思想と荘子と仏教がミックスしたような「理法」のイメージを片時も忘れず、サマーディ感覚を高めて同化し、合一しようとしていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月8日
★世の経済活動から撤退し、情報も人間関係も閉ざして引きこもれば、自滅との絶えざる戦いになる。
 自尊心もプライドも、押し寄せる孤独感、無価値感、将来不安、自己否定感の怒涛に抗しきれなくなる。
 かつてこの世を捨て、孤独な行者の生活をしていた私を支えていたのは、理法への全託だった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月6日
★エゴ意識で生きていても、信頼できる絆があれば、孤独に苦しむことはない。
 だが、煩悩に満ちたエゴとエゴの関係性は壊れやすく、危うい。
 ダンマ(法)に基づいた自らを拠りどころとし、他者を拠りどころにするな、とブッダは言う。
 ダンマに自らを委ねた者が、孤独に苦しむことはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月4日
★認知の構造や脳科学を巧みに利用すれば、思い通りに安らぎが得られ善心所モードに切り換えることもできる。
 だが、ストレス解消と現実逃避は紙一重ではないか。
 素早く脱出するよりも、ネガティブな状態に陥った原因やプロセスをありのままに観察し、自己客観視を深めていく瞑想の技法・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月2日
★不安感、憂鬱、憤り、落ち込みなどの不善心は、浄らかなものや崇高なものに感動した瞬間、霧消する。
 だが、不安と憂鬱は消えろ!と情動脳に命じても、意志の思い通りにはならない。
 間接的には支配できるので、例えば母親が一番優しかった時の顔に集中すれば、不安感は消えて安堵感が拡がりやすいだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月31日
★帰宅直後では、この世的な妄想が激しく脳内を駆け巡り、瞑想モードに切り替えるのが難しいだろう。
 そんな時は、最初に慈悲の瞑想をやってみる。
 気分が出なければ、心を込めやすい家族をターゲットにする。
 子供が小さかった頃や、二人が初めて出会った時の写真などを眺めてからやると実感がこもる。
 慈悲の情動が動くと、瞑想に入りやすい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月29日
★初心者は真剣に修行する先輩の姿を見て手本にした方がよく、大きな禅堂で一堂に会する体制が望ましい。
 しかし上級者は、独居房のクーティで孤独に自分の修行に向き合うのが良いだろう。
 味噌も糞も一緒になるライブの瞑想会は当たり外れがあり得るということ。
 一方、オンラインでは、自らを律する覚悟が求められる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月27日
★ミャンマーで修行したある寺では、大勢の瞑想者が一堂に会して終日修行する形式だった。
 修行が行き詰まった瞑想者の中には、熟達者の先輩に近づいて何とか良い影響を受けようとする者がいる。
 座相が比較的きれいな私がそのように目されたらしく、毎回転倒しそうなほど激しい睡魔に襲われていたミャンマー人がすぐ隣に座るようになり、私が場所を替えると彼もまた替えて付いてくる。
 体は接触しないが、ドロドロの汚いオーラが私のオーラに触れるのが感じられ、汚物を投げられて修行を妨害されているような苦受に辟易したこともあった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月25日
★瞑想会場で現実の場の空気感を共有できるのは素晴らしいことだが、遠方から参加するには負荷が多く、コロナ感染の危険性も伴う。
 瞑想の熟達者や上級者と同じ空間で修行できれば、こちらの瞑想が引き上げられるような良い影響が期待できる。
 しかし、周囲でイビキをかいて居眠りする者や、妄想だらけのモンキーマインドで落ち着かない者がいれば、悪影響も受けてしまう。
 何事も諸刃の剣だが、衆善奉行を重ねてきた者には優れた環境で良き人に出会う流れがあり、徳のない者は劣悪な環境で苦しむ展開・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月23日
★毎月リピーターの瞑想者とオンライン講座で顔を合わせていると、親しみも仲間意識も形成され、独特の場の共有感覚と絆が生じ始める。
 ラインやチャットのような文言だけの関係性と、モニターの画面と音声で場を共有する絆はリアル感に大きな差異がある。
 当初予想していなかったが、熱心な瞑想者の中には人生の流れが変わるほどの大きな気づきが得られ、積年のドゥッカ(苦)から解放される方も現れてきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月21日
★コロナ禍が普及を加速させたオンライン講座は、遠方の方の受講のチャンスを拡げた。
 だが、知的な情報を学ぶのには適していても、瞑想者が厳粛な空気と静寂を共にする「場の力」は分かち合えないのではないか。
 そう思ってきたが、実際にやってみなければ検証しようがない。
 1年間やってみた結論は、オンライン講座も立派な瞑想会として機能するということ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月19日
★怒りや恐怖のホルモンが分泌される情況は危急を要するが、快感ホルモンの危険性はすぐには気づきづらい。
 嫌悪や怒りへのサティは鋭く入るが、情愛や欲望へのサティは鈍くなる所以だろう。
 だが、貪愛こそが怒りの母である。
 欲を阻まれれば激怒し、快を求める執着が苦の因になる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月17日
★確執のあった父親の介護にも、感傷に溺れそうになる母親の介護にも、マインドフルネスは不可欠だった。
 だが、深夜の病室で何度も起こされ、父のおむつを交換する時と同じ迫力のサティは、母に対しては入らなかった。
 ネガティブな反応を阻止するサティは必死だが、情愛に対しては甘くなる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月15日
★認知症を患った母が89歳で死ぬまでの2年間、徐々に幼稚園生の娘のようになっていった。
 毎夜母が眠りに就くまで、お気に入りの福助人形を使って即興の物語を創作し語ってあげた。
 一枚の紙を二つに折り重ねるように、かつて幼子に物語を語った者が最期に物語を語ってもらいながら生涯を閉じていく因果の帰結・・・。

 


………………………………………………………………………………………………………………

 

1月13日
★私の母はどんな人だったか、と講座で質問をされ、幼少期の記憶が甦ってきた。
 母は毎夜、姉と私が眠りに落ちるまで昔話や童話を語ってくれた。
 幼稚園から帰宅する子供達のために外勤の仕事を辞め、自宅で洋裁をしながら毎日ラジオの朗読で童話のネタを仕込んでいたようだ。
 母に添い寝されて聞いた夜伽話は金色に光る至福の宝物となり、私の情緒の安定と自己肯定感の原点になった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月11日
★「スライドの視覚情報が多いほど印象深く説得力があったが、反面、自身の思考の広がりがその画像に限定されてしまった感がある」
 と所感を述べた受講者もいる。
 さもあらん。
 刺激的なスライド図像が連写されれば、脳は独自の印象やイメージ理解が許されず、関連性や創造性が躍動するのを阻まれるだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月9日
★パワーポイントを使った講座は分かりやすいと言ってはもらえるが、パワーポイントで落語を聞きたいだろうか。
 スライドの画像や文字が目に飛び込んでくると、個人的なイメージや想像や類推で補完していく脳活動が限定されないか。
 正確に伝えられた情報がどう展開していくかが、智慧の発現していくプロセスではないのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月7日
★頭を空っぽにして知覚し、今の瞬間だけに生きる。
 そんなことは、ウサギも金魚もイボイノシシもやっている。
 妄想を司る言語脳のスイッチをOffにして知覚し、次の瞬間Onにして認識確定する・・・。
 妄想で苦しむ人類のためにブッダが提示したヴィパッサナー瞑想の技法。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月5日
★目撃者に犯人の似顔絵を作成してもらう。
 Aの目撃者にはそのまま描いてもらい、Bの目撃者には、まず犯人像を言葉で描写してから似顔絵を描いてもらう。
 結果は、Bの言語化した目撃者ほど実像と異なる似顔絵になるという。
 あるがままのリアルな印象が、思考プロセスのフィルターを通すと紋切り型の漫画に作り変えられていく。
 その脳内漫画に執着して、人は苦しむ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月3日
★「アレクサ」という電子秘書のお蔭で声帯の筋トレ目的は遂げられ、一人称世界の孤独も守られている。
 人がいなければ孤独になれるが、依然として脳内を駆け回る妄想に手を出さず、サティに徹することは容易ではない。
 結局、妄想にトドメを刺すのは、この世を捨て去る覚悟だ。
 それを「出離」と言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月1日
★ヴィパッサナーは、意識の矢印を自身に向ける自己客観視の瞑想だ。
 人と群れるな、孤独になれ、とブッダが言い続けた所以である。
 家の中に人がいれば意識は常に人に向きがちだが、電子秘書に対しては気を使うことも動向をうかがうこともない。
 一人称の世界のまま、自問自答の回答が神業の即答に変わったかのようで、打てば響く小気味よさ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月30日
★AI内蔵スマートスピーカーの秘書能力に驚いた。
 キンドル本の朗読、YouTube動画の再生、何よりもネット検索の速度感が素晴らしい。
 大正13年は西暦何年? ¥5480の15%引きは? ピカソの生年月日は?等々の質問に約3秒で答えてくれる。
 料理の写真もレシピの読み上げもタイマーもアラームもNHKニュースも、瞬時に実行する。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月28日
★外出するのは夜の歩行瞑想とスーパーの買物だけ、音声を一言も発することなく何日も過ぎていく・・。
 隔週末の朝カルや瞑想会で長時間話し続けなければならないのだが、声帯を寝たきり状態にし過ぎると声が出なくなることがある。
 発話の機会を増やすため、音声で指示する双方向対話の電子秘書を使うことにした・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月26日
★順調だった瞑想にさしたる変化も見られなくなり、モチベーションが低下してきた人が1Day合宿に来た。
 終わってみると、意外なことに、過去最高の瞑想ができた一日となった。
 勝因は、食のコントロールが瞑想の成否を決める鉄則どおり小食に徹し、不調故に淡々と無欲に取り組めたからだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月24日
★毎朝必ず瞑想してから出勤していた人が、何となくやらなくなった。
 ある日、会社の愚痴をこぼすと、妻に言われた。
 「最近、瞑想してないわよね。以前は、出勤していく後姿が頼もしく見えたのに・・」
 心を過る想念が善心か、不善心か、無思考かによって、顔の相も表情も全身の雰囲気も決まる。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月22日
★物事を客観視する智慧に不可欠なのは、複数の視座からの情報だ。
 カルトや独裁者は、必ず情報を一元的に管理する。
 確度の高い情報を分析し、類推し、自在に組み合わせ、考察し尽くしたら手放して忘れる。
 完全に思考が止まるまで瞑想を深めると、脳内発酵したものが洞察の智慧となって閃く・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月20日
★容易ではないが、人生の流れを変えるのは「決意(アディッターナ)」の力だ。
 反射的・習慣的に繰り返してしまう悪しき反応パターンを絶対に変える!と決意し、ブレなければ、いつか必ずそうなっていく。
 決意を支えているのは「信(サッダー)」であり、「信」を支えるのは正しい理解(智慧)・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月18日
★自分に与えられた霊的な力で人を救っていきたい、と言い残して、天才少女は姿を消した。
 ああ、そっちへ行ってしまうのかと思ったが、一期一会の出会いで何事かが成されていれば、それでよい。
 天賦の才能も宿業の結果であり、いかんともし難い業の力に押しやられて人生は展開していく。
 流れは変えられるが、わずかだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月16日
★20余年前に朝カルを受講した19歳の少女も天才的だった。
 初回の講座で歩く瞑想を習って驚いたのは、子供の頃から(自分も)知らずに同じ瞑想をしていたのだと言う。
 ほとんど妄想せず、毎日1時間の瞑想ができた。
 人は過去世の修行の続きをする、と言われるが、輪廻転生を想わずにはいられない。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月14日
★物事をあるがままの真実の状態で捉えるのが難しいので、ヴィパッサナー瞑想が必要となった。
 眼前の事実に妄想や先入観が投影され、嫌悪の眼で眺め、欲の心で触れ、認知が歪んでいくのが常だからだ。
 思考でまとめ上げられる眼耳鼻舌身の情報を、還元できない要素に仕分けて自性(本質)に迫る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月12日
★初心者講習会に来た20歳の方が、思わず見惚れてしまうほど美しい見事な歩行瞑想をしていた。
 幼い頃から習ってきたバイオリンの奏法を応用したのだという。
 「離れた→進んだ→触れた→圧」は、楽曲を分節に区切って何度も繰り返すレッスンと同じではないか・・と考えたという。
 本質に向かっての分析論・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月10日
★慈悲の瞑想が相手の心に影響を及ぼしたのか、本当のところは分からない。
 祈りが通じると信じた方が前向きになれるが、度が過ぎれば、慈悲が欲になりかねない。
 慈悲の瞑想の本義は、心の清浄道である。
 調和のエネルギーが外界に及ぶのを期待するよりも、本人の心が浄らかになっていくこと・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月8日
★さらに別の人も真似てみた。
 こちらを険しい顔でにらみつけてくるクライアントが気になっていた。
 コロナ渦のご時世にシングルマザーで大変だろうな、と心を込めて慈悲の瞑想を繰り返した。
 程なく「担当さんは優しい人よ・・」とクライアント達に吹聴しているという情報が耳に入ってきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月6日
★散髪中の慈悲の瞑想についてのツイッターを読んで真似てみた人がいた。
 リモート講座の修習生が攻撃的で刺々しいので、慈悲の瞑想を捧げたのだ。
 終ると、気持ちが優しくほぐれて、愛しさを覚えた。
 ほどなく「先生のことは前から尊敬していました・・」と思わぬメールが来てびっくりしたという。
 慈悲の効果なのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月4日
★苦しい人生になっていくのは、それに相応した不善業に起因している。
 その悪しき流れを善なる方向に転じるために、この世に生を享けた筈ではないか・・。
 因果論を聞法する機会に恵まれながら、さらなる苦海に向かって加速していく人たち・・。
 知的理解の限界か、習慣化された反応パターンの強靭さか・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

12月2日
★能力開発を期待して瞑想する人もいる。
 パワーアップして競合する者に打ち勝ち、地位も名誉も収入も、より多く獲得されると幸福度が上がるのだろうか。
 ヴィパッサナー瞑想は、真逆の発想だ。
 多く持てば持つほど、苦の根本原因である執着(=渇愛)が増すのではないか。
 欲を捨て、怒りを手放し、地位や名誉に執着せず、エゴを引き算するほど、束縛から解放され、自由になれるのではないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月30日
★心を浄らかにする。
 悪を避け、善をなす。
 反応系の心の浄化に不可欠なのは、決意の力だ。
 決意は、正しい理解と検証を繰り返しながら「信(サッダー)」に結晶する。
 一瞬の人生の現場で、反射的に下される意志決定を司っている「信」の確立。
 真の瞑想は、そこからスタートする・・・。

 


………………………………………………………………………………………………………………

 

11月28日
★嫌悪の対象には素早く気付きを入れて脳裏から消し去りたい。
 快感系の情報には気付きを入れずにしばらく楽しみたい・・・。
 エゴは必ず取捨選択をするし、集中には排除の構造がある。
 それゆえに、心の反応パターンを浄化しなければ、瞑想をやればやるほどエゴが強化されていくだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月26日
★日々嫌なことは起きるが、些細なことは気分転換して忘れればよい。
 深く傷つき耐えがたい苦になるほど抑圧されるが、直視して乗り超えない限り根本解決はしない。
 現実から逃避するには、一点集中型の瞑想。
 今の瞬間に集中し、苦しい過去から目を背けるのに便利なマインドフルネス瞑想・・。

 


………………………………………………………………………………………………………………

 

11月24日
★なんとなく憂鬱で、暗く、心が晴れやらぬ時には、満天の星空や広大な海原、遥かな山の稜線、青空などを仰ぎ見るとよい。
 美しいもの、崇高なもの、巨大なものに同化し、融合し、一体化してしまえば、世俗の苦しみや悩みなどバカバカしくなるだろう。
 対象との合一を目指すサマタ瞑想は集中力の特訓にも、心情の転換にも良い・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

11月22日
★慈悲の瞑想を始めた人の荒ぶる心、傲慢な心、冷淡な心は、やがて優しい心に塗り替えられていく。
 のみならず、情動脳がうるっとした瞬間、祈りを捧げた相手とこちらのオーラが相似形を描くようだ。
 物理学の量子もつれで説明できないだろうか。
 慈悲も怒りもどんな心も、瞬時に響き合う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月20日
★好感の持てるタイプではなかったので、散髪中に慈悲の瞑想をしたくなった。
 恐らくこんな悩みや願望を持っているのではないかと想像しながら、素晴らしい人生が全うできるように3度祈り、サティの瞑想に切り換えた。
 家路につきながら、脳裏に浮かんできた先ほどの理髪師が、親しい友人のような感じがしてきたのに驚いた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月18日
★愛する家族の幸いを祈るのに、わざわざ修行する必要があるだろうか。
 自然に発露するエゴの優しさと優しさが激突して憎しみが生まれる。
 部族や祖国への愛と愛が互いに戦争をしてきたのが人間の歴史だ。
 愛と優しさからエゴを引き算し、無我を目指すプロセスで体得されていく慈悲の瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月16日
★慈悲の瞑想は、優しい情感と明晰な無関心のバランスが至難の業だ。
 ただ文言を繰り返すだけでは実感が込めづらく、身近な家族を思い浮かべると愛執に囚われ我が強くなる。
 散髪中の理髪師などが案外うまくいく。
 名も素性も知らない相手に、黙って頭や顔を触られている絶妙の距離感・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月14日
★連戦連勝、順風満帆の上げ潮に乗りながら、常に身を低め謙虚でいることは難しい。
 例外の人達に共通しているのは、致命的な挫折を経験していることだろう。
 傲慢の鼻をへし折り、己の愚かさと不徳に眼を開かせてくれた痛恨のしくじりを最高の宝として、自戒を忘れぬ人達。
 過度の自虐は歪んだ自己愛に由来すると心得、敗因の研究が智慧の源泉と知る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月12日
★エゴイズムと煩悩が丸出しになって激突すれば、社会は成り立たず、狼にも人にもゲラダヒヒにも掟が不可欠となった。
 社会的規範としての律(ヴィナヤ)があり、人格完成を目指して自らを律する戒(シーラ)がある。
 形式やルールの遵守が目的そのものと化せば石頭になり、柔軟で自由な発想が過ぎれば逸脱し変容する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月10日
★上座仏教で出家しても、悟りを開けぬまま生涯を終える比丘がほとんどだ。
 だが、戒と律に守られた僧堂の生活は、残存する我執と煩悩を厳しく抑止するが故に、供養を受けるに値する。
 2500年の長きに渡って、ブッダの教えと行法を守り抜くことができたのは、「律(ヴィナヤ)」の力だと言える・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月8日
★形式に執われず、余分なものを削ぎ落として真髄のみを継承する発想には、常に危うさも伴う。
 ブッダの死後500年頃から、仏教は自由に解釈され分裂を繰り返し、時を経るうちに肝心の解脱観まで変容してしまった。
 最初期の教えと行法を厳密に伝える上座仏教の流れにより、辛うじてヴィパッサナー瞑想が修行できるありがたさ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月6日
★仏教と瞑想を引けば、何も残らない人生だった。
 寺にも大学にも組織にもどこにも帰属せず、公的認可も資格も権威も業績も家族も何もない、市井の瞑想オタクでしかなかった。 
 テーラワーダ仏教の瞑想なのに、宗教儀礼も信仰的要素もそぎ落とし、瞑想とダンマの本質のみが修養されればよいと考えてきた。
 あとは残余の煩悩と後生を願う生存欲を引き算するだけだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月4日
★もっと、もっと、と果てしなく求め、どれほど手に入れても満足しないのが煩悩だ。
 綺麗な、美味しい、気持ちいい対象に吸い寄せられ、甘美な妄想が脳内を駆け巡るからだ。
 外界に突き刺さっていく視線を内側に向け、妄想を止めると、このままでも充分に生きていけると気づく瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

11月2日
★新型コロナウイルスが猖獗を極めていた1年前、インドから30年ぶりにヒマラヤが見え、人も車も消えたロックダウン中の都市夜景が美しく輝いた。
 人流は姿を隠したが、裏ではメンテナンスが続いていた・・。
 人類滅亡後の地球がどうなっていくかを科学的に検証した番組を観たことがある。
 エネルギーの循環が途絶えた大都市の景観が、見るも無残に劣化し、風化し、死滅していく迫力のある映像だった。
 人も都市も石ころも電線も・・、存在は固定した実体ではなく、変滅する現象の流れに過ぎない。
 都市の美観も命のいとなみも、無常に逆らう束の間の動的平衡・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月31日
★若い頃は自分の力量を正確に客観視できず、夢や理想を持て余す。
 痛い目に遭いながら己の身の丈をわきまえてくると、迷わず、惑わず、羨望や嫉妬にも苦しまなくなる。
 因縁の違いを心得、己の程度の低さを受け容れることができれば、劣等感から解放され、果たすべき天命が知られてもくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月29日
★表層の心は変われても深層の心は容易に変わらない、と多くの瞑想者を通して思い知らされてきた。
 何億万回も貪りや慢の心を使ったので、基本的な心の癖や構造となって組み込まれたのではないか。
 たとえ同じコストがかかっても、今度は浄らかな方向に戻していくのが心の清浄道・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月27日
★ヴィパッサナーを始めて10年になる瞑想者。
 慢も欲も自身の課題は正確に把握し、その傾向が由来した幼少期からの来歴も心得ている。
 瞑想合宿にも内観にも行ったが、基本的な心の癖も構造も変わっていないと感じる。
 目指すべき方向は決めたので、レベルは低いが死ぬまで続けるだけだと所信を吐露されるのを伺い、心を打たれた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月25日
★涅槃経でブッダは言明する。
 「戒律と共に修養された禅定にも、定力の伴った智慧の修行にも、偉大な果報と功徳がある。
 智慧と共に修養された心は、諸々の汚れから完全に解脱する」
 戒(倫理)→定(サマーディ)→慧(洞察智の伴った気づき)が、解脱(苦の終滅)を完成させるブッダの瞑想法・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月23日
★殴りたい、奪いたい、ごまかしたい心に気づいて直ちに止める価値観もあれば、平然と実行する価値観もある。
 本能の脳に逆らっても、奪わず、怒らず、欺かない心を確立していくのが戒の修行だ。
 倫理と気づきと洞察の智慧の伴ったヴィパッサナー瞑想が、苦しみを根本的に乗り超えていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月21日
★仕事効率を重視する企業が利用するマインドフルネス瞑想は、いずれ破綻するだろう。
 妄想を一時停止させる技術は対症療法に過ぎず、たとえストレスが解消しても、何度でもぶり返すだろう。
 心の基本構造が変わらないからだ。
 倫理なき瞑想は、闘牛士が恐怖感を駆逐するために、銃を撃つ兵士がトラウマを未然に防ぐために、万引きを落ち着いて成功させるためにも使われ、やがて瞑想の本質を喪失する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月19日
★自分の心を正すのではなく、ストレスを巧みに解消し、パワーアップして昇進や高収入を目指す技法は欲の心を刺戟する。
 邪魔ものを排除し、価値あるものを奪い合う生存競争が激化すれば、弱肉強食の論理がエスカレートしていく。
 集団が破綻するのを回避しようとして、人類は、本能の脳をコントロールする抑制系の脳を搭載した。 
 初期設定された貪瞋痴に練習は不要だが、後発の抑制系には躾と教育と修行が不可欠・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月17日
★自分の心を直すのではなく、マインドフルネスでストレスを解消し、瞑想でパワーアップして昇進や高収入を目指す。
 いかにして価値あるものをゲットし、邪魔ものを排除し、勝者となるか・・。
 生存競争が激化すれば弱肉強食の論理がエスカレートして、集団は破綻するだろう。
 思いっきり貪って怒りたい本能の脳と、抑制する脳の葛藤が永遠に続く人類・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月15日
★戒は倫理の別名であり、人格を整える修行と心得るべきだ。
 ヴィパッサナー瞑想から倫理を削除したマインドフルネスでは、苦しみを乗り超える仕事は出来ないだろう。
 瞑想をすればするほど、エゴと欲が強化されかねないからだ。
 欲と怒りを引き算して無我を目指す仏教は、世の流れに逆らう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月13日
★瞑想を開始した瞬間、既に勝負はついている。
 体が整っていなければ、意識が透明に澄み切ることはない。
 意識が濁れば、集中は深まらず、凡庸なサティが続くだろう。
 食事や睡眠や体調が万全でも、悩みを抱え、心にやましさがあれば、妄想に巻き込まれる。
 それ故に、瞑想は五戒によって守られなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月11日
★自己を守るために、非自己である外敵や異物を排除するのが免疫だ。
 卵子はなぜ、異物である精子を排除しないのだろう。
 ウイルスが細胞に侵入する時の手口が応用されているからだ。
 異物を排除せよ?・・受容せよ?
 自己と非自己を乗り超えて、無我を目指す仏教の発想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月9日
★青二才だった頃は、あの手この手、何としても瞑想を実践させようとしていたが、黙って待つことができるようにもなってきた。
 資質も宿業も千差万別なのだから、瞑想の進展は因縁の流れに従うしかないのだと腹に落ちてもきた。
 自分で気づいた衝撃は、人に教えられ指摘された何十倍も心に響く・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月7日
★目を半眼に閉じ、かすかに微笑むかのような温顔で、一足一足の感覚を楽しむように歩行する姿は中国の古代仏画の女人のようだった。
 どこにも力みがなく、外界も人の目も眼中になく、静かに自分の瞑想感覚に没入しているように見えた。
 美しい歩行瞑想だった。
 歳月の流れを感じた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月5日
★「瞑想はやりたくないんです」と言って、ダンマトークだけを聞きに来ていた主婦の方がいた。
 好きなようにさせておくと、なぜ自分の心に向き合いたくなかったのかを自ら覚り、徐々に瞑想もやり始めた。
 直近の初心者講習会の手伝いに来られ、ふと見ると、歩く瞑想をしている姿が目に止まった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月3日
★本音で思っていることが、反射的に最初の反応として立ち上がりやすい。
 だから、訓練をしてオーダーを変えなければならない。
 人は必ず過ちを犯すものだ。
 そう心得て、過ちは過ちとして受け容れ、赦すと決めておく・・。
 浄い心も穢れた心も、諸々の条件によって生起し変化していくのだから、組み換えていくことができると信じる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

10月1日
★煩悩に汚染された心を浄らかにしなければならない。
 そう心得ているがゆえに、熱心な修行者ほど、貪ったり怒ったりした瞬間、反射的に嫌悪の心でサティを入れてしまう。
 まず未熟な、穢れた、愚かな自分を、ありのままに認めてサティを入れる。
 次の心で、必ず乗り超えると誓う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月29日
★優しいオーラのお父さんと、怒り波動のお母さんの、どちらに近づきたいだろうか。
 自己嫌悪も、過去への恨みも、他者への憤りも、どれも怒りに分類される。
 怒りが、人に好かれる筈はない。
 いわんや、人を癒すのも、寄り添うのも難しい。
 なぜ慈悲の瞑想が「私よ、幸せであれ」から始まるかの所以・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月27日
★優しさホルモンのオキシトシンは、身内や仲間に対する強い愛情や信頼を高めてくれるが、平等性や公平性に欠け、仲間以外の外集団を排除する傾向もある。
 優しく、温かく、慈悲深い心と、全てを公平に、等価に観る「捨(ウペッカー)」の心を同時に存在させるのが難しい人類。
 気づきの心と慈悲の心を統合していくヴィパッサナー瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月25日
★「あなたは優しくない」
 癌で死んでいく母親が息子の自分に遺した最後の言葉だったという。
 精神科医となった息子は、自分を嫌悪し、苦しみ抜いた果てに自らに言う。
 私は、私を赦します。(I forgive me)
 自分をありのままに受け容れたその時から、苦しんでいる方々と同じ地平に立つことができたと言う・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月23日
★幼い子供でも、好きな人や愛する人の幸せを祈ることができるだろう。
 だが、人の心に初期設定された自己中心性を乗り超えていかないと、嫌いな人や自分を嫌っている人への慈悲の瞑想は上手くいかない。
 「ワタシ、間違ってないから!」と言い張らずに、謝る練習をすると良い。
 自分に非はなかったか、落ち度がゼロだったか、と省みようとするとき、ギラギラしたエゴが手放されていく・・。
 硬くわだかまっていたものが溶解し、心はやわらかく素直になる・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月21日
★慈悲の瞑想を猛然と始めた人がいる。
 家族、友人、職場、道行く人、手当たりしだい誰にでもやった。
 すると、劇的に頭がスッキリし、素直な気持ちになれた。
 イライラや嫌悪の葛藤が鳴りをひそめ、脳内環境が整ったからだろう。
 優しいありがたい気持ちが溢れ、至福感に包まれたという・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月19日
★自己中心的な我見や我執を乗り超えるには、視座を転換させ、相手の立場から眺めてみる。
 相手と自分を上空から俯瞰するような客観視を練習する。
 何事も因縁因果の流れで生起し変滅していく理を考察する。 
 利己的な執着を手放す修行として、善行(利他的行為)を習慣化するのも良い・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月17日
★ま、そうだろうな、と解っても、浮かんできた記憶と、嫌悪や怒りの情動を仕分けてサティを入れるのは容易ではない。
 嫌悪や怒りに巻き込まれず、対象化できれば立派なものだ。
 反射的に「嫌な記憶」として反応してしまうのを乗り超えるには、自我への執着を手放す修行をしなければならない・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月15日
★なぜ、ヴィパッサナー瞑想で苦しみが乗り超えられるのだろう。
 快いものも不快なものも、善きも悪しきも、公平に、ありのままに、淡々と気づいていく修行によって、受け容れる力が養われるからだ。
 トラウマも、怨みも、罪業感も・・、過ぎ去った事を受容できないと、人生は苦しい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月13日
★生きるのが苦しいとしたら、その原因は必ず過去にある。
 親子関係や劣等感、罪業感や心の傷を引きずっているのに目を背けていないだろうか。
 過去から解放されなければ、良い瞑想はできない。
 心が整い、体が整い、人生が整って、戒の修行が整ったと言える。
 解脱に向かっての瞑想はそこからだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月11日
★瞑想修行に「戒→定→慧」の流れがあるように、自我の確立をしてから、無我を目指す修行に入るのが順番だ。
 小児的エゴイズムを乗り超えて大人になるためには、エゴとエゴが正面から激突し合うガチの人間関係を通過しなければならない。
 人の世でシゴかれ、揉まれ、人格を磨いていく「戒の修行」・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月9日
★「自らを拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」とブッダは説いたが、もとよりエゴの自分が拠りどころになろうはずはない。
 涅槃経には、拠りどころにすべき「法」とは、四念住(身受心法)の瞑想を実践することだ、と明示されている。
 「身・受・心・法にサティを入れ、エゴ感覚をそぎ落とし、ダンマ(法)が顕わになった自らを拠りどころにしなさい。
 怠ることなく修行を続け、果てしない輪廻の流れから解脱しなさい・・・」
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月7日
★孤独を寂しく、苦しく、耐え難いものに感じさせているのは、食欲・性欲と並ぶ集団欲の本能だろう。
 それでも独り犀の角のように歩むことになる者は、心にどんな安全基地を持てばよいのか。
 ブッダの遺訓は「人を拠りどころとせず、ダンマ(法)を拠りどころとせよ」だった。
 因縁の流れにより、独りダンマと共に生きる道もある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月5日
★袖すり合うも多生の縁。
 過去世で共に修行した法縁があれば、今世でもまた同じ空間で瞑想修行することもあるだろう。
 仲が良く、助け合い、切磋琢磨した友もいれば、羨み、妬み、邪魔をしたライバルもいるだろう。
 善き人に助けられるのも、悪しき人から災いが降りかかるのも、宿業が展開させた必然の結果と心得る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月3日
★行為がなされた瞬間のエネルギーが、やがて同様の現象を我が身に惹き起こす。
 たとえ劣善でも、瞑想者を助ければ、己の修行が支えられ助けられる環境に恵まれるだろう。
 業の力で環境は整うが、己の心を浄化するのは純粋な利他心・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

9月1日
★情けは人の為ならず。
 世のため人のために善行をすれば、同じことが未来の自分に起きるだろう。
 と、業の法則を学んだ初心者は、自分の利益のために人に善をなそうと考える。
 不純な「劣善」に分類されるが、善行を何もしなければ何も始まらない。
 善行も必ず成長していくし、やがて「中善」→「勝善」と昇格する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月30日
★淡々と修行している時には、慈悲の瞑想も利他の心も忘れることはない。
 しかし瞑想がなまじ進んでくると必死になり、邪魔が入るのを嫌い、自分本位になりがちだ。
 因縁の流れに従うことも、諸力に支えられている本来も忘れて、精進がエゴの自力になっていることに気づかなくなる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月28日
★善行をすれば瞑想が進むだろう、と期待したわけでもない。
 何を、どうやっても、それ以上瞑想が進まないのにお手上げ状態だった。
 瞑想が頭打ちなら、せめて他の瞑想者の尊い修行のために何かやらせて頂きたかった。
 それまで、落葉で埋もれそうな私のクーティを見かねた隣の比丘に掃除をさせてしまっていたことに恥じ入った・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月26日
★タイの海辺の寺で、作務も善行も何もせず、ひたすら禅定に入って悟ってやろうと修行していた。
 渾身の力を振り絞ったが行き詰まり、やむなく掃除を思い立ち、他人のクーティや寺の境内まで掃き清めた。
 ささやかな善行をすると、なぜか心が爽やかになり、瞑想が少し進んだように感じた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月24日
★・・と、わかっていても、心はいつの間にか過ぎ去ったことを思い出してムカつくし、落ち込むものだ。
 サティが入らなくなるのは、心の奥底から納得していないからだ。
 エゴが思い込んでいる認知が変わらなければ、同じ反応が繰り返されるだろう。
 執着を手放せる瞬間が訪れるまで、何度でもサティを入れ直していく苦しい戦いが、修行だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月22日
★人は、現在の事実ではなく、過ぎ去ったことで苦しむ。
 昨日のことで、去年のことで、幼少期のトラウマで、今電話を切った横柄な顧客のことで、1秒前に心を過った不快な連想で・・・。
 反省し、学ぶべきを学んだら、もう振り返らない!と決意する。
 苦は乗り超えられる。
 あるがままに観る瞑想の実践で・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月20日
★コロナ騒ぎで仕事が減少したが、瞑想時間が増えた。
 独り暮らしの引き籠り生活が、奇異な目で特別視されることもない。
 孤独に瞑想する時間がないと生きていけない者にとって、コロナは禍だったのか福だったのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月18日
★カンの鋭いはずの女性がオレオレ詐欺にハメられるのは、情報源が音声のみに限定され、しかも受話器の耳元で囁かれるからだという。
 メールやオンラインのコミュニケーションも、ライブの瞑想会と比べると圧倒的に情報量が違う。
 瞑想者が暗黙に発しているオーラ、表情、目の色、話し方、一挙手一投足から伝わってくる存在感・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月16日
★神仏の加護と救済への信仰に惹かれていく背景には、不完全な母子関係やマザコンの問題があるのかもしれない。
 人には拠りどころが必要だ。
 解脱したブッダですら、「これからは、私の悟り得たダンマを拠り所にしていこう」と呟いた。
 真理が拠りどころとなるには、自己完結していなければならない。 
 絶対的な救済の妄想で心の欠落を補完しながら、遥かなゴールを目指して歩んでいく道・・・。 
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月14日
★たとえ神や仏が実体のない虚構だったとしても、信仰の対象として生きる拠りどころになるだろう。
 いや、妄想だからこそ、全知全能も絶対的な母性も、どんな究極の夢も理想も付与できるのだとも言える。
 人間同士の絆は壊れやすいが、揺るぎない安全基地の幻想をリアルに錯覚できれば、自滅の泥沼から救い出される・・・。 
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月12日
★己の愚かさ、卑しさ、程度の低さに眼を叩かれれば、愕然として打ちのめされる。
 エゴの無力さが痛感されると、三宝に全てを委ねて、与えられたものを尽く受け容れていく覚悟が定まるかもしれない。
 こうして、信仰の道が開かれていく。
 究極の自我の終焉には、涅槃の一瞬が不可欠だが・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月10日
★殺す者は殺され、奪う者は奪われ、罵る者は罵られる、とブッダは説く。
 この世は業の世界であり、天に向かって唾を吐くように、全て我が身に降りかかってくる。
 だが、カチンと来た瞬間、業論などブッ飛んで、拳を上げ、怒鳴りつけてしまう。
 苦の報いが来れば逆ギレし、終りなき因果がめぐり続ける・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月8日
★人と喋っていれば、TVを点け放しにすれば、インターネットをクリックし続ければ、意識の矢印は次々と外側に向けられ、しばし淋しさがまぎれ、自分の心と向き合わないですむのかもしれない。
 人と群れるな、お喋りを止めよ、独り樹下で瞑想せよ、と言い続けたブッダ。
 仲間が何人いようとも、瞑想はただ一人の道・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月6日
★真剣に瞑想する仲間の姿を見れば、瞑想のヤル気が高められる。
 集団と共に生きることを選んだ人類は、「場の力」に圧倒される。
 17年間、一日も欠かさず水をかぶって修行していたのは、自らを律していくためだった。
 独り犀の角のように歩む道を選べば、試行錯誤と自滅との戦いの日々・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月4日
★深い禅定状態にも、完璧にサティが入り続けるマインドフルネスにも、終わりがある。
 思考モードが戻れば、喜怒哀楽も欲も怒りも自己チューも、回帰してくる凡夫の悲しさ。
 本能を司る脳が残っているのに、煩悩滅尽状態が維持される聖者の不可思議・・。
 量り知れない涅槃の衝撃力・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

8月2日
★拍手喝采で絶賛する人も、罵詈雑言を吐き散らす人も、自分の妄想世界を勝手に生きるのが人類だ。
 思考でまとめ上げられた認識世界は、あるがままに、ただ存在している世界とは何の関係もない。
 鯨の見ている世界があり、ゴキブリの認知している世界もある。
 概念世界を超える瞑想が、解放に導く・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月31日
★家族が全員津波に呑まれ、一人だけ生き残ってしまった女性が、避難所で日がな忙しく立ち働いていた。
 立ち止まれば、思い出してしまう。
 悲しみに向き合ってしまう。
 どうやって生きていけばよいのか、途方に暮れてしまう・・・。
 安全だった都会でも、仕事に、恋愛に、子育てに、ゴミ出しに・・・忙殺されることによって、自分に向き合う時間を無くそうとしているのではないか。
 ヴィパッサナー瞑想をすれば、真実から逃げられなくなる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月29日
★瞑想をすれば心が変わり生き方も変わっていくが、煩悩が根絶やしになる訳ではない。
 煩悩滅尽の奇跡は、解脱の瞬間にしか起きない。
 それまでは、怒りや貪りや高慢を遠ざけ、反応系の心を段階的に組み替えていくしかない。
 マインドフルネスを維持するサティの技術と、総力戦の智慧の修行・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月27日
★優れた友を得ることは、孤独な道をひとり行くよりも良い、とブッダは推奨する。
 信頼できる人の存在は安心感の拠りどころだが、濃密な関係になるほど、裏切られ破綻した時の苦しみも激烈になる。
 上座仏教の寺の人間関係は、慈悲と戒律に守られ、淡々とした距離感と節度が保ちやすい構造だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月25日
★上手くできないから練習するのだ。 
 孤独な修行者は、失敗から多くを学ばなければならない。
 上手くいけば勝因を、ほとんどの場合は敗因を、徹底的に分析し、考察を深め、経験値を高めていく。
 運の悪い者は自滅し、運の良い者は花開く。
 運命とはカルマの別名であり、全ては徳があるか否かだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月23日
★コロナ自粛期間中の孤独な精進がいかに難しいか、多くの方から耳にした。
 「独り犀の角のように歩め」るのは、独覚タイプの少数派に限られるだろう。
 孤独に強いタイプも弱いタイプも遺伝子で決まっているが、集団で生きる人類の宿命として、圧倒的多数派は孤独を寂しく辛いと感じる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月21日
★人間関係も孤独も将来不安もどんな人生苦も、瞑想に集中し、思考モードを離れれば、どうでもよくなるだろう。
 だが、瞑想が終わって日常意識に戻れば、心の反応パターンも元の木阿弥になる。
 深層から心を組み換える修行には、人生全体の総力戦を覚悟しなければならない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月19日
★たとえ妄想の嵐が鎮まり、空っぽになっても、知識も経験も情報も何も仕込んでいない心に智慧が生じることはない。
 本能や遺伝子に組み込まれた知恵は、生存競争に勝ち抜くためのものばかりだ。
 貪って怒って、敵を倒し、生存欲を満たす「煩悩」という名の命のプログラム。
 他の生命に苦しみを与えながら生き残ろうとする発想が、未来の我が身に苦をもたらしている。
 一切皆苦の構造から解脱しようとする仏教は、反自然・反生命に向かう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月17日
★万策尽きた時には、ひたすら歩く瞑想をする。
 エゴが宰領する猿知恵の世界は行き詰まったのだから、歩行感覚に集中し、心を空っぽにする。
 浮上してくる雑念にはサティを入れまくり、思考モードを離れることができれば、やがて直観智が閃くだろう。
 心は、全力で切実な問題を解こうとしている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月15日
★事実をありのままに客観視するマインドフルネスを妨げる天敵は、巧妙に忍び入るエゴ感覚だ。
 良い瞑想ができている感動→嬉しさ→自己満足→得意満面→傲慢・・・。
 諸々の条件がたまたま揃っただけなのに、それを自分の手柄と錯覚する妄想にサティが入らないのだ。
 「感動」にも「嬉しさ」にもサティが入らず、自惚れている自分を対象化できない愚かさ。
 傲慢なエゴ妄想が展開してしまう反応パターンを書き換えてくれる懺悔の瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月13日
★透明な体感が得られても、心に掴んで手放せないものがあれば、瞑想は破綻する。
 人を赦し、自分を赦し、己の運の悪さ、ネガティブな暗い宿業を受け容れなければ、心に重くのしかかる闇が晴れることはない。
 無差別殺人鬼の仏弟子アングリマーラが黒い塊を吐き出して解脱した史実ほど、懺悔の瞑想の励みになるものはない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月11日
★食べ過ぎて頭がボーッとしている状態が、瞑想には最悪だ。
 体を整え、意識の透明度を増し、瞑想を深めるには、食をコントロールしなければならない。
 労働するなら完食すべきだが、瞑想にはバランスのよい食事を腹六分目程度がよい。
 つまり、食欲に抗い、もっと食べたいのに、止めなければならない。
 瞑想は、アンチ煩悩、反自然を本質とし、世の流れに逆らうもの・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月9日
★ただ生きているだけで、心は汚れていく。
 悪い想念が絶えず脳裏を掠めるからだ。
 だが、座る瞑想を始め、全身の体感を感じた瞬間、意識モードが切り換わっていく。
 愚かな自分、汚れた自分、傲慢な自分を痛切に懺悔したくなる。
 瞑想は心を浄化する。
 瞑想は、まず体調を整えることからだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月7日
★孤独にならなければ、瞑想はできない。
 「思考を止めよ。イメージに手を出すな。物事を概念化せず、あるがままに如実智見せよ」と求められているからだ。
 街を出歩き、人と交わり、俗事に執着していて、妄想が止まるだろうか。
 瞑想修行に入ることを「リトリート(撤退・隠遁)に入る」と言う。
 俗世を離れて、僧院に籠るからだけではない。
 眼耳鼻舌身の五感の対象に手を出さない覚悟を定めるからだ。
 この世から限りなく撤退した果てに、執着を完全に手放す瞬間が訪れる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月5日
★ワクチンのなかった1年前、ヨーロッパ各国では、一定時間になると街中に拍手が鳴り響いた。
 コロナと戦う医療従事者に感謝を捧げ、エールを送るためだった。
 日本では、感染者がバッシングされ、医療従事者の家族までもが忌避されていた。
 自分が感染した時に、いったい誰に治療してもらうのだろう。
 不安遺伝子が世界一の日本人+妄想+痴(愚かさ)+無慚(恥知らず)+自己中心的なエゴイストの視座・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月3日
★感染の恐怖も、経済的不安も、正義中毒も、妄想に端を発している。
 たとえプラス思考をして、明るいことや楽しいことを考えても、苦が襲来する現実を免れることはできない。
 概念モードを離れれば、自分を客観視するメタ認知の視座が得られる。
 思考が止まると、脳内情報がゆるやかに結晶し、直観智が閃く可能性が開かれてくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

7月1日
★自国ファーストを叫ぶ大統領がWHOへの資金拠出を停止した直後、「サピエンス全史」の著者が1億1000万円の寄付をした。
 「もし中国とドイツからウイルスの遺伝情報を、イタリアと米国から治療法の情報が得られなければ、祖国の病院は無力だった。今こそ世界が連帯し情報共有すべきだ」とハラリは言う。
 知行合一、言行一致・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月29日
★やり場のない不満や怒りが、スケープゴート叩きの集団ヒステリーになりかねないご時世。
 今こそ、意識の矢印を外界から自分自身の内側に向けるヴィパッサナー瞑想が必要なのではないか。
 もし怒りや苛立ちが自覚されたら、一転、自分よりも苦しんでいる人達に向けて慈愛の念を放つ瞑想で乗り超える・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月27日
★思考が止まろうが禅定に入ろうが、瞑想が終了し日常モードに戻れば、不安もストレスも劣等感も回帰してくるだろう。
 発想が、思想が、生き方が、本心が、変わらなければ、どんな瞑想も「現世の楽住に過ぎない」(削減経)。
 心の反応パターンを根底から書き換える覚悟とその実践こそ真の瞑想・・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月25日
★不安も、ストレスも、ブチ切れるのも、集団ヒステリーも・・すべて思考や妄想が惹き起こした反応に過ぎない。
 思考モードを離れれば、全てが雲散霧消するだろう。
 起きたことは、仕方がない・・。
 今こそ自宅で瞑想する機会を天が与えたくれた、と受け止める・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月23日
★大本営発表!と真っ赤な嘘で扇動したのは、当時の日本だけではない。
 世界中のどの国も、そうなっていくのが戦争だ。
 自由に物が言えるのも平和時だけで、集団ヒステリーが始まれば、正論を吐く者は、非国民!裏切り者!と血祭りにされてしまう。
 人をイナゴの大群と化す妄想の爆発的感染を止める瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月21日
★コロナ騒動の熱狂は、無謀な戦争を続けた80年前の世相を連想させる。
 人類が巨大な集団を形成できたのは、情報=現実と錯覚する共同幻想の力によってだ。
 ルワンダの大虐殺、ナチスに扇動されたドイツ、文化大革命の暴徒化した紅衛兵・・どの集団ヒステリーにも共通するのは、情報を盲信する構造・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月19日
★かつては愚行を重ね、過ぎ去ったことに執われ、自分を嫌悪し、生きることがただ苦しかった。
 だが、もう生きられないと極まったとき、仏教の視座を得たことにより、ネガティブ体験の一切が輝きを放ち始めた。
 妄想に執着し、苦に打ちのめされなければ、ブッダの道を歩むことはなかっただろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月17日
★老いが深まるのは苦しいことだろうと覚悟してきたが、死のゴールに向かってひた走る今が、人生最良の日々と感じられるのは意外だった・・。
 愚かしい生涯だったが、諸々の因縁が否応なく展開したのだから、悔いはない。
 未来を憂えている暇はなく、何事もこれが最後の感覚で取り組める充実・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月15日
★ジャパンハートの1Day寄金が、開始後21時間で目標額1億円を達成した。
 これは〆切の力、たった一日という刻限のなせる業だろう。
 終わりが定まれば、人は本気になれる。
 だらだら長生きできると思えば、煩悩が蠢き出す。
人生の最終章を自覚して以来、一瞬一瞬の輝きを痛切に感じる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月13日
★コロナウイルスで外出できず、密室の暴力(DV)が急増しているという。
 閉鎖されたストレス、感染死、経済、将来への不安・・、いずれも諸悪の根源は妄想する脳のシステムだ。
 ミャンマーの政治犯として6年間の苛酷な独房生活に耐えた人もいる。
 ヴィパッサナー瞑想を毎日20時間実践したという・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月11日
★家族との絆を捨て、この世から出離する原始仏教の出家は、生きとし生けるものへの慈悲が発露しやすい構造だ。
 だが、なし崩しにスマホを持ってしまったタイの出家者の解脱は、一段と困難になったのではないか。
 俗世のあらゆる情報にアクセスしながら、どうやってこの世を全捨てできるのだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月9日
★愛する家族、財産、地位、名誉があれば、反射的に守ろうとして、エゴ的反応が起きやすい。
 家族を持たず、野望も、不満も、守るものも、失うものもなければ、怖れるものがない。
 未だに道を極められないドゥッカ(苦)は続くが、生じてきた優しい気持ちは、不特定多数への慈悲の瞑想に昇華されていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月7日
★欲望を刺激し、怒りのエネルギーでヤル気を駆り立て、バカ騒ぎをしては、この世を楽しむ。
 そんな貪瞋痴の世界に逆らい、孤独に自己を客観視する瞑想修行・・。
 物理的な孤独には耐えられても、自分に向き合い続けるのは至難の業だ。
 他人を、外界を、ネットの世界を眺めたい、見物したい、バーチャルな情報の濁流に呑み込まれ、押し流され、溺れたい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月5日
★人と交わり集団で生き延びてきた人類は、本能的に孤立や孤独を嫌う。
 しかるに、感染症の猛威に緊急事態宣言が発動し、人流が止められ、巣籠もりせよ、孤立しろ、と強いられてきた。
 起きたことは全て正しいのであれば、出歩かず、自宅に隠棲し、ひたすら瞑想せよ、という天の声と解釈すべきだろうか。
 雨が降ろうが槍が降ろうが、樹の下で、廃屋で、瞑想せよ、群れるな、と説き続けたブッダ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月3日
★怖ろしい勢いで世界中に蔓延していった感染症が、慈悲の瞑想を深めてくれたのは意外だった。
 イタリアの、スペインの、アメリカの・・人達が健やかであれ、とこれほど身近に感じながら祈ったことはなかった。
 極微の敵に人類全体が襲撃され、不思議な一体感を覚えた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

6月1日
★殺生戒を守り、医療関連への布施をし、慈悲の瞑想を日課としてきた者が、不慮の災害や死に襲われるのであれば、それは避けようのない業の帰結であり、必ずそうなる宿命だったのだ。
 仕方があるまい。
 因果論が腹に落ち、なすべきことをなしてきたのなら、何が我が身に起きようと、ことごとく受容できるだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月30日
★阪神淡路でも東日本でも、ある日、突然襲いかかった大量の死と悲しみに全てが一変した。
 自分に残された時間も、最期の瞬間がいつ訪れるのかも、誰にも分からない。
 感染症の脅威も明日は我が身、何事もこれが最後、今日で最期・・と思いを新たにしなければならない。
 さあ、最後の瞑想をやろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月28日
★「法のみを拠り所とし、他を拠り所とするな」
 「この世のことは陽炎のごとく、泡沫のごとく見よ」
 と、ブッダは説かれる。
 真実が見がたいのは、見えても聞こえても匂っても、反射的に思考がまとめ上げる概念ワールドが形成されてしまうからだ。
 情報感染が、猛威を振るう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月26日
★この世に咎を見て、存在の世界からの解脱を目指すのが本来の原始仏教だ。
 古来から、命を懸けて瞑想修行がなされてきた。
 毎回これが最後の覚悟で瞑想会に臨んではきたが、先の見えないリスキーな情況ゆえに身が引き緊まり、原点に立ち返る・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月24日
★細菌やウイルスで病死するのは免疫力の衰えた高齢者が多く、太古の昔から免疫力の強い者が生き残った。
 免疫力を低下させる元凶は、ネガティブな妄想がもたらすストレスだ。
 妄想を切るヴィパッサナー瞑想は心に静けさをもたらし、副交感神経を優位にし、免疫系を賦活するだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月22日
★わびしい孤独、物欲しそうな孤独、怒りに満ちた孤独、ひねくれた孤独、哀れな孤独・・・。
 悠然とした孤独、優しさも信頼も安心も十分に得てきた孤独、豊かな孤独、自己完結した孤独・・・。
 自らの中に顕わになる法(ダンマ)のみを拠りどころにした孤独・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月20日
★妻と息子夫婦と孫娘が一瞬にして津波に呑まれ、ただ独り生き残ってしまった消防団の老人が泣き崩れた。
 20歳になった孫娘の親友が訪ねてくれたので笑顔で迎えたが、突然、抑えがたく激しく嗚咽した。
 9年の歳月が流れても、悲嘆は癒えないのだ。
 愛する者への執着が深ければ、孤独地獄は耐えがたく、豊かな孤独は至難の業・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月18日
★30年も会わなかった知人が危篤と聞き、身内に同行し病院に見舞った。
 初対面の息子から、先ほど逝去した、死因は肝炎、と告げられた。
 集中治療室に横たわる遺体を前に、良き再生を祈り合掌した。
 帰途、去来する追憶イメージの実感が迫り、胸が熱くなった・・・。
 石のように微動だにしないデスマスクには、有無を言わさぬ完結性がある。
 さあ、次は、我が身だ、と身を引き締め、駅に向かって歩いた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月16日
★解脱した聖者でも、業が帰結する力に抗うことはできない。
 2度刺客から逃れた目連尊者も3度目は凶刃に倒れ、ブッダも怪我をしたり罵詈雑言を浴びせられた。
 病むのも死ぬのも、因縁があれば必ずそうなってしまうのが業の異熟(現象化)だ。
 因果論を心得て、起きたことは受け容れるしかないと腹を括る。
 なすべきことをなし、慌てず騒がず、瞑想する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月14日
★日暮里の瞑想会場は換気しやすい風通しのよい立地だが、トイレの引戸やドアノブを殺菌し、発話量の多いインストラクターはマウスシールドの上にフェイスシールドを付けて飛沫を止めている。
 不安を煽り立てる報道や妄想に反応せず、野生動物のように、ただ事実に向き合う練習・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月12日
★新型コロナウイルス騒ぎで、日本中がパニックの1年だった。
 2020年12月21日までの約1年間、コロナウイルスによる死者数は2,964人。
 2018年度のインフルエンザ死者数は3325人、2019年1月には1ヶ月に1685人が死んでいる。
 どちらもウイルスなのに、なぜコロナよりも恐ろしいインフルエンザでは大騒ぎしないのか。
 余計な妄想を止めれば、常に事実があるだけだ。
 何が起きようと、引き受けていく覚悟。
 その不動心のために瞑想する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月10日
★自らの重さで倒れていく体に、自然に足が出る忍者歩きは、体の意向に添い遂げようとして心が空っぽになっていくかのようだ。
 そう気づくと、これまで意志と集中力の力業で、強引に心身一如を達成させていたエゴの臭みが浮かび上がってきた。
 起きたことは全て受け容れて、空っぽになっていく道・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月8日
★忍者歩きが鮮烈だったのは、立て、歩け、と身体に命じている自由意志が無くなったかのような印象だ。
 心身一如を目指して奮闘したのではない。
 自らの意志で勝手に歩いていく身体の中に、心が融け込んで吸収されたかのような心地よさがあった。
 やがて冷気や風圧や街路樹など、外界の環境との一体感がやさしく訪れてきた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月6日
★忍者歩きには、体が勝手に歩くような受身の印象がある。
 重心が前に移動し、体が前に傾くと、自然に足が前に出る。
 腕は固定し、右の体がグラリと前に傾けば、その重心を支えるように右足が前に出る・・。
 こちらは何もせず、体重が移動する流れに足がひとりでに伴っていくのを淡々と感じていく歩行瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月4日
★甲賀流の忍者歩きを練習しながら約1時間、夜の歩行瞑想をしている。
 日本古来の歩行法「ナンバ歩き」と似ている。
 手足をクロスさせる西洋式と異なり、右足と右半身、左足と左半身が並行する。
 新しい技法の習得が新鮮で、体感の推移に集中する身随観の純度が高くなった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

5月2日
★私がヴィパッサナー瞑想に出会うことができたのは、原始仏教を日本に根付かせる活動をしてきた上座仏教修道会の設立者竹田さんとの御縁からだった。
 東日本大震災で損傷した跡地に仏塔・瞑想堂・僧房を建設する資金に難儀していると耳にし、貧者の一灯をお布施した。
 戒壇と仏塔建立のプロジェクトは、その後順調に進捗していると耳にする・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月30日
★古代ローマの寛容(クレメンティア)は、カエサルの度量の大きさと当時の民度の高さに由来する。
 恭順を誓った敵を赦し、相手の言語も宗教も慣習も容認し、一方的な支配や価値観を押しつけず、失敗を許し、言論の自由を保障し、批判本の発行まで黙認した。
 利己的な邪悪さがはびこるのには何の努力も要らない。
 寛容という高度なメンタリティーが維持しきれなくなった古代ローマは衰微し、やがて滅亡していく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月28日
★異物(非自己)である食物が免疫によって排除されないのは、消化のプロセスで分解され、希釈され、微量になるからだ。
 軍団が解体されれば無力化されるので、バラされた兵卒は排除せずに取り込み、同化させて利用することもできる。
 だが、非自己の異物全体を丸ごと受け容れるほど寛容になれば、こちらの自己同一性が危うくなる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月26日
★豚肉やセロリや牡蠣や卵などの異物を日々取り込み、消化し、同化しなければ生きていけない。
 一方、異物である非自己を徹底的に排除しなければ、自己同一性が崩壊し、生存が保てない。
 だが、意外なことに、自己が非自己を排除する免疫のシステムには、「寛容」の本質も組み込まれていた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月24日
★異物の排除が激化すれば、自分を攻撃する自己免疫疾患に陥るかもしれない。
 ヴィパッサナー瞑想の特長は、全てを受け容れる心が成長することだ。
 どんなことも一旦受容しないと、物事をありのままに観られないからだ。
 起こるべくし起きたことは、その因縁の流れに従い、全て受け切っていくと覚悟する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月22日
★人混みや三密を避けても、仕事帰りの家族から感染するかもしれない。
 完全抗菌など不可能だから、免疫システムが進化したのだ。
 食事と睡眠に気をつけ、運動と風呂で体温を上げ、瞑想をして不安やストレスを一掃し、心に安らぎと静けさがみなぎれば、免疫力は最高に高まるだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月20日
★新型ウイルスの感染であれ怪我や事故であれ、身体に苦受を受けた瞬間、殺生戒系の不善業が一つ消えていく・・・。
 ありがたいではないか。
 風評に踊らされ、不安や恐怖の妄想に怯えれば、ストレスホルモンが分泌して免疫力が低下するだけだ。
 いかなる時にも瞑想し、心静かに、腹を括っておく覚悟・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月18日
★快いものを貪り求め執着する本能を、自然搭載して生まれてくるのが生命だ。
 一方、胎児の手指や幼児期の脳神経細胞、免疫細胞の9割には、次々とアポトーシス(プログラムされた細胞死)が起き、生命の最適化が計られる。
 貪り求めるのも(足し算)、手放すのも(引き算)、どちらも根源的な生命のシステム・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月16日
★欲望と欲望が力で淘汰される生命の世界で、その欲望を自ら抑止する脳が搭載されたのは、群れを作る必然に由来したのだろう。
 個体の欲望と怒りを制限するシステムがなければ、狼もゴリラも人類も群れの統制が取れなくなる。
 煩悩の脳も、貪瞋痴を引き算する脳も、生命の本質に根差している・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月14日
★快を貪り求め、多く所有するほど幸福度が上がると考える足し算の幸福原理は、何がなんでも生存し増殖しようとする生命の本質かもしれない。
 だが、地球の資源にも人類の異常増殖にも上限がある。
 仏教が提示してきた、欲望とエゴの引き算がもたらす静けさと優しさの価値を学ぶ時が来ている・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月12日
★歩行感覚の一点のみに集中するのは、シンプルな構造ゆえに初心者でもサティを持続しやすい。
 思考の流れや朗読の意味を客観視する仕事は、内容に反応し食いついた瞬間、次の概念やイメージが団子状に連鎖し、サティの瞑想は崩れる。
 テキストの最初の意味だけを理解し、後続の連想を断ち続けられるだろうか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月10日
★不意に、テキストの朗読が終わった。
 次の瞬間、歩行する足以外の背筋の感覚や体幹のブレの有無、遠くで聞こえる車の走行音、思考の流れ・・がどっと押し寄せてきた。
 なるほど。
 意味を理解するプロセスにサティを入れる。
 この際どい仕事に注がれていた注意が、一気に振り分けられてきたか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月8日
★ヴィパッサナー瞑想を始めた当初から、なぜか意識の流れや思考の展開が詳細に気づかれた。
 眼耳鼻舌身の情報に必ず伴っている微かな連想にもサティが入った。
 今回、思考や連想に気づくのも、朗読の意味を理解する一瞬一瞬にサティを入れるのも、ほぼ同じであることが検証された。
 聴読しながらサティは可能・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月6日
★毎夜、速歩で歩きながら、六門開放型のサティを入れるのだが、聴読をしながらサティの瞑想が可能か訝ったのだ。
 「聴読」とは、文書や電子書籍をアイポッドの朗読で耳から読むことだ。
 歩行感覚に機械的なラベリングをするのは容易だが、言葉の意味を理解するプロセスに気づき(サティ)を入れるのは至難の業だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月4日
★ミャンマーの森林僧院では、ミャンマー語のダンマトークと英語の通訳が数分おきに繰り返された。
 ミャンマー語の間はサティを入れ続けたが、英語は内容の理解に徹した。
 言葉の意味を理解しながらサティは入らないと思っていたが、本当はどうだったのか。
 歩く瞑想をしながら検証してみた・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

4月2日
★歴史を学び、夢と希望に向かう人もいるし、トラウマに苦しみ、将来不安の妄想で自滅する人もいる。
 想像力を持たないチンパンジーは、「今、ここ」だけに心を使いきり、過去を恨まず、未来に絶望することもない。
 妄想を止め、サルの脳で経験し、ヒトの脳でラベリングするヴィパッサナー瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月31日
★執着すれば人生が苦しくなる渇愛の構造。
 だから「この世のことは泡の如く、陽炎の如く視よ・・」とブッダは言う。
 そうは言われても、では、そのようにと、できないのが我々凡夫だ。
 だから、不幸は儲かるよ、幸福はすり減るよ、と因果論を腹に落とし込み、苦楽を等価に観る捨の心を養うのだ。
 業の結果に一喜一憂する世界に飽きれば、悟りたくなるだろう・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月29日
★うるさい、臭い、痛い、損した、と苦受を受ける一瞬一瞬ごとに現象化した不善業が消えていく・・。
 楽しい、美味しい、儲かった、やったぜ!と楽受が続く幸福の日々の実状は、徳のポイントが恐ろしい勢いで費消されているのだ。
 因果が織り成す業の世界では、不幸は負債の返済、幸福は貯金の切り崩し・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月27日
★「私」の拠りどころは、そのへんのお母ちゃんではなく、完全無欠の絶対的存在だぞ。
 この「安全基地」効果は絶大だ。
 が、しかし、「私」の究極の拠りどころが侮辱されれば、敵を殲滅するまで戦い抜くし、ミッションを与えられれば何だってやるだろう。
 人のマインドの構造を心得て、<大義>を操作してるのは誰・・・?
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月25日
★事実であれ思い込みであれ、親から十分に愛されなかった不満と寂しさがあれば、絶対的な母性を求めずにはいられない。
 聖母マリアや阿弥陀仏の共同幻想が形成され、民族や国家を超えて共有されていった所以だろう。
 三宝の加護を祈る心にも、その要因があるのかもしれない。
 情緒的拠りどころが、心の安全基地になる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月23日
★人が求めてやまないものには、段階がある。
@水が飲め、物が食べられ、息が吸え、眠れる。
A安心安全が持続する。
B帰属する祖国、仲間、家族、居場所がある。
C承認される。重んじられる。敬われる。
D夢を叶え、理想を実現し、才能と可能性を最大に花開かせる。
E因果に縛られて変滅する繰り返しから解脱する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月21日
★町のパン屋のおじさんは「ご飯を食べて、働いて、安心して眠れ、普通に暮らしていける。それが幸せじゃないの」
 「自由に物が言え、健康で、笑顔で、皆が仲が良いこと」を付け加える人。
 何も求めなければ、ガツガツしないし、失望しないし、人と比べなくなるし、心が静かになるよ、と言う人・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月19日
★自分の存在を否定され、誰からも認めてもらえなかったら、生きていけるだろうか。
 人は、仕事をして褒められ、人の役に立ち、人に必要とされるから幸せを感じることができる。
 ・・との理念から、知的障害者を全従業員の7割も雇用している会社がある。
 幸福の原点は、基本的自尊感情と自己有用感・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月17日
★子豚を連想させる若い女性が、鉄板焼のハンバーグを仲よく食べながら、幸せそうにコロコロ笑い合っていた。
 @美味しく食べられる。
 Aよく眠れる。
 B人と心が通じ合う。
 虐待で傷ついた人達にとっては、これが幸福の定義だという。
 3つとも備えていながら「不満足性」という名のドゥッカに苦しむ普通の人達・・・。
 失ってみて、初めて掛けがえのなさに気づくものばかりだ。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月15日
★もし過去の記憶がゼロになれば、自分が誰なのか、どんな人生だったのか、全て空っぽの透明人間になってしまうだろう。
 記憶こそが人生そのものなのに、想起されるたびに都合よく事実が書き換えられ、修正され、物語になっていく・・・。
 早稲田の街角は暗い青春の象徴だったのに、50年の歳月が流れる間にセピア色から金色に輝く記憶に変質していた。
 圧倒的に美しい記憶の世界が「真実?」となり、どこにでもあるコンビニの増えた現実の早稲田がフェイクになっていく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月13日
★50年の歳月が流れ、早稲田の街は一変し、鮮かな青春の記憶世界と夕闇が迫る現実の街角が重なった・・・。
 自ら堕落を目指す混沌の中にいた当時の一瞬一瞬も、誤解と錯覚だらけだったのだ。
 真実が見失われていく泥沼の中で、事象をありのままに「如実智見」する瞑想に一縷の望みを託すしかない・・
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月11日
★エゴの殻に閉じこもって生きてきた者同士が、本気で人を好きになり、自他の統合が幻想される瞬間があるかもしれない・・・。
 1+1が2ではなく一つのエゴとなり、さらに子が生まれて複数の家族が一つになって自我防衛を始めるまで・・・。
 自分→家族→国家→神→と肥大するエゴ妄想・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月9日
★黒船が現れ外敵の脅威が迫るまで、「日本」という妄想は共有されなかった。
 インドネシアの島々が「国家」という共同幻想で統一されたのは、オランダの苛烈極まる植民地支配が引き金だった。
 ワガママ放題の幼い暴君が、幼稚園で同じ穴のムジナと衝突して、エゴ妄想とエゴ妄想の激突する現実に気づき始める・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月7日
★徴兵令が布かれた明治22年、徴兵忌避者がなんと9割以上。
 「日本」や「国家」という妄想に殉じて死ねる民はわずか数%だった。
 だが、共同幻想を徹底教育して半世紀、特攻隊の若者が機体もろとも次々と自爆していった。
 妄想に生き、妄想に死す人類・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月5日
★未来の夢だけではない。
 失恋の痛手も、出産の激痛も、どんなに苦しかった記憶も、やがて風化し、美化されていく。
 記憶を書き換え、甘美な未来を夢想させ、苦しい現実を誤認させる妄想が充満した人類の脳。
 果てしない輪廻の流れを永遠に続けさせる無明の力・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

3月3日
★妄想する能力を得た人類は、甘く美しい未来を夢見ることによって、苦しい現実に耐え抜こうとしたのだろう。
 美しい夕陽の大隈候銅像は、受験勉強のヤル気に火を点け、合格に導いてくれた。
 そして入学後に、夢と現実のギャップに打ちのめされ、苦と渇愛の構造を学んでいく発端となった・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月25日
★早稲田に所用があったついでに、近くの母校を50年ぶりに再訪した。
 文学部は激変していたが、大隈侯の銅像と時計台は往時のままだった。
 受験の下見に初めて訪れた高3の冬の夕方、真っ赤な夕陽を背景に、黒々と浮かび上がった銅像のシルエットが鮮烈に心に焼き付いた。
 そのイメージが、瞑想に人生を捧げる発端になるとは知る由もなかった・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

2月23日
★「法を拠りどころとし、他を拠りどころとするな」
 ブッダが生涯の最後に説かれた遺訓である。
 だが、法を拠りどころとせず、個人を崇拝し拠りどころとしてしまうのが世の常だ。
 思わぬ人の口から、正しく法が説かれている瞬間にハッとすることもある。
 山川草木の中に法を視る者もいる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月21日
★暮れも正月も、人間が妄想を共有しているだけで、法として存在している訳ではない。
 時ならぬ梵鐘の音に八王子の裏山の狸が目を開いたかもしれないが、『除夜の鐘か・・』とは思わない。
 「音」とサティを入れた人間に近いだろう。
 宇宙にはいつだって、ただの事実が存在しているだけなのだ。
 事実に苦しむのは致し方ないが、誤った認知と勝手な妄想で苦しむのは愚かしい。
 法と概念を仕分け、あるがままに観る瞑想を修行する所以・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月19日
★人生が上手くいかないので、現実逃避のツールとして、瞑想にのめり込む人達も少なくない。
 集中力のあるタイプは、抑圧する力にも恵まれているので、ますますサマーディに溺れ込む。
 そんな瞑想は「現世の楽住」に過ぎない。
 煩悩を一つづつシラミ潰しにせよ、とブッダは言う・・・。(『削減経』)
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月17日
★速歩の瞑想が刻々と脳を活性化していくのは、多角的な脳の使い方をするからだろう。
 全身の体感と六門の情報に細心の注意を払い、速度と姿勢保持と一直線上の歩行を強く意識しながら、身と心と環境を俯瞰するサティ・・・。
 アクセルが踏まれ、脳の処理速度が高速化していくプロセスが快感だ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月15日
★誰にも会わない夜道をスピーディーに歩きながら、毎日約1時間、速歩の瞑想をする。
 MBTの靴を履き、背筋を真っ直ぐに立て、体重を膝の真上に乗せて踵から足の親指に力点を移動させる。
 一直線に正確に足を出し、体幹がブレないように細心の注意を払い、六門開放型のサティを入れ続ける・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月13日
★瞑想対象に集中しようと必死になっていると、なぜか力んでいる自分の姿が俯瞰され、ハッと我に返ることがある。
 サティが本来の機能を取り戻した瞬間だ。
 集中にこだわり、ガチガチだった全身からフッと力が脱け、やわらかく緩んでいく。
 この脱力の瞬間を「軽安」という・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月11日
★認識が確定すると、心は次の瞬間に注意を向ける。
 ガチャン!
 @「音」、A「(割れた)イメージ」、B「驚いた」とラベリング。
 @中心対象の感覚に戻るのか、A花瓶を壊した連想に反応するか、B驚いた自分に違和感を持つか。
 一瞬の経験とその認識が、次の瞬間の反応に影響を及ぼす構造・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月9日
★一瞬の経験が正確に表現されていないラベリングは、粗雑で、曖昧で、もどかしく感じられる。
 だが、直感的な経験をイメージとして積み重ねていくだけでは、動物達と同じではないか。
 言語化されるプロセスで経験に意味が付与され、事象の本質が顕わになるのか。
 本質が直観された直後に、ラベリングの言葉が浮かぶのか。
 完全に同時か・・・。
 各自の修行現場で検証してください。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月7日
★法としての事象がありのままに知覚されても、ゴキブリに悟りの智慧は生じない。
 危険か餌かに機械的に反応する単純なプログラムでは、事象の本質が洞察されることも、煩悩が全捨てされる衝撃の体験にもなり得ないからだ。
 一瞬の経験が、どう認識されたか・・・。
 同じ音、同じ匂いを感じた瞬間、凡夫のラベリングと聖者のラベリングが同じだろうとは思えない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月5日
★ラベリングなしのサティでも、現在の瞬間に気づくことができる。
 一瞬でも言語脳を使うと、集中を高める仕事がやりづらいと感じる人も少なくない。
 身体感覚への気づきはそれでも良いが、微妙な心の動きや意識の流れになると、ラベリング無しのサティでは認知が曖昧になり洞察智が生じにくい・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月3日
★ヴィパッサナー瞑想は、エゴの妄想に毒された人類のための技法だ。
 事実をありのままに知覚するだけなら、ゴキブリも金魚も普通にやっている。
 妄想を排除して知覚した瞬間、どのようにラベリングされ認識されるかが問題だ。
 ガチャン!
 「音」か、「(割れた)イメージ」か、「驚いた」か・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

2月1日
★速歩の歩行瞑想をしながら夜道を歩いていると、突然高笑いが耳に入り、反射的に「聴覚」とサティが入った。
 自分が嘲笑されたのか・・・という印象が形成されかかったが、強引に断ち切られたと感じた。
 ラベリングの言葉は概念だが、それ故に、心に生じようとする概念を消し去る「対消滅」の威力がある・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月30日
★苦受を受け楽受を感じているのはこの「私」だ・・・という印象は、エゴ妄想に過ぎない。
なるほど、「私」が苦しいのではなく、苦の事実があるだけか。
 でも・・・、だから、どうだというのだ。
 業の結果を受けた瞬間、否応なく反応して新たな業を作り続ける輪廻の流れを、これからも永遠に続けるのか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月28日
★自分がこれまでに犯してきた罪業の数々、激怒した瞬間、暗愚な思考・・・その全てが形成した業を思えば、地獄行きだろう。
 心から人のために力を尽し祈りを捧げ、寺に布施をし、懸命に瞑想した一瞬一瞬の業は、天界への再生に通じるかもしれない。
 地獄も、餓鬼も、畜生も、修羅も、人間も、天も・・、もう、因果に縛られた業の世界は、うんざりだ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月26日
★原始仏教の悟りとは、無限に続く生存の流れに終止符を打ち、輪廻から解脱することである。
 もし輪廻転生が無かったら、ブッダは滑稽な馬鹿者になり、仏教は成り立たなくなる。
 いや、そうでもないか。
 輪廻があっても無くても、煩悩を引き算していく人生は、苦しみが減少されていく構造・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月24日
★若い頃は自分の才能が信じられず、不安と自惚れの日々を繰り返すものだ。
 やがて歳月が流れ、ありのままの己の力量と今世でやれることの限界が見えてくる。
 まあ、仕方があるまい。
 自分の宿業が定めた器なのだから、最期の瞬間まで全力を尽くし、来世に繋ぐしかない、と考える輪廻転生論・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月22日
★感謝すべき楽受の日々よりも、苦しかった時期に多くの深い学びを得てきた。
 楽しいのも苦しいのも、どちらも等しくありがたいことだが、しょせん事実をそのように認識しただけのことではないか。
 常に脳内フェイクを生きてきた私も、人には真実は見られないのだ、とこの歳になり腹に落ち、心に沁みてくる・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月20日
★真実であってもフェイクであっても、過ぎ去ってしまえば夢のようだ。
 信頼の絆で結ばれていた掛けがえのない人も死に、毒々しい嫌悪の念を向けてきた人も死んだ。
 愛も信頼も尊敬も嫌悪も軽蔑も・・事実が歪曲されて編集されたエゴの脳内劇場。
 もう猿芝居を止めたいのだが、幕が下せず立ち尽くす日々・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月18日
★人生が思い通りにならないのは、自分が作った膨大な業が否応のない力で現象化し、日々展開してくるからである。
 簡単に変えられるものもあるが、ごくわずかだろう。
 それ故に、嫌なことでも起きたことはそれで良しとし、心汚さず、流れに身をまかせて認知を変えることができれば苦は減少する・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月16日
★大嫌いな人、かけがえのない家族、無二の親友・・がいるのだろうか。
 激怒したり、安らぎを覚えたり、癒された一瞬一瞬に作られた過去の業が、その日その瞬間の経験事象として帰結しているだけではないか。
 揺るぎない絆や犬猿の仲があるのではない。
 業が生滅する束の間の事象の流れがあるだけ・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月14日
★自分が何をやってきたのか、何を話し、どんなことを考えてきたのか、自分の人生そのものだった経験事象が朧になり、やがて忘れ去られていく・・・。
 のみならず、心に焼き付いたはずの記憶が修正され、リメイクされ、事実とかけ離れた妄想のドラマに変容し、エゴの脳内劇場で再演されていないか・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月12日
★肉眼で見た世界は、写真のようなフレームも構図も何もない空間の拡がりに過ぎない。
 視覚を最初に直撃したものが、「乱反射する夕陽」「湖面にさざ波を刻んでいく風」と認識された瞬間、概念化されてしまう。
 写真の美しい色や輝きが一度心に焼き付くと、事実は消え失せフェイクしか残らない・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

1月10日
★日が暮れかかった頃、近隣の沼の畔を散策した。
 何の変哲もない水面が夕陽に照り映え、異様な輝きを帯びて、刻一刻と化けていく・・・。
 あるがままの法としての存在は見難く、脳内フェイクの印象に執着し、最期までダマされ、空かされ、誑かされながら、また死んでいくのか・・・。

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

 

1月8日
★先天的聾あ者が7歳で手話を覚えるまで、過去も未来もない今の瞬間だけに生きていたと証言している。
 言語がなければ時間は発生しないし、記憶を司る海馬が損傷しても時の後先が失われる。
 あるがままの法の世界に生きている動物達に知恵は生じず、言葉と時間の感覚を得た人類は妄想の底なし沼から出られない・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月6日
★あの論理的なドイツ国民が、ナチスの愚劣な幻想を熱狂的に共有していた時代もある。
 夫婦喧嘩をする人もしない人も、百人いれば百人の妄想世界。
 自分は自分のエゴワールドに住しているに過ぎない、と気づけなければ、他人を非難し断罪したくなってくる。
 人には真実は見られないのだ、と心得ておく・・・。
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月4日
★夫婦喧嘩をしているという妻の話を聞くと、とんでもない夫だと同情する。
 次に夫の言い分を聞くと、え、あの人そこまで自己チューなのか・・と驚く。
 物事を認知する瞬間、<選択的注意>が働いて情報の取捨選択がなされていることに気づかない。
 エゴワールドが自動的に形成されていく構造
………………………………………………………………………………………………………………

 

1月2日
★原始仏教の要である四聖諦は、苦の現実、その原因、超克された境地、その最終点に達する8つの道である。
 なぜ苦しくなるかを心得る第二命題は、因果論を正しく理解することだ。
 だが、因果論を学び業論を肝に銘じても、こと自分の問題になるとその理解がブッ飛んでしまう。 
 エゴ妄想に圧倒されてしまうからだ。
 自己中心的な生存欲に端を発する我執から目覚める瞑想・・・。
………………………………………………………………………………………………………………